SSブログ

DESC法ってご存知ですか? [救急医療]

?↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
?

社会の中で暮らす以上、人との関わりを避けて通るわけにはいきません。そんな人の関わりの中で、相手の対応を不愉快に感じてしまうこと、相手を不愉快にさせてしまうことなどの経験は、多かれ少なかれ、誰でも経験することだと思います。人間関係の中における小さな摩擦です。

そして、こういう摩擦を、なんとなく自分の性格のせいにしてしまってる人もいるもけっこう多いかもしれません。

「俺って、引っ込み思案だから・・・・・」
「私って、怒りっぽいのようねええ・・・だから、つい・・・」

などと。

本日は、そんな摩擦を軽減させるべく、ひとつのコミュニケーションの「型」を紹介してみようと思う。DESC法という「型」です。もしかしたら、こういう知識は、医師よりも看護師のほうに普及しているのかもしれないですね。というのは、次に示すネタ本が「ナースのため」というタイトルだから。

ネタ本は、ナースのためのアサーション 平木典子・沢崎達夫・野末聖香 編著 金子書房 です。 アサーションと呼ばれるコミュニケーションテクニックを看護師の現場に即した形で、紹介してある本です。看護師だけでなく医師が読んでもためになるかとは個人的に思います。この本の中で、DESC法が紹介されています。P88より引用してみます。

DESC(デスク)法は、問題解決をするための話し合いをアサーティブにするための方法です。D・E・S・Cの順番にセリフをつくっていくことで問題解決に役立つアサーティブなセリフを準備することが可能になります。このセリフづくりは以下のの3つステップから成り立っています。まず最初は、必要な問題要素を明確化することです。ここで問題としてとりあげたい事柄は何か、そのことについて自分はどのように思って(感じて)いるか、そのことについてどのようにしてほしいのか、その結果相手から返ってくる反応を予測し、そのための準備をどうするかといったことです。次にこうした点について、何を伝えたいのか選択し、それを言語化しようとすることです。そして三つめに、実際のセリフづくりとなります。DESCは、それぞれセリフづくりの手順を示す単語の頭文字です。

では、それぞれの頭文字を説明します。

D:describe 描写する
E:express, explain, empathize
??? 表現する、説明する、共感する
S:specify 特定の提案をする
C:choose 選択する

となっています。

D:describe 描写する について

状況や相手の行動など、今問題になっている場面に関する事実を的確に言語化します。 この際、相手の推量や自分の推量が混じらないように気をつける必要があります。 話し合いの前提となる状況(当然両者の間で納得できるものにかぎる)を整理するわけです。


あなたの腕が未熟だったので誤診された ・・・・・・相手の推量
「私の腕が未熟だったので誤診された」とあなたは発言している・・・・・・事実

E:express, explain, empathize
??? 表現する、説明する、共感する 
について

ここでは、自分の気持ちを表明したり、自分なりの説明をしたり、相手への共感を送ったりします。 大事なポイントは、I メッセージであり、you メッセージとならないことです。

○ 私は、あなたが間違っていると思います。( I メッセージ) 
× あなたはまちがってますね。(you メッセージ)

S:specify 特定の提案をする

ここで、相手にしてほしいことや変えてほしいことなどを伝えます。これはあくまで提案であるので、「~していただけませんか?」という形で言語化します。 「あなたが・・・・・すべきだ」などといってしまうのは、you メッセージとなり好ましくありません。 ここでの提案は、すぐ実現できる具体性のある小さな要求であることがひとつのポイントです。

C:choose 選択する

この記憶術が良いと私が個人的に感じるのは、この「C」があるということです。Sで提案したことに対して、相手は、イエスかノーのどちらかの対応をしてくるわけです。そこで、Cでは、それぞれの場合に、次に自分が打つ手を想定しておくわけです。 イエスだったら、「ありがとう」と気持ちを表明するのも良しですし、ノーだったら、「わかっていただけなくて残念です」と交渉を打ち切るのも良しですし、「では、****だったらどうでしょう」と新たな代替案を提示するのも良しです。つまり、このCを事前に考えておくことで、相手に拒否されたらどうしよう・・・とかいった自らの不安を乗り越えようというわけです。 このCを自分で考えたうえでの相手の拒否の場合は、想定外の拒否に比べるとずいぶんと心的負荷が少ないと私は自己の経験からは感じます。

本日は、DESC法を紹介してみました。 最後に、実践例をひとつ。

救急車で搬入された患者が、救急外来で怒っています。 「俺は、救急車で来たんだぞ!いつまでまた待たすのだ!」と大きな声で怒鳴り始め、ただなならぬ雰囲気が救急外来に広がり始めたところです。 騒ぎ出したところで、この患者には今待ってもらうしかないと私は考えています。そうして、この患者のベッドサイドのところへいき交渉を始めました。

私 「○○さんは、来院して只今3時間45分経っています。(D) 
????? ずいぶんとお怒りのようですね。(D)」

患者 「おい、いつまで待たすのや。 はっきりできんのか! 俺はいらいらしてるんや」

私 「ずいぶんといらいらされているのですね、そうですね。もう4時間ですものね、そのお気持ちはごもっともです。(Empathy)  あなたの診察は、すでに終了しているのですが、あいにく入院病棟のベッドが空くまで、ここでしばらく待機することになりますと、説明していたと思いますが、今現在もその状況に変わりはないのです。(Explain) あまり、大きな声をだされますと、他の患者さんはもちろんのこと、私たちスタッフもいい気持ちがしないのです。(Express)  私たちは、救急外来でたくさんの患者さんを同時にかつ一生懸命診療しています。決して私達の怠慢であなたをお待たせしているわけではないのです。(Explain)

私 「とにかく今すぐ、病棟にもう一度連絡を取り、上がる時間の見通しの再確認をしてみます。 大きな声を出さずに、静かにお待ちいただけないでしょうか?(S)

患者 「 知るか!そんなもん! とにかく早くしろ!!」

私 「わかっていただけなくて残念です。(express) 他の患者さんの診療中ですので失礼します。」と交渉打ち切り(C)。その後、事務スタッフを呼んでこのクレームの対応をお願いすることにした。(C)

結局、患者にはわかってもらえなかったが、少なくとも自分の言いたいことは言えたような気がしました。やはり、私は、Cで、相手に拒否された場合は、事務方へ連絡すると事前に心に決めていたことが大きかったと思います。 

こんな場合、一方的に患者に謝るのは、私はおかしいと思います。だから、謝りませんでした。 かといって、大声をだしている患者に何も言えないというのも癪にさわります。 だから、私は、たんたんとDESCの型にのせて、相手と向き合ったまでです。

もちろん、救急外来には、もっと危険な患者がいる場合があります。例えば、凶器をちらつかすなど。 だから、DESC法を使う以前の状況がある得ることもおかねばなりません。あくまでこれは蛇足ですが。もちろん、速攻警察ですよね・・・・。


コメント(4)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

高齢化社会と死生観についての私見 [雑感]

↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
???

救急の現場で仕事をしていて、体感することは、高齢者の救急患者が増えたなあということである。心肺停止患者にいたっては、殆どが高齢者である。

これからどうなるのであろうか? 厚生労働白書(平成19年)によると年間死亡者数は、今後下図のように推移していくということらしい。75歳以上の死亡者の絶対数(緑色の部分)が直線的に激増していくであろうことが、視覚的に飛び込んでくる資料である。
図1.jpg

なるほど・・・。このグラフ中央の縦線より左は2005年以前の実数値であるから、自分の体感を裏付ける資料となる。
そして、これからは・・・・

すでに救急医療崩壊が懸念されている昨今ではあるが、この資料を前にすると、高齢者の救急医療供給体制の未来は暗いといわざるを得ない。

なにか手はあるのか?

そう、ひとつあるとすれば、一般に「生」を「善」とし「死」を「悪」とするという死生観の社会的変容だ。 参考エントリー:生と死は対立ではない

これは、政府という公の立場としては、なかなか言えないことかもしれない。

しかし、医療者の多くは、心のどこかで強く感じていることではないだろうか? そう思いながら、新聞記事を検索してみた。すると、いくつもの著作をお持ちの救急医、浜辺先生が、興味深いことをおっしゃている記事を発見したので、紹介する。

(耕論)救急医療を救うには 島崎修次さん 浜辺祐一さん 佐藤敏信さん
2008.03.02 朝日新聞 東京朝刊 より一部抜粋

「死の迎え方」考えよう 都立墨東病院・救命救急センター部長 浜辺祐一さん

墨東病院は、重篤患者を治療する「救命救急センター」と軽症まで幅広く診る「ER(診察室)」を備えているが、近年、いくつもの病院に受け入れを断られた末、運び込まれる救急患者が目立つ。東京や大阪などの都市部では、重症に対応する2次救急病院が以前ほど患者を受け入れなくなったためだ。2次といっても、大半は夜間や休日、宿直医が1~2人で急患に対応、手術に必要な麻酔医もいないのが実情。「レントゲンを撮れない」「訴訟リスクがあり専門外は無理」と、救急に消極的になっている。その結果、救命センターがいっぱいになり、本当に重篤な患者を断らざるを得なくなっている。負の連鎖だ。救命センターの負担が増えた原因は、ほかにもある。高齢化社会になり、療養病床の減少、在宅医療の促進で、自宅や老人ホームなどの施設から搬送される高齢者も増えた。
本来、突発の患者に備える救命センターで収容するのは疑問に思う例もある。救命センターの現場にいる者として、国民一人ひとりに考えてほしいのは「死の迎え方」だ。墨東病院に搬送される心肺停止患者は年間約600人。そのうち9割以上が高齢者で、末期がんや高齢者施設で意識が混濁した「大往生」と呼ぶべき患者も多い。東京では、心肺停止患者に対して救急車を呼べば救命センターに運ばれ、心臓マッサージ、人工呼吸、薬剤投与などの蘇生処置へと突き進む。家族は「親が倒れたのに、病院にも連れて行かなかった」という状況を受容できない。高齢者施設も「満足な医療を受けさせない」と評判が立てば死活問題になる。人手の少ない2次救急病院も「処置不能」と断る。だれもが死に責任を持てないために、救命センターで体をチューブだらけにして高額の医療費をかけ、どう見ても生き返らない患者の蘇生に努力する。医療技術や機器の進歩で延命は可能になったが、こうした高齢者は生き残ったとしても意識が戻るわけでなく、大半が医療が不可欠な状態のままとなる。家族から「こんなことを頼んでいない」となじられることもある。そうした患者の転院を受け入れる医療機関は少なく、行き場のない患者が救命センターのベッドを埋めてしまう。その結果、救えたはずの患者を断らざるを得ない事態に陥っている。大げさに言えば、いつか入院中の患者を除けば日本人はみな救命センターで死ぬのではないか。膨大な救急のスタッフと医療費が必要となるが、現実的ではない。一般の病院でみとられる選択や自宅で静かに最期を迎える死もあり得るだろう。患者や家族、医療者の間に健全な死生観が醸成されてほしいと願う。

本来、自然の姿である高齢者の「死」が、救命救急医療という非自然の環境の中で、「不自然な死」として、多くの高齢者が死んでいく現状を浜辺先生は憂っておられるようである。 そういう現状を作ってしまう今の国民の死生観を、非健全な死生観とお感じになっているのだろなと私はこの記事を読んで思った。 個人の価値観によるところが大きい死生観を、健全 VS 不健全 と対立構造においてしまうのは、一部の人からは反発を生みかねない表現かもしれないなと私は思うが・・・・。

私は、今、荘子に関するするいろんな本を読みあさっている。世間の中のあらゆる対立概念を超越し、同じと考える(万物斉同)思想にたつ荘子は、人間の生と死さえも、そう考える。 そんな荘子の思想が、閉塞した今の医療には必要になるのではないかと私は考えている。

荘子に関して最近出た本:荘子の心 P181から引用する。

私たちがこれからしなければならないのは何であろうか?自分の心の中の生と死の闘いを正しく観察しよう。そこに生きていく望みがみえたら、私たちは生きていくことを楽しむことができるし、時代の流れに順応することもできる。現実の中で楽しく生き、一分、一秒ごとに楽しく生きていくことができる。そうして、本当に死に直面する時には、微笑んで平然とそれを迎えることが出きる。そうすれば、臨終に際し、「私は今生において思い残すことはない」と言えるだろう。これはすべての人間が到達できる境地であり、現代の荘子解釈の一つでもある。

今の私たちは、メディア報道の偏向性のために、「死」がセンセーショナルに報じられるという社会の中に暮らしている。例えば、殺人、事故死の報道だ。これらの死は、その頻度はとても低いも関わらず、日常の静かな頻度の多い「死」を、報道の仕方、報道の量などいずれにおいても、圧倒している。その結果、「死」を不安に思い、「死」は避けるべきものといった考えが、多くの国民に浸透してしまう。そうした社会風潮は、間接的に医療の生死の現場で、新たな対立を生み出しているのだろうと私は考えている。

最近、私の周りの方の何人かに紹介した荘子の言葉で、本日のエントリーを締めたいと思います。

荘子 大宗師篇

善夭善老、善始善終
わかきをよしとしおいをよしとし、はじめをよしとしおわりをよしとす。

訳:若さを善しとし、老いを善しとし、生まれたことを善しとし、死ぬことを善しとする。
(荘子 第一冊 金谷治 訳注 P185)

今を善しとして今を生きることが、いつかは必ず迎える「死」を受容できることにつながるのではないでしょうか?


コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

事故調医療ミス否定なのに賠償命令? [医療記事]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
 

今朝の読売新聞(大阪)朝刊に、こんな記事がありました。まだ、ネットでは記事を検索できませんでしたので、手書きで引用します。

ラジオ波治療死亡と因果関係
病院機構に賠償命令

大阪府立急性期・総合医療センター(大阪市住吉区)で「ラジオ波治療」を受けた60代男性患者が死亡した医療事故を巡り、男性の遺族4人が同センターを運営する地方独立行政法人「府立病院機構」と担当医らに約1億2000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、
大阪地裁は27日、医療ミスを認定したうえで、死亡との因果関係を認め、「ミスがなければ治療後4年間生存できた」と、同機構などに4300万円の賠償を命じた。判決では、肝臓がんだった男性は、2004年8月、AMラジオと同じ周波数の電磁波を出す針を患部に差込み、がん細胞を焼くラジオ波治療、腹膜炎を起こすなどして約3ヶ月後に死亡した。判決は「担当医が治療時、エコー画面の変化を見逃し、通電を続けた過失がある」と指摘した。
(読売新聞 2008年6月28日 朝刊 大阪)

これだけ、読めば、「医者がミスったんだろあなあ・・」という印象を読者の方々はお持ちになるでしょう。メディア情報を自分なりに解釈する際、書いてあることだけなく、「書いていないことは何か?」と思慮する習慣を持つことはとても重要であると思います。それが、メディアリテラシーの基本の1つだと思います。 何を書き、何を書かないかという情報の取捨選択が、新聞社の意図によって必ずなされているからです

ここでは、皆様が、この今朝の記事を評価するに当たり、ひとつの情報を提供しましょう。
読売は、その情報を持っているにも関わらず、今朝の記事には提示しなかったものです。その真の意図については、私は知る由もありませんが。

その情報とは、読売が過去に報道したこんな記事です。

大阪の医療センター・ラジオ波治療男性患者死亡 事故調、「偶発的」ミス否定
2005.06.02 大阪朝刊 31頁 (全498字) 
「偶発的」医療ミス否定 事故調査委が報告
府立急性期・総合医療センター(住吉区)で昨年、「ラジオ波治療」と呼ばれる針を用いた療法を受けた60歳代の男性患者が死亡した事故を受け、同センターの事故調査委員会(委員長=中室嘉郎(かろう)・同センター副院長)は1日、「患者の体の動きによる
偶発的要素が濃く、医療ミスではない」とする調査報告を発表した。報告では、昨年8月、主治医(43)と部下の医師(27)が同療法を実施。高熱の針を肝臓に差し込む際、患者が動いたため、誤って小腸に穴を開けた。その結果、「肝不全の進行が早まった」とし「より慎重な配慮を行うべきだった」と認めたが、死亡との因果関係については「府警が捜査中」として明言を避けた。治療は、AMラジオと同じ周波数の電波を出す針を患部に差し込み、60~70度の熱で周囲のがん細胞を焼く療法。患者は緊急手術後に一時回復したが、その後容体が悪化、昨年11月に亡くなった。報告について、主治医と医師を業務上過失致死容疑で刑事告訴した遺族は「事実に反する内容で、怒りと悲しみでいっぱい。病院は自己弁護ばかりせず、真実を明らかにすべき」とするコメントを発表した。  読売新聞社

調査報告書は、裁判には通用しないのでしょうか? 調査委員が身内だったから通用しなかったのでしょうか? 

この二つの報道記事を素直に結びつけて考えれば
調査報告書では、ミスは否定しているにもかかわらず、裁判官はミスを認定した
ということになります。

どうしてでしょうか? もっと私たちが知りえない何か?が隠れているのでしょうか? 

やはり、裁判官による遺族救済の主旨のためなのでしょうか?ならば、医療者側の気持ちはどうなるのでしょう?

私は、単純に不思議に思います。皆さんはどうお感じになりますか?

読売新聞は、この辺りの事情について、もっと取材し、報道する社会的責務があると私は思います。


コメント(12)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

入院依頼の紹介患者 [救急医療]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

急性期病院で、仕事をしていると、近くの開業医の先生方から、「入院させてください」という形で依頼を受けることも多い。

一方、救急初期診療の仕事は、主に「的確なdisposition」を決定することである。

dispositionとは? diposition=気質・体質・配置・処分・売却 という和訳が辞書にはあるが、直訳ではどれもいまひとつピンと来ない

救急初期診療の現場で使う「diposition」とは、次のような意味である。日本救急医学会のHPから転記する。http://www.jaam.jp/er/er/er_faq.html#erfaq06

ERドクターが行う救急初期診療とは、診断・初期治療・advanced triage(disposition)をさします。ちなみに、advanced triage(disposition)とは、救急患者の方向性のことで、具体的には、帰宅させるのか入院させるのか、入院させるのならどの科にどの時点で話を持っていくかの判断のことです。

不的確なdisposition を出来るだけ減らし、的確なdipositionを出来るだけ増やすことは、患者側と病院側の双方にメリットがある。そこに、私の存在意義があるのだろうと思っている。

「入院させてください」という紹介は、dispositionを紹介元が初めから決定してくれていることになる。ならば、そのような患者に対して、救急初療の必要性は不要という具合になろう。 

なので、「入院依頼」の患者の場合は、私達の「診断思考」もつい停止傾向になる。 そこに落とし穴が潜んでいる場合もある。

いくつか実例を挙げてみよう

症例1  89歳女性  
大腿骨頚部骨折(確定済み)で、整形外科開業医から、整形外科へ入院依頼

症例2  90歳女性  
元来、ADLは自立。一人ぐらし。この一ヶ月で食欲が低下。ADLも落ち、清潔感が明らかになくなっている。この患者の初診をした内科開業医から、栄養調整目的で内科入院依頼

症例3  75歳男性  
肝硬変で近医フォロー中の患者。この二週間で意欲と食欲が低下。この患者のかかりつけ医である内科開業医から、肝硬変に対する対症療法目的で消化器科入院依頼

実際は、3症例とも、同じある専門科で対応しないといけないものだったのだ。

つまり、「入院依頼ですね。はいはい、わかりました。どうぞ!」というウェルカムスタンスだと、結局、入院を指定された科が、後になって地雷を踏まされるという可能性もあるわけだ。

この3症例のうち、一例は、残念ながら、救急外来という関所をスルーして、入院後に大変なことになってしまった。 二例に関しては、その関所でなんとか方向修正に成功している。

この3例に共通する「ある専門科」とは何科のことでしょう? 

(6月21日 記 :コメント承認制です)

(6月22日 追記)
たくさんのコメントありがとうございます。あえていろんな可能性までお示しくださり、ありがとうございました。こちらも勉強になります。では、続けます。

3例に共通する「ある専門科」とは、脳外科のことでした。 各症例の疾患です。症例1:急性硬膜下血腫、症例2,3:慢性硬膜下血腫です。

急性硬膜下血腫の頭部CT画像はこんな感じです。 ⇒あなどれない頭部打撲
慢性硬膜下血腫の頭部CT画像はこんな感じです。 ⇒こちら

症例1は、整形外科病棟で、意識レベルが低下し、急変しました。 急変後にCTを撮って、初めて急性硬膜下血腫とわかったわけです。紹介元の整形外科医も、ファーストタッチをした救急初療医も、病棟担当の整形外科医も、誰一人、骨折受傷時の状況をきちんととっていなかったのです。かといって、きちんととっていたからといって、急変する前に急性硬膜下血腫の診断ができたどうかは誰にもわかりません。急変した後から時間をさかのぼって考えるときは、誰しも後知恵バイアスがかかりますから。 それでも、受傷時の状況を誰一人として押さえていなかったこと事態は反省に値すると思います。

私が、患者さんまたは関係者(家族や目撃者など)から受傷機転に関する問診をする時、よく言うことがあります。

「私は、今お話を聞きながら、頭の中で一生懸命、絵を書いています。」「私に絵が思い浮かぶような情報を下さい」

受傷機転をきちんと押さえておくことは、適切なdispositionを決める第一歩だと私は思うからです。

この患者さんは、脳外科治療が優先され、落ち着いてから整形外科に転科となって、なんとか両者の治療に成功しています。

症例2は、私1人で対応した事例でした。

身体所見、胸腹部レントゲン、心電図、採血などでは、大きな所見はありませんでした。詳しい病歴を聞いても、なかなかピンと来ませんでした。そうするうちに、私の中では、「認知症かなあ?」などの思いがよぎり始めました。 救急診療の大原則は、「先ずは器質的疾患から」です。それに忠実に従うために、まだやっていなかった検査として頭部CTを思いつきました。それで、慢性硬膜下血腫とわかったわけです。 つまり、引き算診療という「診療の型」のおかげで無事診断にたどり着き、内科入院ではなく、脳外科紹介という形で舵を切り替えることが出来ました。

症例3は、私たちの診察の最初から、慢性硬膜血腫が射程内にありましたから、診断には苦労しませんでした。 診断が付いた後、電話で紹介元の先生に速報でお知らせしたら、「ああ~~!!、そうでしたかあ!気がつきませんでした。」と妙に感謝されました。

慢性硬膜下血腫は、時間的な経過からすれば、地雷的なものではありませんが、CTを撮りさえすれば直ぐ診断できてしまうだけに、後でわかればわかるほど、前医の立場が、見逃しという目で見られがちになってしまいます。

まとめます。 低血糖はすでに除外済みという前提での教訓です。

本日の教訓
高齢者の何か変? もうそれだけで、慢性硬膜下血腫を想起しよう

コメント(28)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

あなどれないめまい [救急医療]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

本日は、岡山で開催されたプライマリケア学会に参加してきました。 生坂先生の講演、徳永進先生の講演などを拝聴してまいりました。これです。

■特別講演 6月15日(日)9:00~10:20 第1会場(3Fコンベンションホール)
演題:「外来診断学-その教育と問題点-」
座長:岡山大学病院総合診療内科教授    小出 典男

演者:千葉大学医学部附属病院総合診療部教授    生坂 政臣
■記念講演 6月15日(日)10:30~11:50 第1会場(3Fコンベンションホール)
演題:「かかりつけ医の症例バザール」

座長:第31回日本プライマリ・ケア学会副会頭    小谷 秀成

演者:野の花診療所院長    徳永  進

それぞれ大変興味深いお話でしたが、ここでは、そのご講演内容の報告ではなく、あくまで症例提示です。
生坂先生のお話の中から出たものを1例、ずいぶん昔の自分の体験例ベースの症例を1例提示します。

症例1 43歳女性 めまい

N月X日、短時間の動悸を感じた。X+1日昼、電話中、目線を上げた瞬間、思考力が無くなるようなめまいを感じた。10分ほどで消失。その後、後頚部の張りが残ったが、翌日には完全に良くなった。N月X+4日、千葉大学総合診療部の外来を受診。既往歴 なし(かかりつけ医なし)

症例2 56歳男性 めまい

N月X日、仕事中に突然めまいを感じた。発汗もともなった。 一瞬、しゃべりくいような自覚もあったという。頭痛や胸痛はない。 会社の同僚が119コールして当院へ搬送された。 脈不整あり。既往歴 なし(かかりつけ医なし)

症例1と症例2は、それぞれ異なる疾患です。

さて、それぞれどんな地雷の可能性を想定しますか?
特に、細かいデータは提示しません(というかありませんでした・・・症例1では)ので、確定云々とういより、ワーストシナリオをどう想定するかということになりましょうか。

(続きは後日  6月15日 記  ※コメント承認制に変更しています)

(6月17日 追記)

皆様、コメントありがとうございます。さっそく、それぞれの症例の続きに入ります。

(症例1)

もし、この症例で、目に付くキーワード 「動悸」「めまい」を中心に考えると、ついパニック発作などを考えてしまうかもしれません。生坂先生は、そういう危険性を次のように指摘されました。

言語化の遮断効果:言語化により言語化されにくい情報が処理されなくなる。

この症例で言語化されにくい情報はどこにあるのでしょうか?次の二点でしょうか。

・思考力がなくなるようなめまい
・症状が完全にもおさまっているにも関わらずいきなり大学病院を受診する強い受療動機

ぶっちゃけていえば、何か変?という感覚です。
たしかに、私もよくわかります。 私は、現場ではこの非言語的な感覚をオーラとか言っています。

こうした何か変という感覚をもって、今一度病歴を眺めなおすと、

突然発症の症状+後頚部のはり

というのが、ワーストシナリオに結び付けて考えることができるかもしれません。

この症例は、CTではっきりとわかるくも膜下出血(SAH)だったのです。 生坂先生は、どんな原因によるSAHかについては言及なされませんでしたが、この症例は、椎骨脳底動脈解離にともなうSAHだったのでしょうか? とすれば、めまいも合うような気がしますが? 脳外科医の先生の専門的なご意見をお伺いしてみたいものです。

ただ、この病歴でSAHの診断に到達できなかった場合に、「すぐにCTさえ撮れば、簡単に診断できたはずだ」と診療の批判するのは、酷な症例だと私は思います。

この症例のように、SAHの診断は、大変困難場合があるということを強調しておきます。そして、この症例は、そういう困難な症例を、見事に千葉大学総合診療部が的確に診断しえたものだと評価するのが妥当だと思います。まさに、「診断力」の勝利だといえると思います。

一般の方々に誤解されたくないのではっきりといいます。この診断レベルはものすごく高いです。だからこそ、我々が勉強させていただく価値があるのです。だからこそ、生坂先生は学会で講演を依頼されるわけです。 この診断が、世の標準レベルと思ってもらったら困ります。その点はよろしくお願いします。

生坂先生の本で、お勧めの本があります。
めざせ!外来診療の達人―外来カンファレンスで学ぶ診断推論  第2版

この本は、生坂先生のすばらしい診断プロセスの思考過程を読み物形式で通読することができます。 

さて、次は症例2です。

これは、症例1と類似したケースを出したくて、自験例からの提示です。 すでに皆様のコメントにありますとおり、私たちも、心房細動(AF)+脳梗塞の病態を最も想定しました。 そこで、AFを確認するために来院最初に12誘導心電図を当然のように撮るわけです。

ところが!ところが!ところが!

AFだけでなく、なんとST上昇型心筋梗塞(STEMI)の所見も呈していたのです。 これには、正直驚きました。STEMIは全くノーマークでした。その心電図を見た後なので、我々は、胸痛などの心筋梗塞関連の諸症状を積極的に問診にいくわけですが、その問診にヒットしたのは発汗くらいでした。

結局この患者さんは、循環器科入院になりました。ただ、脳梗塞様の症状があったこととバイタルや自覚症状が安定していたことにより、循環器スタッフが十分な検討の末、まずは、侵襲的なこと(冠動脈造影検査のこと)をせずに点滴加療のみで様子をみることから始める方針となったのです。 翌日にCPKが1200でマックス、AFは洞調律になりました。後日の頭部MRIと待機で行った冠動脈造影検査は、ともに異常なしでした。

以上のことから、あくまで推定病態の域には留まらざるを得ないのですが

発作性心房細動+同時塞栓症状(一過性脳虚血発作+心筋梗塞)

と考えました。

絶対に問診では、わからないSTEMIがあるよということを伝えたくて、この症例を挙げてみました。

どうでしょう? 
2症例ともめまいの触れ込みで救急外来に関わらず、それぞれ全く異なる代表的な地雷疾患であったわけです。

めまいもあなどれないですね・・・・・

「めまい=耳鼻科疾患」という発想では、いつの日か地雷を踏んでしまうことでしょう。 

めまい症例に遭遇したら、全例CTとECGというわけでは決してありませんが、何かオーラを感じる場合は積極的にできる検査をやっておいた方がいいかもしれませんね。とにかく、何年やっても救急外来は恐ろしいところです。

非言語的感覚(オーラ)を体得していくのは、日々現場で患者と接する他は無いのかもしれませんね。

まとめます。

本日の教訓
めまいといえども恐ろしい地雷疾患の場合もある

 


コメント(19)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

自分の「あるべきやうわ」を考える [雑感]

?↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
???

久しぶりの更新です。今後は、更新の頻度を落としてのんびりとやっていこうと思っています。

皆さんは、鎌倉時代の僧、「明恵上人」をご存知でしょうか?

様々な新仏教が台頭してきた平安末期から鎌倉時代。 明恵上人は、その派手な歴史舞台にはあまり出てきません。 しかしながら、その生き様を支持する現代人はけっこう多いようです。

実際、明恵でぐぐってみれば、いろいろとヒットします。
ここでは、これをリンクしておきます。絵本形式なのでわかりやすいかも。

明恵上人が残した有名な言葉に「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」があります。

どんな意味なのでしょうか? 明恵夢を生きる 河合隼雄著 より引用します。P251~P253

明恵が提言している「あるべきやうわ(あるべきようは)」ということは、簡単にわかる気もするが、それほど簡単でないようにも思われる。(中略)日本人としては、すぐに「あるがまま」という言葉に結び付けたくなるが、わざわざ「あるべき」と、「べし」という語が付されているところに、意味があると感じられる。(中略)日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」のありようにつながるのであり、それらをおろそかにせずになし切ることに、「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。そこには、強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあることを知るべきである。(中略)明恵が「あるべきやうに」とはせずに「あるべきやうは」としていることは、「あるべきやうに」生きるのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行い、その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。戒を守ろうとして戒にこだわりすぎると、その本質が忘れられてしまう。さりとて、本質が大切で戒などは副次的だと思うと、知らぬ間に堕落が生じてくる。これらのパラドックスをよくよく承知の上で、「あるべきやうわ何か」という厳しい問いかけを、常に己の上に課する生き方を明恵はよしとしたのだろう。

もうひとつ引用します。 恋い明恵 光岡明著 P193より。

いま「あるべきようは」は「人それぞれの境遇、能力、職業などに即して、心身共に今現在まさに行うべきことを行うのがよいとの思想、精神をあわわす語」(岩波「仏教辞典」) と定義されています。

私は、それらの心境に、少しでも近づきたくて、先日休みを取って、京都の高山寺まで足を運びました。

JR京都駅からバスに揺られること1時間弱。終点の栂ノ尾についた時には乗客は私一人でした。
ずいぶんと遠いなあと思いました。静寂な木々の深い緑とその隙間から差し込む初夏の光の調和がすばらしい所でした。きっと瞑想にふけるにはうってつけの森だったのだろうなあと感じた次第です。
No 055.jpg

No 003.jpg

そして、高山寺 石水院という建築物の中に入ると、掛けられた一枚の掛け板がありました。その解説には、「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ) 明恵上人が上人自身の日常規制を棒板に白墨にて自筆したもの 」と書かれていまいした。ただ、現物を見ても、字がかすれてよくわかりませんでしたが・・・・。あとは、複製ではありますが、鳥獣戯画の絵巻明恵上人樹上座禅像などを拝観することができました。

医療崩壊の昨今、 大きな社会の流れの中で、変わるもの、変わらないもの、変えられるもの、変えられないものがある。自分が自分としてのそれらにどう付き合っていくのか?

医療者は医療者としての、患者は患者としての、為政者は為政者としての・・・
それぞれの立場で、それぞれの「あるべきやうわ」があるのだと思います。

私自身の、「あるべきやうわ」・・・・・・

すぐには、見えません。今ゆっくりと考えています。

先人達の知恵は、私たちにいろんなことを教えてくれます。 それを自分の中で自分なりに咀嚼して、自分の生き方にプラスになればよいなあと思います。

皆様も、皆様自身の「あるべきやうわ」を考えてみるのはどうでしょう? 皆様自身の生き方をより有意義にするために。


コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ブログ出版のお知らせ [雑感]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
 

当ブログの一部が、今回三輪書店より出版の運びとなりました。6月第2週以降には、書店に並ぶであろうとのことです。

今回の出版に際し、多くの方々のご協力やご助言がありました。そのおかげをもちまして、ようやく出版できることになりました。 関係者の方々に、厚く御礼申し上げます。

特に、出版に際してのコメント掲載の許可を下さったコメンテーターの先生方あってこその出版だと思っています。本当にありがとうございました。

表紙はこんな感じです。
図1.jpg

目次はこんな感じです。
図2.jpg

amazonへのリンクは、こちらから。

私自身、ブログの匿名性に絶対的なこだわりをもってきたわけではありませんが、これまでは匿名を前提に情報を発信してきました。しかしながら、出版化をもって、ブログの匿名性は消失したものと考えています。それをふまえて、今後のブログ運営を考えました。

で、今後のブログ運営の方針です。

1) しばらく更新をお休みします。
最近、私自身の興味が、人間の心と生き方のあり方を見つめることに、向かっています。そういう意味で、自分と向き合う時間が欲しいなあと思うわけです。出版というのは、いい一区切りかなあと思いましたので、このような方針としました。まあ、気が向き次第、ぽつぽつと書くかもしれないし、しばらく放置するかもしれません。それは自分でもわかりません。

2) コメント・トラックバックを承認制にします。
匿名性が消失する以上、自分の制御できないところで、不適切な情報(非匿名性故になしえる具体性の高い情報など)がコメント欄に流れてしまうリスクを心配します。承認制への変更は、そのリスクを軽減させるための措置とご理解ください。常連のコメンテーターの方々には、大変ご不便をおかけしてしまいますが、何卒ご協力のほどをお願いいたします。

まあ、こんな気ままな方針ですが、今後ともよろしくお願いいたします。


コメント(18)  トラックバック(4) 
共通テーマ:日記・雑感

医療ミスはいけないことでしょうか? [医療記事]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

今日は、こんな問いかけをしてみたいと思います。

「医療ミスはいけないことでしょうか?」

と。

あえて医療ミスという言葉を使いました。このエントリーで意味する「医療ミス」という言葉は、「医療従事者の法的な過失の有無は問わない」 という意味合いでお考え下さい。つまり、医療事故のほうが本当は適切かもしれません。ですが、ここでは、あえて医療事故とはせずに、医療ミスとしました。以下の引用記事との兼ね合いを考えたためです。それにご留意のうえ記事をお読みください。お願いします。

なぜ、こんな問いかけをするかといいますと、今の医療が、あまりに単一の価値観に支配されてしまっているのではないかと私は個人的に危惧しているからであります。私の意味する単一の価値観とは、「生を絶対視すること」です。 この価値観からは、当然「医療ミスはいけない」という価値観が派生します。

確かに、「医療ミスはいけない」という単一の価値観があったからこそ、
今の医療は発展してきたのだと思います。リスクマネージメントの学問の分野も発展してきたのだと思います。それはそれですばらしいことだと思います。

そういう点は、この価値観の「明」の側面でしょう。

では、今の医療崩壊の現状においてはどうでしょう?
この単一の価値観のために、あまりに医療が窮屈になりすぎてはいないでしょうか?

例えば、事故調査委員会を国をあげて作ろうという話。「医療ミスはいけない」ことだから、国を挙げて組織を作ろうということですよね。理念はすばらしいかもしれませんが、実際は、いろんなところで利害関係が対立して、次々と対立構造が出現している気がしてなりません。そんな対立を続けていて、日本の医療はハッピーになるのでしょうか? 私はそんな疑問を感じています。

「医療ミスはいけない」ことだからと、時に医療者は、法で裁かれます。その中には、医療者が到底納得のいかない裁きもあります。そのような社会の価値観ゆえに、医療者側が今、悲鳴をあげ、そして医療システムが崩壊へむかっています・・・。このままで、日本の医療はハッピーになるのでしょうか? 私はそんな疑問も感じています。

また、「医療ミスはいけない」という単一の価値観は、ゼロリスクの無限地獄へと突き進み、あらゆる資源を枯渇させてしまわないかという危惧も私は感じています。

そういう点は、この価値観の「暗」の側面かもしれません。

では、この価値観を変えてみたらどうでしょうか?例えば、

「医療ミスはあってもいいんじゃないか」 

という価値観はどうでしょうか?皆さん、受け容れられますか?

では、もう少しソフトに、

「医療ミスかどうかこだわらなくてもいいじゃないか」

という価値観はどうでしょう?これならば皆さん、受け容れられますか?

今、私は、救急医療の現場のど真ん中にいて、何か医療に対してとても窮屈な感じを受けています。 もっと医療の中に、いろんな価値観が浸透してほしいものだと思います。

今回、こんなことを考えるきっかけとなった記事はこれです。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/news/20080603-OYT8T00043.htm
医療ミスで85歳女性死亡

富山市民病院
 富山市民病院(泉良平院長)は2日、昨年5月に入院中だった市内の女性(当時85歳)が、呼吸を確保するための医療器具「気管カニューレ」
交換時のミスで死亡したと発表した。会見した泉院長は、「市民の命と健康を守るべき当院で、あってはならない事故を起こした」と謝罪した。県警などには届け出ているといい、県警は業務上過失致死などの疑いで捜査している。女性の遺族とは今年5月下旬に示談が成立した。

 発表によると、女性は昨年4月下旬に意識障害のため救急搬送され、脳内の血腫(けっしゅ)を取り除く手術後も意識不明の状態が続いていた。入院6日目に、呼吸を確保するために、気管を切開しカニューレの使用を始めた。

 切開した個所を清潔にしておくため、カニューレは1週間に1回程度交換。入院30日目の5月下旬、担当の20歳代男性医師が女性看護師2人とともに内径8ミリのカニューレを交換したが、この30分後、女性が心肺停止状態になっているのを発見。女性は約2時間後に死亡した。

 事故原因究明のため設置された「医療事故調査委員会」委員長の山城清二・富山大学付属病院総合診療部教授によると、女性の死因は窒息死。県警の司法解剖の結果「気管の背中側の壁に穴があった」といい、「カニューレを誤って挿入し、気管を突き破ったのではないか」と話した。

 「カニューレ交換は特別に難しい処置ではないが、きちんと挿入されているか確認すべきだった。リスクの認識が足りなかった」と注意を促した。同病院は、調査委員会の提言を受け、マニュアル整備や処置実習などの再発防止策をとった。

(2008年6月3日 読売新聞)

「医療ミスはあってはならないもの」という価値観が根にあるからこそ、こういう報道が世に出てくるのでしょうね。 「市民の命と健康を守るべき当院で、あってはならない事故」という発言の裏にある価値観はまさに、「医療ミスはあってはならないもの」なのでしょう。

私は、老子・荘子を学んでいくうちに、「一つの価値観にこだわり囚われて生きることは、人生の幅を狭めることになるんだなあ。」とはっきりと感じるようになりました。そんな目で今の医療を眺めてみると、医療の中にも価値観の多様性がもっとありさえすれば、救われる道が開けてくるのではないかとも思います。残念なことに、今の医療は、生の絶対視という一面的な価値観に余りにも支配されすぎてはいないかというのが、私個人の考えです。

今回引用した記事に関して言えば、きっと患者は人生をかんばって生きてたと思うし、医療者もとてもがんばってきたと思います。だからこそ、遺族は示談に応じたのだろうと私は思います。ただ、記事以上の根拠はないので、より正確には、私は、そう思いたいと言ったほうがいいのかもしれません。 とにかく、なぜ、こんな形でわざわざ報道するのだろう?と私は疑問に思いました。報道のメリットは何なのだろうと思いました。

もし、この事例を、「仕方がないこと」として報道したら、いったい世の中どんな反応があるのでしょうね?

「医療ミスかどうかこだわらなくてもいいじゃないか

こんな価値観がもっと社会に認められれば、医療崩壊のあり方も変わるかもしれません。

私は、今の医療事情を見据えながら、医療とどういう関わり方をしたら良いのか、じっくりと考えていきたいと思う毎日です。


コメント(23)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

救急外来でのある看護師の涙 [救急医療]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

今日紹介するのは、ある救急病院のある日の一こまです。医師会員制の某サイト内に紹介されたものです。本日は、その一部をここに紹介し、救急医療というものを皆様一人ひとりが考えてくだされば幸いです。

ストレッチャーを病院じゅうからかき集め、救急初療室はもちろん、観察室も人が通れないほどの患者様で埋め尽くされました。

方々から赤ん坊の泣き叫ぶ声、お年寄りのうめき声が聞こえ、誰かが看護師・医師を呼べば、また次が呼ぶということが繰り返され、そのたびに仕事が中断し、医師も看護師も病院職員も、食事を摂る間もなく朝から夜まで一生懸命働き続けました。

まるで大災害の後のような光景でした。

本当にみんなよくやったと思います。
こんな状況でも決して救急要請を断ることなく、急患の受付も断らなかったのですから。

でも、とても悲しいことが何回もありました。

それは、病棟になかなか上がれないこと、結果の説明が遅れていること、診察が遅れていることに腹を立てられた多くの患者やその家族から、何度も医師や看護師に対する苦情があったことです。

激昂され収まりがつかない患者・家族の場合、その対応に私が呼ばれました。
私は、謝罪した上で、「大変多くの患者様が来院されており、重症の患者様から順番に診させて頂いているのでご理解下さい」と誠心誠意お話ししました。
ですが、何人かの方から私達の心が折れてしまいそうな辛い言葉を浴びせられました。

「それなら何で受け入れたの?無責任じゃない。対応できないとわかっていて何で前もって言わないの?」と。

確かに患者様とそのご家族の立場に立てばその通りでしょう病気のつらさ故、肉親の急変に動揺したが故のキツイ言葉だったのかも知れません。
でも、あまりにつらい言葉でした。

ある看護師は耐えきれず控え室で泣いていました。

私は、どんな患者も決して断ることなく受け入れることにより患者を幸せにし、その喜ばれる姿を我が幸せとする為に今の仕事をして来たつもりです。
ERの仲間達の多くも同じ気持ちだと思っています。

でも、双方ともにハッピーになれていないのはなぜなんでしょうか?

「それは一部の人だけだよ。大部分の人はハッピーになっているよ」と仰有る方もあるかも知れません。
ですが、私にはそうは思えませんでした。
救急初療室、観察室、ウォークイン待合室、どこを歩いても、その場にいる患者や家族から一斉に私に鋭い視線が注がれ、そのどれもが厳しい眼差しでした。

長くなって申し訳ありません。
そこで皆様にお伺いしたいこととは、こんな場合、どうすれば双方少しでもハッピーになれるか、ということです。

いかがでしょうか? 以前、私も似たような環境にいましたので、この現場の様子、痛いほどわかります。そして、看護師さんの涙もわかります。

はたして、医療を受ける側の方々は、こういう状況にあっても、医療者は救急患者を受けるべきなのでしょうか?それとも、受けるべきではないのでしょうか?

そして、こういう状況の中で生じた悪い結果は、世間は許してくれるのでしょうか?
ちなみに、世間ではこんな判決もあります。⇒待ち時間に潜む地雷

生へのこだわりは、人間の根源的な欲望です。 そして、今の日本社会は、欲望実現をめざす社会です。そんな社会だから、この記事にありますように、「双方ともハッピーになれない」という事態が発生するのだろうと最近の私は思っています。 医療者の方と、医療を受ける方とでは、それぞれ立場が違いますから、いろいろなご意見があろうかと思います。 皆様の自由なご意見をお聞かせ願えれば幸いです。


コメント(36)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

産経の報道に物申す [医療記事]

?↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
???

産経さんが、またやってくれました。 匿名の記事です。

救急現場に携わるものの一人として、この記事はとても不愉快です。現場で頑張る多くの医療者の気持ちを害するものだと考えます。後から、こんな風に、えらそうにいわれる筋合いはないと思います。

【主張】救急現場事故 正確な情報伝達忘れるな

救急医療の現場にはさまざまな急患(急病の患者)が運ばれてくる。急患の嘔吐(おうと)から有毒ガスが発生するような想定外の事態も起きる。救急病院はそれにも対応し、患者の命を救わねばならないから大変である。

 熊本赤十字病院(熊本市)の救命救急センターで農薬を飲んで自殺を図った男性を治療中、男性の嘔吐物に含まれた農薬が気化し、塩素系の有毒ガスが発生した。このガスを吸った救急外来の患者や医師、病院の職員ら計54人が体調を崩し、うち高齢の女性患者が重症となった。男性は死亡した。

 こうしたケースに備えるためにも病院は非常事態に対応できるマニュアルをきちんと作り、それを柔軟に活用していくことが肝要である。救急医も毒物などに対する幅広い専門知識を身につける努力を怠ってはならない。

 男性が飲んだ農薬は、液体の「クロロピクリン」と呼ばれる農薬だった。刺激臭があり、揮発性が高い。殺虫剤として使ったり、農地の土を消毒したりする。大量に吸い込むと、呼吸困難に陥る。劇物に指定され、使用時は防毒マスクが必要だ。

 熊本赤十字病院によると、地元の農家ではクロロピクリンを「ピクリン」と呼んでいる。男性を搬送した救急隊もこの略称で病院に連絡した。ところが、病院が専門書やインターネットを使って調べても、ピクリンという断片的な情報ではクロロピクリンという農薬に結び付かなかった。


 最終的にクロロピクリンと特定できたのは、それが入っていたビンが病院に届いてからだ。有毒ガスの発生から1時間半も経過していた。病院側は「クロロピクリンを飲んだ自殺は非常に珍しく、把握が難しかった」としながらも「毒物が特定できていればあらかじめ患者を避難させるなどそれなりの対応ができた」という。

 救急医療はその仕事のきつさから産婦人科や小児科、外科と並んで医師不足が問題になっている。しかし、そんな過酷な状況にあっても事故の原因を究明し、再発防止に結び付ける姿勢は忘れてはならない。

 今回の医療現場の事故では自殺を図った男性の情報が救急隊から病院に十分伝わっていなかった。これが有毒ガス発生による事故が起きた原因のひとつだろう。救急隊も病院も正確な情報伝達の重要性を改めて自覚したい。

この記事を書いた記者の意図ではなくて、私の意図を元に書き換えてみると以下のようになります。どうぞ、読み比べをしてください。

【主張】救急現場事故 リスク報道も忘れるな

救急医療の現場にはさまざまな急患(急病の患者)が運ばれてくる。急患の嘔吐(おうと)から有毒ガスが発生するような想定外の事態も起きるのである。救急病院はそのような想定外のことも起きうるリスクのある所ではあるが、それでも、患者の命を救うべく、日々努力を重ねている

 熊本赤十字病院(熊本市)の救命救急センターで農薬を飲んで自殺を図った男性を治療中、男性の嘔吐物に含まれた農薬が気化し、塩素系の有毒ガスが発生した。このガスを吸った救急外来の患者や医師、病院の職員ら計54人が体調を崩し、うち高齢の女性患者が重症となった。男性は死亡した。

 こうしたケースに備えるためにも病院は非常事態に対応できるマニュアルをきちんと作り、それを柔軟に活用していくことが肝要であるという主張もあるかもれないが、物事には何事も限界というものがある。もちろん、救急医は日々十分な努力をしているが、それでも防ぎ得ないリスクというものが世の中には存在する。そんなリスクがあってもそこで働き続ける医療者に、我々は感謝の気持ちを忘れてはならない。

 男性が飲んだ農薬は、ある液体の農薬だった。刺激臭があり、揮発性が高い。殺虫剤として使ったり、農地の土を消毒したりする。大量に吸い込むと、呼吸困難に陥る。劇物に指定され、使用時は防毒マスクが必要だ。

 熊本赤十字病院によると、地元の農家ではこの農薬を「XXリン」と呼んでいる。男性を搬送した救急隊もこの略称で病院に連絡した。ところが、病院が専門書やインターネットを使って調べても、XXリンという断片的な情報ではこの農薬に結び付かなかった。(類似事件予防のために個別名称の報道を避けました)

 最終的にこの農薬を特定できたのは、有毒ガスの発生からわずか1時間半のことであった。かつての、松本サリン事件と比べると格段の速さだ。それでも、会見では、「この農薬を飲んだ自殺は非常に珍しく、把握が難しかった。毒物が特定できていればあらかじめ患者を避難させるなどそれなりの対応ができた」と救急医療に対して更なる努力の姿勢が病院側には感じられた

 救急医療は、多くの心無い医療報道の記事等もあって、産婦人科や小児科、外科と並んで医師不足が問題になっている。そんな過酷な状況にあるからこそ、事故の原因を究明し、再発防止に結び付けるという姿勢だけでなく、世の中全体がリスクに対して寛容でなければならないという姿勢も忘れてはならない。要は、そのバランス感覚が重要なのだ。誰に言われなくとも、現場は努力しているのだから、その努力が、社会の中での信頼に変わるような報道をすべきであることは言うまでもない。

 今回の医療現場の事故では自殺を図った男性の情報が救急隊から病院に十分伝わっていなかった。これが有毒ガス発生による事故が起きた原因のひとつかもしれない。だが、救急隊も病院も、正確な情報伝達の重要性には、誰に言われなくても日々実感している。今回の事故は、それでも起きたといえよう。救急医療というのは、そういう予期せぬリスクと遭遇する場であるということを、多くの人がこの事例を通して知るべきである。

メディア報道は、自殺報道などに対する自主規制はないのでしょうか?ないのでしょうね、きっと。その時点で、そういうメディアのあり方は、社会的視点において、有害な存在でしかないと私は思います。そういう思いを込めて、私はこの農薬の個別名称は伏せる形で書いてみました。

いかがでしょうか? 物を書くということは、その書き手の意思が必ず先にあるわけです

先行する意図によって、事実関係は同じでも、文章全体の印象は、いかようにも変更できます。元記事と私の書いたものを比べていただけば、それをご理解いただけると思います。

さらに、同じことを別の文章を例に挙げて提示してみようと思います。

論より詭弁という本があります。この本の中から、ある一説を紹介します。

家庭裁判所の厄介になった少年について、調査官は次のような所見を記した。

「頑固で柔軟性に欠け、融通がきかない。自分の思い通りにしていたいとの気持ちが強く、他人から干渉されることを嫌う。目下のものに対しては、ボス的で強圧的な態度に出るが、目下の者に対しては卑屈に振舞う。」

私(本の著者)が、少年を弁護したいという意図から、この所見を次のように書き換えたらどうだろう。

「意志が強く、一途な性格で、曲がったことが嫌い。自立心旺盛で、自分のポリシーをもっており、周囲の意見に流されない。年下の者に対しては、親分肌なところを見せるが、年長者に対しては礼儀を守り、謙虚である。」

私が、こちらこそが少年の真の性格だと主張するとき、私は詭弁を弄していると見なされるのか。私は少年の性格について何か明らかな嘘を書いたのか。

いかがでしょうか?全然違うでしょう?

二つの対照記事をご覧になっていただき、後は各人がご自身で考えていただければ幸いです。とくに、みなさまご自身で考えていただきたいと私が思うことは、「世の中のリスクって何?」ということです。そこに画一的な答えは出ないとは思いますが、日ごろから、各人が、リスクとどうつきあうかということを考えておくことは重要だと思います。(関連エントリー:リスクを認め付き合うこと)


コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

一般の皆様からのコメントに思うこと [雑感]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

ブログの性質上、コメントの殆どが、医師からのものです。ですが、時々は、医療を受ける立場である一般の方々からも、コメントをいただきます。

前回のエントリー:悩ましい若い女性の下腹部痛 においても、ある難病にかかり手術をうけたご経験をもつ患者の立場の方から、私たち医療者へ、とても心温まるコメントをいただきました。コメントを下さった方のご希望により、そのコメントはすでに削除させていただきましたが、この場で、改めて御礼申し上げます。

そこで、今回のエントリーは、これまでにいただいた一般の方と思われる方々のコメントを抜粋しながら紹介する形にしてみます。

木原光知子さんの訃報に関して

私も7年前にくも膜下出血で倒れて、約10ヶ月の入院を経て、少しずつ社会復帰できるようになりました。幸運にも命を助けて頂けたのは、救急医療の現場で日夜を問わずに一生懸命従事されているスタッフの方々のお蔭と感謝しております。

by ひらちゃん

ひらちゃん様、ありがとうございます。感謝の表明は、医療者の心の支えになりえるものです。

死の意味を考える

医療者を含め患者もその家族も、もっと言えば現代人の全てが、命の長短にあまりにもこだわり過ぎているのではないでしょうか?私は5年ほど前に脳幹梗塞になり現在は四肢体幹麻痺の状態ですが、この病気になったことで「病気を治す主体は患者自身」ということを実感しました。医者は、その手助けをするに過ぎません。生きるも死ぬも、治るも治らないも、良くなるも良くならないも、自分の身体なのですから本来は患者自身の問題です。けれど患者はそうしたことを忘れてしまって、「病気」と言えばその責任の全てを医者に丸投げしようとする。それに加え、患者は現在の医療技術に対して過度な期待を持ちすぎなのではないでしょうか?「治して当たり前」的な発想もどこかに存在するような気がします。当たり前ですが、医者の仕事は病気を治すことです。けれど、病気を治したからといってその人が長生きするとは限りません。長生きしたから幸せな人生であったとも限らないし、早死にしたから不幸な人とも限らない。「障害者になったから残念な人生だ」と言う人もいれば、私のように「そうでもない」と感じている人もいる。医療の世界にも哲学的要素が必要であるような気がします。

by banana

banana様、哲学的要素が必要ということに深く共感します。

日本人の「死生観」と私の思い


うちの犬が(犬の)大学病院にいったときのこと。さすがに大学病院まで来るペットたちは重 病そうでした、ある大型犬も大人3人ぐらいが付き添って、いかにもつらそうに入ってきました。その犬が診療に入って半日ほどして出てきてびっくり、足が一本なくなっていました。飼い 主さんの一人は泣いていて周りの人に励まされ一生懸命うなずいていました。私ももらい泣きしてしまいました。しかし、ふと犬を見るとうれしそうに、ひょこひょこ歩いていました。犬 の気持ちはわかりませんから、うれしいかどうか定かではありませんが。そう見えました。今まで痛かった足が無くなり痛み止めが効いていて楽になったのでしょうか。動物と暮らしているといろいろ教わります。その中でも私は「あるがままに」とか「しょうがない」ということを教わりました。

by 肉球


欲しいものは手に入らないから努力をしたり頭を使ったり出来るし、こだわりのある人はこだ わらない事が大切である事をいずれ学習できるのです。そのように考えを進めると、生きている事は素晴らしい。こうしてたくさんの人とお話出来るのだから。老いる事は素晴らしい。た くさんの経験を積んで困っている人の相談に答えられるのだから。病う事は素晴らしい。先生がブログに書いているように何かに気づく事が出来るのだから。だから、私は、喜ばしい死を 迎える事が出来るまで長生きしようと思います。私がここに居る事は全てが本当は喜びである事を私は信じています。大切な気付きを頂戴できて感謝いたします。

by のぶ


実はわたしは父が亡くなる半年前に『老子』に出会い、善も悪もないという価値観に衝撃を受 けました。そして加島祥造さんの『TAO~老子』を父に贈ったこともありました。(宗教哲学を毛嫌いする父からは、何の感想もありませんでしたが)それからはなんちゃって救急医先生と同じように老荘思想にはまりまくりました。『荘子』の 禅に通じる思想から、仏教に関してもあらゆる本を図書館で借りては読んでいました。そんなことで「死」とはなにか。生きることの意味は何か。なぜ人は病気になるのか。そういうことを父から学び、最近は精神世界にはまっております。

by ロッタ

肉球様、ペットの病気を通して、自らの気づきを得るというのもすばらしいですね。
のぶ様、「病う事は素晴らしい」と思えることは、自己の内面から湧き出てこそだと思います。
ロッタ 様、私も同感です。善も悪もないという価値観・・・今の日本社会に求められる価値観だと思います。

リスクを認め付き合うこと


>思わぬリスクに遭遇して、自分の命を失ってしまうかもしれない。大事な家族の命を失ってしまうかもしれない。それでも、いざとなればそのことを諦めることができるように、「自分の今」を「大事なもの」、「ありがたいもの」として生きておくことが大事だと思う。 自分の死や家族の死を、このような形で普段から自分の心の中にあらかじめ予見しておき、その相対として「今」を生きることともいえるのかもしれない。

仏教(浄土真宗かな)でいう「白骨の御文」ですね。(注:リンクはブログ主の手による)
生きていくとは、その通りだと思います。「べき」とか「絶対に」とかに縛られていると目の前の壁が分かりません。何が起こるか分からないから人生なのであって、リスクだらけ。

by 竹

竹様、ありがとうございます。白骨の御文(はっこつのおふみ)のリンク先から引用です。
だからこそ、「あなたはその事実を受け止め、どのように人生を歩んでいくのですか」と、
亡き人から問われているのです
。』
ここにある多くのコメントを拝見するに、皆がそれぞれの様々な形で、この問いかけに答えていこうとしているように思えます。

医師-患者関係を考える<前半>

こんばんは。初めておじゃまします。m(_ _)m
「他者に対して過度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがある」とても、勉強になりました。

私は、「医療再生を願うネット市民の会」の会員です。この会は、次の3つのスローガンをこころがけることによって医療崩壊からの再生を願う、ネットで活動する市民の会です。
 1. コンビニ受診を控えよう
 2. かかりつけ医を持とう
 3. お医者さんに感謝の気持ちを伝えよう
ホームページはこちらです。
http://saisei.aikotoba.jp/index.htm

お時間のよろしい時に、一人でも多くの方にのぞいて頂けたらうれしく存じます。私は、長い間医療の現状に無関心であったことを反省し、今すぐに自分ができることから始めたいと思います。

by アイスゆず

アイスゆず様のような活動が、もっと広がることを願っています。

割り箸訴訟と医療の不確実性


特に小さいお子さんを亡くされるようなケースは、本当は、こういう死に対するプロセスを支 援するようなカウンセリングが必要なのかもしれませんね。マスコミや周囲が煽るのではなく、心の内側の、後悔や悲しみや、怒りや絶望などを受け止めて向き合い、癒す時間が必要な気がします。そして、それにはすごくすごく時間がかかるものです。マスコミが煽ると、その作業を遅らせてしまうのではないかと心配でもあり、また現場のドクターが極端な責任追求を受けて潰されていくのも心配です。

by ボヤキのソーシャルワーカー


一般人は人の死に関わる事はそれほど多くなく、頭でわかっていても「これは仕方のない事だ ったんだ」と諦める余裕がないと思います。というか、私がそうなのですが・・・。このブログを通して自分の考え方や物事の見方がかわり、ずいぶんと考えさせられています。とても感謝するべき事だと思います。

by キナコ


>なんちゃって救急医さま
自分が専門家として気がつける部分を、ブログとして発信している

>僻地外科医さま
地域医療を考える住民集会で講演

このようなドクターのご努力に、本当に頭が下がります。私は非医療者ですが、このブログほか医療系ブログで学ぶことしきりです。患者も家族も勉強 することで、不確実性が少しでもなくなり(先日の投薬記録もそうですね)、次世代以後の医療の発展と人々の健康を願います。

義理の母が下肢静脈瘤手術後に肺血栓で死亡しました。当時は(今でもわずかながら)他の心 疾患と誤診して、初期治療を間違ったのではないかという疑問をもっておりましたが、数年前に血栓閉塞予防ガイドラインができたというテレビを見たことがあり、死もむだではなかったと、今では思います。

by とおりすがり

ボヤキのソーシャルワーカー様、ご遺族の内面を癒すプロセスの充実化、大切だと思います。
キナコ様、こういうコメントをいただけることは、私自身への励みになります。ありがとうございます。
とおりすがり様、ブログを通して学んでいただけ、それがご自身への受容とつながれば、私も嬉しいです。

遺族の納得はどうしたら得られるのか?


幼いころに病気で母を亡くした通りすがりの意見で、稚拙かも知れません。ちなみに、私は受け入れるまでに2年かかりました。最初は信じられない夢なんじゃないかという思いで「ショック」「否認」、次になんでそうなってしまったのか病気や関わる医療者や私を慰めようとするひとにまで「怒り」を持ちました。周囲の大人や友人に、仕方がないと納得させようとされることに激しい怒りを感じたのです。気づくと無意識に涙が出ていたり、生きていくことに対する意欲が減退しました「抑鬱」。そして、2年たったあるとき、夢の中で亡くした母とその死について語るという体験をしました。別に霊的な話ではありません。ただの夢です。でも、そうすることで、いつの間にか母の死を運命として受け入れ、死んでしまった母として、その存在が変わったような気がしました。強制されてできることでも、最初から意識していたわけでもありません。悩み苦しみながら、あるいは周囲に迷惑もかけながらも、受容できたのです。今は怒りや恨みはありません。救命という名のもとに、怒りを一身に身に受ける機会の多いお医者さんは、大変なエネルギーが必要になりますよね。愛するものの死に対する受容とは、ライフワークにもなりうるくらい誰にとっても膨大なエネルギーが必要なものだと思いました。長文で失礼しました。なんちゃって救急医先生のブログを読ませていただいて、お医者さんがどういう視点でものを考えているのか、勉強になっています。

by 愛する者を亡くした通りすがりです

愛する者を亡くした通りすがりです様、貴重なご体験をありがとうございます。

生と死は対立ではない


”死を”考えることは ”生”を考えることでもあるので先生のような問いかけをしてくださる方は貴重だと思います。がんばってください。

by rira


29歳の主婦です。若い頃ひたすら死について考えたことがありました。特に病気や辛いことなどなく若さゆえ悶々と考えていたものですが、死はなんだかよくわからない怖いものでした。結局その時は「考えない」ことにしました。数年後ネット環境を手に入れました。死生観についてもなんちゃって先生のように掘り下げた意見に触れて自分の中で変化がありました。死はなんだかよくわからない怖いものではなくなりました。なんだか怖いから、わからないから蓋をしてしまう人はきっと多いのでしょう。私のように。その人たちに死は怖くないと思ってもらうのって本当に難しいですよね。個々に医療訴訟をおこしてしまう人は怖くて怖くて最後に診てもらった医療者に矛先を向けてしまう。

by こんこん

risa様、そのように考えてくださることは、私としてもとてもありがたく思います。
こんこん様、確かに「死」はわからないものかもしれません。だから、人は考え続けるのだと思います。

以上が、一般の方々から私のブログにいただいたコメントの一部です。主に、「生」と「死」をテーマとしたコメントから抜粋させていただきました。本当に皆様ありがとうございました。

近代医療は、高々一世紀程度の歴史しかありません。なのに、今、日本の医療は、閉塞感に満ちています。どうしてでしょうか?便利になりすぎた世の中が、人に自分の内面を見つめることを忘れさせてしまったためでしょうか?一方、人類は、文字を創り、自分の考えを文字に残すことができるようになって、数千年の歴史があります。その長い歴史を通して、先人達がすでに思い考えてきたことに、私たちは今触れることができます。それは、自らの内面の気づきのきっかけとなるかもしれません。そしてそれは、自分の生き方や価値観に大きな影響を与えるかもしれません。少なくとも私自身はそうだったと思います。いずれにしても、今の医療がどんな進展をしようとも、それとは関係なく、必ず、私たちは、自分の、家族の、生と死と向き合わなくてはなりません。その向き合うことに、医療者も非医療者も関係ありません。皆一緒です。

だから、生と死を巡るテーマに関しては、多くの方々と、語り合っていきたいと思っています。

最後に荘子の一節を引用します。

善夭善老 善始善終

夭(わか)きを善しとし、老いを善しとし、始めを善しとし、終わりを善しとす。

若さを善しとし、老いを善しとし、生まれたことを善しとしl、死ぬことを善しとする。(大宗師編)

この世の万物を貫く大きな真実をあるがままに肯定し、ありとあらゆるものの変化はすべてそこから生じ、再びそこへ帰っていく。そんな境地に心を遊ばせていくと、自分の人生もひいては自分の生死も、肩の力をぬいて向き合うことができないでしょうか? 今、私は医療の現場のど真ん中でそんなことを考えています。


コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

悩ましい若い女性の下腹部痛 [救急医療]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

過去のエントリーで、こんな話をした。 悩ましい若い女性の上腹部痛

そこで、本日は、下腹部痛の症例を提示する。

一般に、若い女性の腹痛の場合は、男性の場合に比べて、考えることが増えるので大変だ。 それは、婦人科疾患か否かいう視点が増えるということだ。 

実際例でいくつか提示すると・・・・

月経困難症(婦人科疾患)だと思ったのに、実は急性虫垂炎だった(外科疾患)。
PID(婦人科疾患)だと思ったのに、実は、急性腸炎だった(内科疾患)。
急性虫垂炎だと思ったのに、実は、卵巣出血だった(婦人科疾患)。
尿路結石だと思ったのに、実は、子宮外妊娠だった(婦人科疾患)。

まあ、こんな感じである。個人個人の症例レベルは、まさに千差万別。
それ故に、教科書どおり診断が進まないことも多々ある。

そのことを知らない人が、気安く、あるいは悪気なくとも「誤診」という言葉を使ってしまう。誤診という言葉には、そういう私達医療者の苦悩に対する微塵の配慮も感じさせない冷たい言葉であると私は思う。多くの人が、「誤診」という言葉に慎重であってほしいと思う。

なぜ、私がそう思うのか? それは、以下の理由による。

そもそも、私達の診断プロセスは、確率的であるからだ。
参考エントリー:診断とは確率にすぎない
これは、ある時点で、どんなにベストの判断を行ったとしても、事後から見れば、診断が外れていたという出来事は避けられないということを意味する。つまり、診断過程における医療の不確実性そのものなのだ。

だから、ある意味、我々の診断プロセスは、黒ひげ危機一髪ゲームと同じことといえるのではないかと思う。もし、黒ひげの首が飛んだとき、それは、「誤診」として医療者が裁かれるときと想像してもらいたい。そう考えてもらうことで、我々の気持ちが少しは伝わるのではないだろうか?ちなみに、これが黒ひげ危機一髪ゲームである。 → シュミレーション 

そうは言うものの、私達医療者は、患者のよりよい転帰を目指し、日々苦悩の毎日である。世間の風は、何かにつけて私達医師-患者関係を破壊しようとするが、患者側が、医療の不確実性に理解を示してくれると、現場の医師-患者関係は上手くいくことが多くなるであろう。


ということで、そろそろ、今回の症例。

<診察の場について>
あなたは、とある急性期病院の救急外来で外来患者の対応をしている状況。なお、消化器外科医、産婦人科医、消化器内科医などの各専門家には、コンサルトは可能である。エコー(腹、心)は自前でやる。 CT(造影も)は全身可能。MRは不可能。そのような設定である。

31歳 女性  下腹部痛

当院初診。妊娠出産歴なし。既往疾患に特記すべきことなし。普段の月経はやや不順。最終月経は、10日前。昼食時に焼き飯と惣菜を食べてから、次第に下腹部痛が増強してきた。自宅で様子をみていたが、買い物から帰ってきた母親が、娘の様子をみて、救急車を呼んだほうがいいと判断し、16時頃、救急車で当院へ搬送された。自宅で、4,5回の嘔吐有り。下痢はない。最終排便は昨日で普通便。本人、母親ともに昼食があたったようだと訴えている。

バイタルサイン BP 105/72 HR 63整 KT 36.1 RR 14 SpO2 99
腹部  平坦、軟。手術痕なし。正中下腹~左下腹にかけて圧痛(+)であるも、リバウンド(-) 他、特記すべき身体所見なし。 
検尿 妊娠反応(-) 潜血(-)ケトン(±) 蛋白(-) WBC(±)
末梢血・生化  WBC 6100 CRP 0.1 他特記すべきことなし。
胸腹部 レントゲン  特記すべき所見なし。

腹痛は、来院してから1時間後(ボルタレン座薬25mgを入れて30分後)の時点で、十分に自制内の状況である。

さて、時間外の救急初期診療などでありがちな場面だと思います。

この時点で、確定診断を求めるわけではありません。 皆様方にお尋ねしたいことは、次の3点です。

Q1 頻度の軸からみたありそうな疾患 ベスト3
Q2 地雷の軸からみたマークしたい地雷疾患 ベスト3
Q3 次にやりたい一手
できれば、ご自身の専門などのバックグラウンドを差しさわりのない範囲で添えていただけるとなおわかりやすいかもしれませんが、そのあたりのご判断は各自におまかせしておきたいと思います。似たようなケースでの皆様方の苦労話も差しさわりのない範囲でお教えいただるとうれしく思います。

医療者の判断というものは、こんなにいろいろ考えないんといけないんだなあということ、だから診断って大変なんだなあということ・・・・多くの非医療者の方々に、私達のこんな苦労を感じてほしいというのがブログ主の今回の狙いです。

では、よろしくお願いします。 (5月21日 記)


(5月24日 追記)
皆様、コメントありがとうございました。22名の方のご意見を集計してみました。A.>B>Cの場合、Aを3点、Bを2点、Cを1点として、A,B,Cと併記の場合は、A=B=C=2点として、集計しました。 さて、その結果です。

Q1  頻度の軸からみた鑑別 上位5疾患

急性腸炎  48
PID      16
虫垂炎   13
憩室炎    8
尿路結石  8


Q2  地雷の軸から見た鑑別 上位5疾患

卵巣腫瘍茎捻転  40
虫垂炎     24
子宮外妊娠   13
上腸管膜血栓症 9
卵巣出血      7

Q3 次の一手
ほぼ全員が、腹部エコー

22人という数としては少ないですが、はっきりと傾向が出ているようですね。私は、以前のエントリー:結果と考察-ネットで診療評価-で、診療の適切性を判断する際には、その診療の転帰そのものが、適切性の判断に統計的に優位に影響することを示しました。それをふまえて、このエントリー中で次のような提唱を行っています。

<提唱>
診療判断をする医師複数を、分野に応じて事前登録しておきます。そして、何がしかの事例が発生したら、誘拐事件が起きたときにメディアが報道自主規制をするのと同じ倫理に基づいて、いっさい報道は行わずに、登録医師に有害事象の結果を知らせないままで検討し、複数の評価を集めます。そして、統計的に判断をくだします。

さて、今回の症例では、
たとえ痛みが自制内でも、
たとえ痛みが突然発症ではなくても、
たとえバイタルに異常がなくとも
たとえ採血データに異常がなくとも
たとえ本人や家族が、食あたりかもしれないと主張しても、

卵巣腫瘍茎捻転をまったく疑わない診療をして、急性腸炎としての対応のみ(投薬、患者説明などを含めた対応をさす)で、帰宅させるという診療は、救急初期診療としては、不十分なのかもしれません。Q2に対する皆様のコメントがそれを示唆しています。ですが、おそらく、そんな(不十分な)診療をしても、何も問題のないケースがほとんどでしょう。それは、疾患頻度として急性腸炎が圧倒的に高頻度だからです。悪い診療の結果というものは、いつもきちんとやるべきことはやった診療をしていてる誠実な医師であっても起きるときは起きるし、意外と、不十分な診療ばかりをつづけている医師には起こらなかったりします。確率とはそういうものです。

ちなみに、非医療者の方々のために・・・
卵巣腫瘍茎捻転とは、こんな病気です ⇒ こちら
一方、急性腸炎は、感染性や非感染性などありますが、救急外来で出会う患者の多くは前者。さらに、前者は、感染源によって、ウイルス性や細菌性などに分類されますが、一般に前者は軽症で自然軽快、後者は、前者に比べ重症感があることが多いです。今回の症例では、感染性腸炎だとしてもまだ発症初期であるため、ウイルス性、細菌性(毒素型も含む)のどちらかをすぐに鑑別することは不可能です。さしあたり経過を見ながら考えることになります。自然に治ればウイルス性でいいでしょう。一方、さらにひどくなるようであれば、便培養などを提出し、細菌性としていろいろ手を打ち始めていきます。

さて、長くなりました。症例の続きです。この患者を担当したのは、私一人でした。

私が最初に思ったこと
患者の解釈モデルにこちらが引っ張られてはいけない
ということ。

やたらと食事との関連性を訴えるので、私は患者とその母親にこう言いました。
女性の腹痛の場合には、食事とは関係なく緊急性の高い疾患があります。まず、それからチェックしていきましょう

病歴聴取の際に、そのように伝えて、妊娠反応、採血などの検査をだした後、皆様のご指摘どおり、型どおり、自分で腹エコーの手順にもっていきました。

そこで、「おやっ?」 です。 なにやら、左下腹部に大きな何かが見えました。10センチくらいありました。 その部分に一致して、圧痛もある。

「はあ~ん・・・なるほど・・・ これかああ・・・」

この段階で、私は、患者と家族に言いました。
どうも、卵巣が腫れているかもしれません。これが痛みの原因と即断するわけにはいきませんが、婦人科の先生には必ず診ていただかないといけない状況です。

で、私はこの時点で早々と、婦人科の先生にコンサルトしました。婦人科的診察の結果、卵巣のう腫があり、周囲に腹水もあるとのこと。卵巣腫瘍茎捻転を強く疑うため、直ちに手術が良いという結論になりました。

術中所見としては、左の卵管が紫色に変色し血行障害を示していたが、捻転を解除すると同時に血行も改善し色は回復したとのこと。卵巣腫瘍は切除され、後日の病理では良性の所見だったとのこと。合併症なく退院していきました。

ということで、今回の症例は、皆様も最も懸念した地雷:卵巣腫瘍茎捻転の一例でした。

今回の症例を腸炎としてあっさりと帰宅させるという対応をしてしまっていたら、後日、紛争となったかもしれませんね・・・・

それにしても、すごいなあ・・・・ さすが、専門の先生の眼だなあ・・・・と思ったコメント。スーザン先生のコメントでした。今回の症例は本当にその通りでした。

どーしてもこの症例が、卵巣腫瘍茎捻転に見えて仕方ありません。
他の疾患が考えられなくてすみません

深い専門を持たずに、手広く構えて、問題点の絞り込みまでを主たる日ごろの業としている私にとっては、到底到達し得ない感覚です。 初療医としては、そういう各専門家の先生がもつ専門分野の鋭い感覚もタイミングよく参考にしたいものです。どこまで自分で整理して、どこから専門家の先生に参画してもらうか?このあたりの分別にはそれなりの経験を要しますし、診療の場毎にも大きく異なります。ときに、診断がまだ確定していない救急初療の現場では、専門家の先生のもつ感覚は、時に諸刃の刃になりえるという認識も重要です。・ 参考エントリー:専門引き寄せ症候群

まとめます。

本日の教訓
卵巣腫瘍茎捻転 いつも激痛とは限らない

 


コメント(36)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

頭痛を訴える若い女性 [救急医療]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

本日のエントリーは、頭痛を訴える若い女性の症例を元に行います。 いつも如く、症例は、実話をベースにしながら、個人特定にならないような脚色を適度に加えたものです。

今回は、ネット鑑別診断という試みをします。

とりあえず、医療者の方々は、お気楽にご参加ください。

今回のエントリーの狙いは、後日のお楽しみということで・・・・・・。

では、こちらから、お入りください ⇒ ネット鑑別診断へ(終了しました:5/17 20:15)

(コメント欄は、しばらく閉じておきます。 コメント欄は、この試みの終了時に解放します。)

(5月15日 記)

コメント欄解放しました。

たくさんのご意見をいただきありがとうございました。全部で78人の方から回答をいただきました。
これが、提示症例です。

25歳女性

元来健康。既往歴に特記すべきことはないが、肩こりや頭痛に悩まされることは時々あるという。200X年X月N日、午後20時ごろ、コンビニ弁当を食べた。同日23時頃に、腹痛、嘔気、嘔吐、下痢が出現。食事が取りづらい状況だったので、翌(N+1)日の朝、近医で点滴を受けた。(N+1)日夕方から、嘔気は改善傾向にあったが、前頭部が締め付けられるような左右差のない頭痛を自覚した。一時、38.6度まで発熱を認めた。その症状は、比較的急速であったと本人は感じている模様。(N+2)日の朝、近医再来し、昨日の経過をふまえて、抗生剤、整腸剤、解熱剤などが処方されたという。(N+2)日の夕方、症状の改善が思わしくないと思い、ある総合病院の救急外を受診した。ただ、解熱剤が効いて熱は下がっている感じはするとのこと。

来院時
血圧110/68 HR 65/分 体温36.5度。 意識 清明。瞳孔 異常なし。項部硬直(+)。胸腹部 特記事項なし。

WBC 10300 CRP 0.8 他特記事項無し。
頭部CT 脳外科医読影にて出血の確証はなし。(ただし、頭蓋骨のアーチファクトも強くやや荒い画像) 

ちなみにこの症例の最終診断は、くも膜下出血でした

さて、この症例は、私のブログの中での再出でした。お気づきの方もいたかもしれません。
髄液検査の明と暗のエントリー中の「明」と「暗」の2症例をベースにしています。

設問の後半を変えて、3種類を用意しました。クリック時にランダムに飛ぶように仕込みました。

1群は、最終転帰が髄膜炎と知ったうえで、回答する群
2群は、最終転帰はいっさい知らされずに、回答する群
3群は、最終転帰がくも膜下出血と知ったうえで、回答する群

最終結果を知らされることが、どれくらい回答に影響するかということを調べたいと思ったからです。
残念ながら、今回の症例では、最終転帰の影響は全くでなかったようです。
本音は、後知恵バイアスを示したかったのですが・・・・。
今回の症例はあまりに非典型杉だったのが失敗の要因だと思いました。群間に差が出なかったので、総数でのみ、結果を表示します。 N=75 (ルンバールの結果を明らかに判断に組み込んだとわかる3例は除きました)
図1.jpg
この結果を見れば、わかるように、この症例において、くも膜下出血はほとんどの医師が想定していないことがわかります。 群別の回答を公開中⇒1群(25名) 2群(26名) 3群(25名)


というわけで、以下の話は、くも膜下出血の診断は、ときにこんなにも困難なのか! ということに絞ります。


今回提示した症例の第3群は、髄液検査の明と暗のエントリー中の「暗」の訴訟症例を強く意識して作成しています。皆さんの回答から明らかなように、この症例は、本当に、くも膜下出血らしくない病歴ですよね。

ちなみに、その「暗」の訴訟症例も、本当にくも膜下出血らしくない病歴です。ですが、判決の中では、たくさんたくさんある、医療判断要因の中から、たった一つだけ(髄液所見の解釈)の不備を指摘して、それをもって、過失の構成を組み立てていました。私のブログの中では、人間の体の不可思議性、神秘性に基づいた驚きの症例などを紹介しています(例1例2例3)。そのような医療の不確実性、確率的分散が数ある中で、たった一つの判断が適切でないといって、過失と認定されるわけです。それって何かおかしくないですか? ちなみに、その判決文はこちらにあります⇒ 判決文

この判決文 P22-30 あたりにある裁判官認定の臨床経過です。

1月13~15日  頭痛、関節痛、発熱(37.8) 15日クリニック受診
1月16~17日  点滴加療など
1月18日     頭痛増悪訴えあり。 WBC12700 CRP1.4
1月19日(土)   髄膜炎疑いで、H病院(被告病院)へ紹介
            内科外来当直医(C医師)は、CT試行のうえ、入院
            内科病棟当直医(D医師)が、ルンバール 
            淡血性 ⇒トラウマティックと考えた。(手技の手間取りあり)
1月20日(日)   頭痛持続。 
1月21日(月)   主治医決定。神経内科のA医師に。A医師、ルンバール再検
           キサントクロミーあり。これは19日の影響と判断

           (A医師は、D医師より、土曜日のルンバールの話を聞いていた)
           CT再検。 A医師、19日のCTと併せて、両者問題なしと判断
           A医師も髄膜炎と診断。
2月2日      軽快退院
2月9日      自宅で倒れていた。 JCS300。救命センターでSAHと診断。
           緊急脳外科対応。
           右内頸動脈後交通動脈分岐部に動脈瘤 ⇒クリッピング

一命をとりとめたものの、左半身麻痺がのこり、身障1級となる。

で、裁判官の判断。 C医師、D医師には、過失無し。A医師過失あり。 判決文P43から引用。この新聞記事は、髄液検査の明と暗を御参考ください。

A医師が,1月21日の時点で原告を脳神経外科医に紹介するなどしていれば,更にMRIやCTを用いた脳血管撮影検査が行われることにより,くも膜下出血及び脳動脈瘤の存在が確定的に診断されていた可能性は極めて高く,その場合,破裂脳動脈瘤に対し,早急にクリッピング術などの再破裂を予防するための処置がとられることとなるところ,同月21日の時点における原告の臨床症状がくも膜下出血としては軽度であったことをも考慮すれば,上記処置により2月9日に発症したような重篤なくも膜下出血を防止することができたことが認められる。以上によれば,本件において,被告病院の担当医師の過失がなければ,原告に発症した後述の後遺障害が生じなかった高度の蓋然性が認められるというべきであるから,被告は,不法行為責任(使用者責任)に基づき,原告が被った後記損害を賠償すべき義務がある。

患者側は、こんなになったのは医者のせいだという気持ちがでるのは止む無いこととは思います。ただ、社会システムの中で、その気持ちがそのまま形になってしまい、結果として医療者を追い詰める・・・・・・。そして、それが今の医療崩壊の一因となっている。

今回の回答状況をみれば、このケースも早期診断できなくても、それは当然だといえます。今回の判決では、C医師、D医師には過失を認めておらず、その点については、妥当な判断が出ているといえます。しかし、この流れがあれば、A医師も過失無しで良いのではないでしょうか?しかし、裁判官は、A医師には過失を指摘しました。

裁判官は、患者救済ありきであれば、100の標準的プレーの中にも、たった1つのエラーさえあればそれを元に過失を構成し、賠償命令できます。だから、この裁判事例においても、どにかくどれか一つだけでも取り上げて、なんとか過失を構成し、患者救済を実行しようとしたのでしょうか?

とにかく、我々は、地雷回避の知識として、髄膜炎的なくも膜下出血症例も存在するということを知っておくことは重要なのかもしれません。

今回のコメントの中で、ある脳神経外科の先生がこんなことを教えてくれました。

脳神経外科専門医です。
年齢や発症様式・経過はくも膜下出血の中では比較的稀な部類に入るとは思いますが、症例報告レベルでは無く、脳神経外科専門医ならば、何度かは経験したことがあるような症例でしょう。

過去に、私は、こんなエントリーを書きました。SAH再出血の怖さ つい最近、この報道事例が、書類送検されたという報道がでました(医師の実名報道です。どうしてでしょうね?)。 ⇒ これです

その中で、家族の言葉として、こんな一文があります。

哲さんは「医師はくも膜下出血の症状をよく知らなかったようで憤りを感じる。

これは、ひどいでしょう。遺族がそうお感じなるのは、ある意味医学的も当然です(悲嘆のプロセス)。それはいいです。私が、問題視したいのは、報道です。医師の心に対する配慮、医療そのものの不確実性への理解および医師患者信頼関係に及ぼす影響度などいくつかの因子を考慮すれば、たとえ遺族がこう言ったとしても、記事としては書かないという積極な選択ができるのではないですか?にもかかわらず、報道がこんなことを書くということは、医師-患者関係の破壊行為に等しいと私は指摘します。メディア報道が、医療崩壊に多大なる貢献をしているという一つの証拠だと思います。

私のこのエントリーを見てください。家族の検査希望が救った命

これも臨床経過は、書類送検事例と紙一重ですよ。 
今回の書類送検の事例も、この私が経験したのと同じような、微妙な病歴だったのかもしれませんよ?
そういう視点で報道するメディアなんて一つもないですよね。 だから、私が、メディアが指摘しない可能性をここに指摘しておきます。 もしかしたら、大変微妙な病歴で、過失といえるものは何も存在しないにも関わらず、また一人、医師が、日本の社会システムの犠牲(法の犠牲と報道風評被害)になろうとしているかもしれないということを。

私達医療者は、現場で、人間の体の複雑多様性を、いやという程感じながら、仕事をしています。でも、多くの人はそれを知りません。メディアもそういうことは、一生懸命報道しようとする姿勢は乏しいと言わざるを得ません。どうかお願いです。私たち医療者の言うことを信じてください。そして、人間の不確実性を国民の一人ひとりが受け容れて下さい。そのうえで、医療をお受けください。お願いします。

まとめます。

本日の教訓

髄膜炎とまちがいそうになるくも膜下出血も、稀ながら存在することを知ってお


人間の複雑多様性を認識し、医療と付き合おう

コメント(16)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

え?と思った患者の訴え [救急医療]

?↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
???

ここしばらく、総論的なエントリーが続いていましたので、本日は、日ごろの救急診療での平凡な一こまを書いてみたいと思います。

医療の判断のために利用する情報には、客観的な情報(血液データなど)、主観的な情報(患者、医師それぞれあり)、視覚的な情報(画像)、触覚的な情報(腹部触診など)、言語化し難い情報(いわゆる患者の発するオーラみたいなもの)などたくさんの種類があります。診療中には、それらの種々雑多な複数の情報が、リアルタイムで次から次へと入ってきます。そして、我々医療者は、それらの情報の質を、随時評価しながら、随時修正しながら、適宜、診断仮説も変更しながら、その現場に応じた最適解というものを探しにいくわけです。しかも、救急診療というのは、その作業に投入できる時間と資材が大変限られているという事情もあります。

私は、その難しさ、不確実性を、広く救急診療をうける方々に伝え、少しでもわかってほしいと思っています。

そんな日常診療には、「え???」「なんで・・・・・??」「どうして!!!」

私達医療者が、こんな反応をすることが、ごろごろしています。

本日の症例を通して、そんなことを皆様方に感じていただければと思います。

症例  81歳 男性 主訴 左側の腹痛

左側の腹痛という触れ込みで、救急車にて搬入された患者。当院には、術後イレウスで何度か入院歴がある患者だった。 ADLは自立との由。ここに、救急隊が我々に手渡してくれた観察メモの控えをそのまま再現してみよう。 

氏名  ○○○   生年月日  ××
住所  XXXXX
発生場所  自宅
主訴  左側の腹痛 嘔気  持続痛 圧痛あり
意識  清明
呼吸  18 正常呼吸音  正常呼吸様式
脈拍  97  体温 35.0
血圧  155/89
SPO2  95(ルーム)
現病歴および既往歴
本日 夜 1:30~  嘔吐2,3回  下痢なし 既往歴 胆嚢摘出(H4) 腸炎(H18) イレウス(H19)

午前9:30来院。 患者は、すでに到着時には、痛みは軽快傾向にあるようだった。本人に、痛みの部位を問うと、左上腹部のあたりを指し示す。だが、はっきりとした圧痛の所見はなかった。お腹は柔らかく、少なくとも左側に腹膜刺激症状はない。腹部正中に手術痕あり。やや膨満している感を認める。それを家族に問うと、その膨満についてはいつもこんな感じという。

以上が、来院しての一瞬のやり取りだ。すくなくとも、急性腹症として超緊急性のある状態ではなそうだ。

最近のイレウスの既往もあるし、開腹歴もある。我々の第一印象は、「イレウス」 だった。

カルテには、前回イレウスで入院時の退院時サマリーがはさんであった。それによると、H4年に胆嚢摘出術施行、その後5回ほど術後イレウスを繰り返していたとのこと。この入院時では、保存的加療で回復していた。

腹部レントゲン(立位)ができた。こんな感じだった。
図3.jpg

「やっぱりイレウスだな。絞扼性の路線は薄そうだが、CTでさらにチェックが必要だ。」

我々は、CT検査へと段取りを進めた。その際のCTをオーダする際の我々のコメント次の通り。
左側腹部痛、嘔気と嘔吐。Xp上二ボーあり。閉塞機転のチェックと絞扼性イレウスの除外をお願いします。

他の所見もだんだんとそろい始めた。WBC14000 CRP5.3 血液データ 他特記事項なし。 尿潜血(-)。cXp、ECGも特記事項なし。

さて、皆様は、この時点でどんな疾患を想起しますか? ちなみに、CTをみて、私達は、「ええ~、何でえ?」と思った次第です。

(5月13日 記)

(5月15日 追記)
たくさんのコメントをありがとうございます。いろんなご意見をいただきました。多数派のご意見が、尿路結石でした。確かに私も経験があります。イレウスと思ってCTを撮りにいったら、尿管膀胱移行部にしっかりと「石」が写っていたことが・・・。でも、そのときの反応は、「なあんだあ~~~、石かあ~~」ってなりません? 今回の症例のメッセージは、タイトルに込めていました。「え?っと思った患者の訴え」です。そういう意味で、元ライダー先生のコメントとそれを受けての環器内科研修中医先生のコメントの中に核心的なご指摘がございました。

では、続けます。

CTができた。これである。
図4.jpg

私と研修医Iとで、このCTを眺めた。

I先生「あれ、なんかイレウスっぽくないな? 腸管の拡張がそうでもない」

私「おい、これなんや? 燃えてんで、ここ。」

I先生「あれ、ホントですねえ。でも、左っすよ、左。痛いのは。先生」

私「右側、触った?」

I先生「はい、お腹が出てる人でしたけど、触りましたよ。痛そうでなかったです」
   「それに、本人も奥さんも救急隊も皆、左って言ってましたよ」

私「まあ、いい。とにかく、この燃えてるところを狙ってもう一度腹を確認しよう

I先生「はい、ちょっと丁寧にみてきます」

しばらくして、I先生が戻ってきた。

I先生「先生!先生! 所見あります。かなりそけい靭帯に近いところまで注意して
    しっかり触りにいくと、ありました。ありました。 リバウンドが!
    あんまりお腹が出てるし、左という先入観が強かったから、右側の診察
    が注意深くできてなかったのかもしれません」

私「 ええ~、それで何で左の訴えやねん。わからんなあ????
   心か部痛でアッペはよくあるけどなあ。左でもあるのかなあ???」

臨床の現場では、このように、わからないことは、ごろごろしている。それが日常である。
だから、私達は、そこはそれ以上は深く考えずに、画像所見を最重要所見と判断して、診察を進めた。

私 「憩室炎?虫垂炎? ちょっとわかりにくいね
   ただ、虫垂炎→限局性イレウス→写真で二ボーあり のストーリーは合うね」

I先生 「腹水も出てますよ(注:この写真は出していません)。外科ですね、これ。」

私 「そうだな。外科の先生にも相談しよう。」

外科の先生も放射線科の先生の読影も、はっきりと腫大した虫垂を画像上特定するには至らなかったが、虫垂炎を強く疑い、開腹の方針となった。救急外来から直のオペ出しとなった。

結果、虫垂炎だった。虫垂は、小腸・S状結腸と高度に癒着していた。手術所見としては、phlegmonous。その後の病理レポートでは、壁全層の壊死を伴った高度の炎症細胞浸潤ありで、gangrenousとなっていた。つまり、いつ穿孔してもおかしくない虫垂炎だったのだ。

結局、この患者の訴えは、むしろ問題の本質から遠ざける因子となってしまっていた。患者の訴える痛みの場所 「左側」にとらわれれば、とらわれるほど、それは顕著になっていっただろう。臨床判断というものは、AHA蘇生のガイドラインで言うところの、気管挿管の確認のコンセプトに似ているところがあると私は思う。つまり、一つの所見だけで、100%断定したり、100%否定してはいけないということ。複数の情報を総合的に考え、バランスよく判断することが、現場の臨床判断として重要だと思う。

ちなみに、見逃し症例から学ぶ日常診療のピットフォール 生坂政臣先生著 医学書院 P90には、こんな記載がある。

腹部が膨満している場合、浅い触診では圧痛が誘発されなかったり、圧痛部位がMcBurney点などから離れた所に存在する可能性も留意する

なるほどである。今回の症例は、腹部内臓脂肪で元々腹部が膨満気味の人であった。最初の段階では、誰もが左側の腹痛であると信じて疑わなかったなどの要因があった。 だから、CTを見る前の腹部診察では、右下腹部の所見を見出すことができなかっただろうと思う。 

結果だけをしって、我々のこの初療の一連の流れを知らない人の中には、こう言い放つ人もいるだろう。

最初から、きちんと腹を診察していたら、右下腹部の所見はわかったはずだ。

と。

こういう言い分こそが、まさに、後知恵バイアスである。 一般に、医事紛争の中では、双方の主張がぶつかりあうわけだが、患者側の言い分の中に、いかに後知恵バイアスに基づいた主張が多いことか! 参考エントリ-(後知恵バイアスについて) 本当に腸炎でいいですか? 

メディア関係者の人に、医事紛争の増加という社会的弊害を減らすための私の二つの提案を聞いてほしい。

1.患者遺族側の悲嘆のプロセスのさなかにある遺族の感情を報道しない 
2.人間の認知には、元来「後知恵バイアス」という認知の特性があることを広く報道する

まとめます。 今回の症例は、患者の訴えと非常に結びつきにくいところに問題の本質がありました。種々の情報を総合的に考え、そして判断するセンスが求められます。腹痛患者を診察するときには、常に虫垂炎を想定しておく必要があることを改めて考えさせられる症例でした。特に腹部が膨満している人の理学所見を拾う場合には、よりいっそうの注意が必要ということも我々に教えてくれました。
そんな症例でした。

本日の教訓
腹痛患者は、常に虫垂炎を念頭に置こう。右も左も関係なく。

コメント(16)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

救急診療をうける方へ(2)-怒号が響くある日の救急外来- [救急医療]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

今日は久々に、一般の方々へ、救急診療に関して私がお伝えしたいこと第二弾です。 ちなみに第一弾は、こちらでした。⇒救急医療を受ける方へ(1)

救急診療は、社会の中における重要な公共の社会資源の一つであると私は考えている。だからこそ、利用する側である一般市民の方々自身に、救急外来とはどんなところであるのかという理解をしてもらうことは重要だ。日ごろは、どんなに医療とは無縁な人であっても、突然の外傷や突然の病気に襲われるという運命に遭遇することは十分にあり得るからだ。

公共の社会資源に関して、こんな話をご存知の方も多いと思う。

コモンズの悲劇(コモンズのひげき、The Tragedy of Commons)とは、多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうこと共有地の悲劇ともいう。たとえば、共有地(コモンズ)である牧草地に複数の農民が牛を放牧する。農民は利益の最大化を求めてより多くの牛を放牧する。自身の所有地であれば、牛が牧草を食べ尽くさないように数を調整するが、共有地では、自身が牛を増やさないと他の農民が牛を増やしてしまい、自身の取り分が減ってしまうので、牛を無尽蔵に増やし続ける結果になる。こうして農民が共有地を自由に利用する限り、資源である牧草地は荒れ果て、結果としてすべての農民が被害を受けることになる。 (ウィキペディアより引用)

まさに、救急医療は自由に誰もが利用できる共有地の牧草。そして、今、その牧草が荒れ果て、枯渇しようとしている。では、この牧草地をどうするか、それは、国民の代表である政治家の先生方が主導を取ってより良い解決を模索してくださることに期待をしたい。だから、この記事を書くこと事態、救急現場の医師の声の一つとして、議員の先生方にお届けしたいことに他ならない。

私は、断言する。

厚労省の第三次試案をそのまま通すことは、この牧草地の水源を絶つことに値する

と。 救急医学会はすでに反対声明を出している。厚生労働省(第三次試案)について

では、救急外来という場がどういうところであるか。ある日の当院救急外来の様子を紹介する。突然、現場が急に忙しくなり始めたときの様子だ。

ある日の当院の救急外来。午後を回りだしたとたん、急に患者が同時にやってきだした。

地域の開業医からの紹介でやってきた徒歩来院の患者、自力でやってきた徒歩来院の患者、内科外来から救急対応を依頼された患者および救急車来院をした患者などと、ほぼ同時にやってきて、あっという間に救急外来は大混雑になってしまった。 つまり、overcrowding(混雑)の発生だ。

救急外来という場所は、時にovercrowding(混雑)になる。 そんなときは、今診療中の患者にトリアージをかける。つまり、現時点での不確実な情報のままであるが、それで診察患者の優先順位を、ラフに決定するのだ。そんな時、診察を後回しにすると判断した患者さん達には、主に医療スタッフで、ときには医療事務員などにもお願いして、次々と患者達に「待っていてください」と声をかけていく。

待ちの患者には、スタッフで手分けして、このような案内をしていく。
「申し訳ございません。今、重症患者から優先させて診療させていただきます。しばらくお待ちいただかないといけませんが、何卒ご協力ください。」

ほとんどの方は、私達に協力的だ。紳士的に待っていてくれる。

ところが、その日は、患者から怒号を食らってしまった。

「おい!どうなってるんだ!いつまでかかるんや!・・・」と大声を上げるのは、60代の男性患者だった。

救急外来での診療は終了し、後は入院のために病棟にあがるを待つだけの患者だった。だから、この患者にスタッフがちゃんと「待ってください」の声かけができていたかは定かではない。もしかしたら、誰も声をかけなかった可能性も高い。なにせ、すでに診察は終わっている患者だったから。

とにかく、私は、すぐに患者の元へ駆け寄った。そして、こういった。

「申し訳ございません。みんな一生懸命やっているんです。どうかご協力をお願いします。」

患者の怒号の同じぐらいの響きがでるように、渾身の力を声に込め、頭を下げながら言った。
そしたら、すぐにおとなしくなった。奥さんがそばで申し訳なさそうに小さくなっていたのが印象的だった。

大きな声には大きな声で返す・・・・相手の口調に合わせた対応をする。しばしば、効果的だと思う。

さて、一人の騒ぎを収めたと思ったら、今度は、またホットラインだ。
こんなときに限って、ホットラインが鳴り続くものだ。

救急隊 :「76歳、男性、腹痛です。下腹部の痛みです。本人は便秘だといっています。受け入れお願いします。」

私が、Nsに指令を出す。「今、手一杯、無理! 他から、当たってもらって!」

Nsが救急隊にその旨を告げた。しかし、救急隊も、すぐには、引かない。

救急隊 :「だめですか? 家族をそちらを強く希望しているのですが?」

Nsが私の対応をまた求めてきた。

私:「ああ~、もう! 待てる患者なのか?」

Nsを介するよりも、直接、私が救急隊とやり取りするのが早いと思った。

私:「ごめん、今いっぱいいっぱい。どうしてもって言うのなら、その患者には待ってもらわざるを得ないよ?待てる患者?

救急隊:「 はい、腹痛は自制内です。待てると思います。血圧146/66 脈拍 72 意識は清明です。」

救急隊の返事は早かった。

私は、待ちのことを了解してもらった上で、結局、この患者を引き受けた

患者が到着した。

私達が見ると、患者は苦悶様で、しかも腹部は板状硬だったのだ・・・・。

「だ・ま・さ・れ・た」と感じる医師も多いかもしれない。それほどの認識の相違だった。

「待てるといったじゃないか!! どういうことだ!!」と、こんな言葉を救急隊にぶつけたくなる状況だ。

しかし、これを現場で、感情にまかせて言ってはいけない。
そもそも、救急患者を電話のみで適切に選別すること自体が無理なのだ。つまり、電話トリアージの限界だ。この限界性を、救急に携わる医師はよく心得ておく必要がある。だから、自分の判断で救急要請を受けた以上、救急隊に文句を言っても仕方がない。限られた資源と人材で、私達はベストをつくすしかないのだ。

私は、すぐにまた、場のトリアージをやりなおし、患者の診療順序を組みなおした。
この患者を患者を優先順位一番に格上げした。我々の場の能力では、救急患者を2列同時で診療するのが限界なのだ。三列は無理である。だから、先の優先順位2番目で診療中だった患者の診療を中止せざるを得なかった。

予想通り、この患者は、重症だった。わかる方々はこの一枚ですぐわかるでしょう。
20080317CTperfo.jpg

そう、S状結腸穿孔で当院外科で直ちに緊急手術となったのだ。

待てると踏んで、私が受け入れた患者がこれである。 
もし、この患者の診療を優先したがために、他の待ち患者に悪い結果が起きたとしたら・・・・

それは、私の判断ミスでしょうか?過失でしょうか?

この患者は、断固、受け入れを断るべきだったのでしょうか?

常に、私達には、そんな不安があります。そんな悩みがあります。

多くの方々にそんな私達の苦悩をわかってほしいと思います。

そうやってばたばたしているうちに、なんとか、超多忙の救急外来の一日が終わった・・・・。

いかがでしょうか? いつもいつもこんな日ばかりではありません。 もちろん、まったり過ごせる日もあります。忙しいときは、こんな感じということが少しでも伝われば幸いです。

最後に、救急外来を利用する方々へのお願いです。 

(1)何卒、混雑時の救急診療の待ち時間にはご協力を下さい。
(2)救急医療の多くは、専門医療ではありません。各専門医の方々の善意と応援で構成されていることが殆んであるとご理解ください。
(3)救急外来という場は、(1)(2)のために、提供できる診療の質が一定でないことをご理解ください。
(4)だからこそ、たとえ結果が悪くても、医師の責任?と考える前に、自ら考えてほしいことがあります。

それを、荘子(そうじ)から引用します。 ※ 荘子(人名)は「そうし」。荘子(書物名)は「そうじ」。

荘子 山木篇 第二十

船を並べて河を済(わた)るに、虚船の来たりて船に触るるあれば、惼心(へんしん)のあるの人と雖も怒らず。一人其の上に在るあれば、則ち呼びてこれを張歙(ちょうきゅう)せしむ。一たび呼びて聞かれず、再び呼びて聞かれず。是において三たび呼ばんか、則ち必ず悪声を以ってこれに随(したが)わん。向(さき)には怒らずして今や怒るは、向(さき)には虚にして今は実なればなり。人能(よ)く己を虚にして以って世に遊べば、其れ、孰(たれ)か能くこれを害せんと

(和訳)
船を並べて川を渡っているとき、空舟がやって来てこちらの船に接触したとしますと、どんな怒りっぽい人でもあきらめて腹を立てることはないでしょう。ところが一人でも船の上に乗っていたとなると、あちらへ向けろこちらへ向けろと声をはりあげるものです。一度呼びかけてもとどかず、二度呼びかけても届かない。そこで三度めということにもなれば、必ず罵りのことばがいっしょに飛んでいきます。前の場合には、腹をたてなかったのに、こちらで怒るのは、前の場合は空舟で虚であったのが、こちらでは人が乗っていて実であったからです。人の世渡りも同じことで、己を空しくして無心の境地でのびのびと世を過ごすなら、だれもそれを害することはできないものです。  荘子 第三冊 金谷 治 岩波文庫 P80

(和訳 2chより引用)
小船が河を横切っているときに、別の誰も乗っていない船が ぶつかりそうになる。 苛立ちやすい人でも、これにかんしゃくを起こすことはない 。ところが近づいてきた船に、人が乗っていると 船をぶつけるな!と怒鳴るだろう。 さらにぶつけられた時など、悪口雑言が口からでることは必至である 。前者の場合には怒りがなく、後者の場合には怒りがあった。 人が乗っているか、乗っていないかが、分別の有無を分けた。人間というのもこれと同じで、ただ虚として人生を過ごすならば、誰がその人を害しうるだろうか。

いかがでしょうか? そもそも、病気や外傷というのは、人生というあなたが乗っている船に、誰も乗ってない船(空舟)が偶然衝突するトラブルなのではないのでしょうか? たとえ、その船に誰か(医師)が乗っていても、それは空舟と考えてみてはどうでしょうか? そうすれば、あなた自身の怒りの心が自然と収まってきませんか? それとも、船がぶつかってきたのは、その船に乗っていた人(医師)のせいとだけ考えて、あなたの人生をこれから先、ずっと憎しみと戦いのために費やしますか? それって、人生もったいなくないですか?


コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

五輪旗で医療崩壊を語る(その2) [雑感]

?↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
???

本日のエントリーは、五輪旗で医療崩壊を語る(その1)  の続きです。

「5」:心の問題(医師側)について

医師側の心の問題がどのように医療崩壊に関係しているかについて考えてみます。一言でいえば、医師のモチベーションの低下ではないでしょうか?その結果、社会現象として注目されたのが、小松先生が最初に言われた「?Aμi?e・?\μ\U\?!?\,\a" target="_blank">立ち去り型サボタージュ」という現象だと思います。

(1)失望感・無力感
人の心というものは、様々でしょう。だから、ここでは、自分の感情を中心して、失望・無力感を考えてみたいと思います。もしよろしければ、コメント欄で皆様の心のうちをお聞かせ願えれば、多くの非医療者の方々に、今の現状に対する医師の内面というものをお伝えできるのではないでしょうか? 個人的には、福島大野病院と奈良大淀病院の事例を通して、今の医療事情に対して、途方もない失望感・無力感を深く深く感じました。そして、感情の波は上下しますが、この失望感・無力感は、今も心のどこかで感じ続けています。 かつて、mixiに書いた2006年10月26日の私の日記(マイミク限定)を振り返ってみました。こう綴られていました。大淀病院の事例がマスコミによって連日ヒステリックに報道されていた頃の日記です。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=***   ←(大淀病院を報じるmixiニュースのURL)

皆さんもご存知のこのニュース。

ネット内では、いろんなところで「医師」が吠えています。
「やってられるか!!!(怒り)」 ということで。
マスコミに対する医療報道のあり方への怒りが一番多いです。

私自身、複雑な気持ちで事の推移を見ています。
なんせ、明日はわが身の立場ですから。

自分のことを自己評価すると、正直一生懸命やっていると思う。一症例ごとに、自分のあらゆる知識を総動員して、その場での最善の患者アプローチを考えている。人一倍頭をつかっているという自負はある。いくら頭だけ使っても、保険点数にはなんらかわりはないのだが、それでも自分は頭を使っている。

皆様方は、わかっているよね。
私たちのファインプレーあるよね。
ん、慰めあおう。たたえあおう。

でも、世間の評価は、あ・た・り・ま・え なのだろう

セルフコントロールの肝は、他人の評価を気にしてはいけないことであると 重々承知している。

でも、気持ちは、複雑。

なんせ、明日にでも、たった一つのエラーで、世間に叩かれまくって、自分の医師人生が終わりになるかもしれない。

そんな世の中になってしまったのがなんだか悲しい。

多くの善良な医師が今そんな気持ちになっていると思う。

これが当時の私の気持ちです。読み直してみると、今は当時よりもちょっぴり冷静な気もしますが、大筋は、今でも同じです。私のこの感情に影響しているものは、単に報道の問題だけでなく、社会自体がもつ、他者への「不寛容性」の問題もあることがわかります。

感情をさらすのは少し勇気が入りますが、あえてさらしてみました。

私の感情は、決して一般化しうるものではありませんが、医師の中に私と似たような感情を抱いている方も決して少なくないだろうと思っています。

感情には感情で帰ってくるのは、想定の範囲内ですが、一応皆様へのお願いです。

「いやなら辞めろ!」的な、人の心への配慮に欠く煽りてきなコメントはご遠慮願いたいと私は思っています。

(2)頑張りすぎ キーワードは過剰適応

頑張ることは一般に良いことと受け取られがちですが、頑張りすぎることはどうでしょうか?微妙ですよね。私はどちらかというと余りよろしくないのではと考える派です。だから、その線引きをどこでするのかという点が重要だと私は考えます。そのためには、冷静に自分自身や業界そのものを見つめる目線が必要です。そして、そのうえで、適切な適応(≒ブレーキ)を考えていかないといけません。ところが、その適切な適応のあり方を考えることなく、ひたすら頑張り続け、周りの要求に適応しようとする個人の行為や業界の姿勢も存在します。私は、それを過剰適応という表現で、警鐘を鳴らしておきたいと考えます。なぜならば、過剰適応の先には、疲弊と破綻という結果しかないと相当に高い確度で予測できるからです。基本的に人間の欲望には際限がありません。だから、その欲望に答えるべくひたすら適応することだけを考えていけば、必ず過剰適応の状態になってしまいます。ブレーキが必要という理屈はそこにあります。

医療業界が、過剰適応の結果、疲弊と破綻という末路と陥らないためには、「足るを知る(老子→禅、仏教へ)」の精神が普及し、生への欲望や死へ不満を過度に求めずに、現状の医療のままで満足し幸福感をもつことが、今の社会に求められている姿勢ではないでしょうか? 業界としては、できないことはできないと正直に主張する勇気と決断を持つことが、過剰適応を避けうる一つの方法だと思います。いずれも、難しいだろうとは思います。ですが、これが私の理想です。

(3)不信
私達、医療者も今、多くの不信感を抱いていると思います。一つは、厚労省に対する不信です。一つは、報道に対する不信です。そして、もう一つは、患者に対する不信です。厚労省に関しては、事故調査委員会の設立に関する思案のどたばた等にて、もはや医師からの信頼は地の底に落ちたといえるのではないでしょうか?報道は、社会の流れに応じ、報道内容を随時変化させていきます。そういう意味では、医療に対する報道は、かつてのバッシング一辺倒からは、変わってきたとは思います。それでもやはり、報道に対する不信は根強く残っていると思います。昨年より、モンスターペイシェントなどの言葉が報道にも登場するようになりました。実際に、現場で患者さんと接していても、常識はずれの態度や行動を示す患者さんに出会います。もちろん、そんな人は、極々少数派です。大多数の患者さんは、常識のある方です。ですが、患者さんと初めて会うことの多い救急外来という場の特性上、どうしても最初から患者さんを信用できずに、不信感を持ってしまうことはあります。

このように、医師側にもいろいろな不信が心の中にあります。それは、直接的、間接的に、対患者さんとの関係の中で、対地域との関係の中で、何らかの影響があるのだろうと思います。

不信は、また新たな不信を生み、相互関係をぎくしゃくしたものにします。だから、医師側が抱く不信は、自己の問題としてそれを受け入れ、視点や考え方を自らで変え、そして不信を解消させる自己努力は必要かと考えます。もちろん、それは、患者側にも同じくお願いしたい自己努力ではありますが・・・・。

(4)意欲喪失
どんな事情や理由であれ、多くの医師が現場を去ること。これが、医療崩壊問題の本質だといえると思います。現場を去るということは、意欲喪失という医師の心の中に宿る問題があります。その点を鑑みずに、強制配置して医師を確保すればいいなど発想では、現状の回復は望めないでしょう。だから、医師が意欲を喪失しないためにはどうしたらいいのか?そういう視点を一人ひとりに考えてほしいです。特に、政策立案にかかわる政治家の先生方には、医師の意欲維持・回復といった視点から、政策を考えてくださることを私は望みます。よろしくお願いしたします。念のために申し上げますが、業界自身で解決せねばならない点があることも心得ているつもりです。

以下、2,3,4に関しては、ごく簡単に触れるに留めます。

「2」:報道の問題について

(1)負の増幅効果 - ゼロリスク社会の増幅・相互不信の増幅・生への執着の増幅- 
(2)知ることの弊害
(3)誤解を誘う情報

メディアには、種々の増幅効果があります。いくつか私が思うところの負の増幅効果を上に書きましたが、主に「死」の報道についてここでは考えてみます。メディアには、死の報道に関してこんな背景があるようです。a??a?¨a?aa?1a? ̄a?≫a??a?!a??a?,-a2!a?¬-aμ[コピーライト]a,€/dp/4781906710" target="_blank">リスク心理学入門 岡本幸一著 サイエンス社 P125より引用。リスクに関するあるシンポジウムでの現役記者の発言です。

 これまで出てきた各種リスクについてどういうふうに報道されているかということを簡単にご説明します。まず原則としましては、報道においては人の命には軽重がありまして、日本人の命というのは外国人より必ず重いんです。それから、巻き込まれた一般人の命というのは、専門家の命、事故に関連する業務にかかわっていた人の命のより、はるかに重いです。それからこれは当たり前ですが、有名人の命は無名人より重いです。
 こういう原則みたいなものがありまして、まず自動車事故についてどういう報道のされ方をしているかといいますと、(中略)原則として
「死ねば出す」となっています。(中略) それから、子供が絡むと大きなニュースになりやすい。大人が死んでも、顔写真は、自動車事故の場合はめったに載らないのですが、子供が死んだら顔写真は必須となります。 (中略) 次に航空機事故について考えますと、これは被害者に日本人がいるかどうかが大きな分かれ目になります。(中略) 社会面ではなぜその飛行機に乗ったかとか、乗る前はどんな様子だったか、かなり情緒的に報道されます。

まあ、こんな感じだそうです。 なんだかなあと思います。こうして選択された死の報道が、メディアの増幅効果をとおして世間の死生観にどんな影響を及ぼしているのでしょうか?世間の死生観は、医療崩壊問題と直結すると考えている私としては、とても不安です。野の花診療所の徳永進先生が、ある著書の中で、「死の実況中継」をやればいいのにという提案をされているのを私は読んだことがあります。まったく私もそう思います。頻度の低い死を派手に報道するより、日常的な死を広く報道し、世間が「死」に対してオープンになれる世論が形成されることを私は希望します。生への執着を増幅させるのではなく、死への受容を増幅させてほしいと思っています。死を考えることは今の生を考えることなのです。決して、生と死は対立の関係ではないということを繰り返しここでも主張しておきます。

私は、ある知り合いの議員に、報道抑制の提案を行ったことがあります。知ることの弊害を懸念しているからです。よく知る権利ということばが聞かれますが、知らない権利だってあってもいいのではないかと思います。今のメディアは、リスクを過敏に報道しすぎると思うのです。知らなければ、平穏であるはずの生活が、知ってしまったがためにそれが崩されるということもあるのではないでしょうか?

誤解を誘う情報は、メディアに蔓延していると思います。私達は、メディアリテラシーを持つことが急務だと私は考えています。(参考エントリー:メディア・リテラシーと「死」の受容 )

「3」:法律の問題について

(1)訴訟(刑事・民事)
(2)法の「過失」と医療行為
(3)医師法21条
(4)労働基準法

4つほど、問題と思う項目を挙げましたが、ここでは各論について触れません。私が、政策立案者や法の関係者に述べたいことは、前エントリーで述べた悲嘆のプロセス12段階の存在を知り、そして考えほしいということです。

①精神的打撃と麻痺状態②否認③パニック④怒りと不当惑⑤敵意とうらみ⑥罪意識⑦空想形成・幻想⑧孤独感と抑うつ⑨精神的混乱と無関心⑩あきらめ-受容⑪新しい希望⑫立ち直り

死に遭遇したばかりの遺族は、こういう心理が働きます。勢いのあるご遺族は、その一時的な感情(特に④、⑤)にまかせて、法的な行動(刑事告訴など)を起こそうとします。それは、紛争の火の手が拡大してしまうことと直結します。だからこそ、遺族がまだこの感情のプロセスの中にあるときは、刑事捜査や民事訴訟を起こしたくても、まだ早急には起こすことが出来ない具体的な法体系があると良いと思いませんか?これは、ご遺族の訴訟の権利を奪うという主旨ではなく、医学的な感情の乱れにある時期にのみ、訴訟を起こすことができないという提案です。何でもかんでもすべての医療行為に対して免責を要求しているわけではありません。これが私の主張です。

片方に患者さんがいるんです。患者さんの家族がいるんです。

なぜ、警察もうごいてくれないんだ
どう考えても医者のミスじゃないのか
不明ですませるのか

という声が出てくるんです

これは、どなたのご発言だか、覚えていますか? 舛添厚生労働大臣のお言葉ですよ。(参考エントリー:診療関連死法案 舛添大臣の答弁) きっと大臣は悲嘆の心理プロセスをご存知ないのだろうなとこのご発言から私は推測します。

法の介入は、もっと後だっていいじゃないですか? 十分に悲しみの感情を発散させ、関係者のみで十分なコミュニケーションをとった後でいいじゃないですか?法が動き出すのは・・・・・。

ぜひ、こういう見方もあるということを私は議員の先生方にお伝えしたいです。

「4」:医療体制の問題について

(1)医師不足
(2)医療費抑制
(3)労働環境
(4)スピリチュアルケア

(1)(2)(3)は、随所で語りつくりされていることなので、もう、ここでは述べません。(4)の視点が私独自かもしれませんので、これについてのみ述べます。

私は、今の医療崩壊には、「心」の問題が大きいと主張してきました。ですので、最後に、医療体制から、「心」の問題を触れてみたいと思います。

スピリチュアルケアとは何ぞや?江原啓之をイメージされることが多いかもしれませんが、とりあえず関係ないと思っておいてください。スピリチュアル=霊的というイメージのみで解釈すると言葉の誤解を受けそうです。

誤解のないように、スピリチュアルケア入門 窪寺俊之 三輪書店 P13から引用しておきます。

スピリチュアリティをひとまず次のように定義しておきたいと思います。

「スピリチュアリティとは人生の危機に直面して生きる拠り所が揺れ動き、あるいは見失われてしまったとき、その危機的状況で生きる力や、希望を見つけ出そうとして、自分の外の大きなものに新たな拠り所を求める機能のことであり、また、危機の中で失われた生きる意味や目的を自己の内面に新たに見つけだそうとする機能のことである」

少し説明が必要です。人が思いがけない人生の危機(突然の病、死別など)に直面すると、激しい心の動揺を経験します。その状態から立ち直るために、人は自分の外にある絶対的存在や、人間的限界や有限性を持たない世界に、新たな「生きる力」や「希望」を求めたりします。また、自分にとって最も重要なものは何かという視点から、隠れていた真の自己と出会うことで危機を乗り越えて生きるための新たな「人生の意味」や「目的」をつかもうとします。このような心的機能がスピリチュアリティで、これは生得的ですが、危機に瀕したときに覚醒し、力を発揮します。

医療の中で、患者や家族のスピリチュアリティの覚醒が必要とされる場面が、「死」に他なりません。これまで、生命を延ばすことに、ただ一生懸命だった医学の発展の歴史からみれば、このスピリチュアリティを援助する(=スピリチュアルケア)視点が、実践医療の中において、システム的(保険点数など)としてはもちろんのこと、学問的にさえ、まだまだ立ち遅れているのではないでしょうか? 

医療崩壊の打開策として、医療者と患者の対立を緩和させうるシステムは不可避だと私は考えます。スピリチュアルケアの視点を医療システムの中に積極的に取り入れていく視点は、その一つの策だと思います。

以上が、人の「心」という視点を中心に据えて、考えるうちに私の脳裏に思い浮かんだ提案です。

結局、患者と医療者の対立が問題なわけですよね。医療崩壊の根底には。だからこそ、この両者の心のあり方を思索するのが、重要であると私は思うわけです。

最後にもう一度五輪旗を出して、まとめます。

図1.jpg

(まとめ)
昨今の医療崩壊を考えるにあたり、患者側の心と医師側の心の有り様を見つめることは重要である。いかにして、この両者の対立を無くしていくか。これが極めて重要な目標である。医療は、死と直面が避けられない業種であり、死生観のあり方や悲嘆の感情のプロセスの理解がまず必要である。また、患者側医師側の両者の相互不信感の解消や不寛容性の是正も必要である。この両者の関係の修飾因子として大きなものが二つある。報道の問題と法律の問題である。特に悲嘆の感情のプロセス初期においては、この二つの因子を早期介入させないことが、対立の拡大予防策として重要である。報道業界の自立性と何らかの法改正を望みたい。医療体制の中で未発達の分野は、スピリチュアルケアの分野である。この分野を発展させていくことは、医師と患者の相互理解ひいてはその対立の緩和という視点においても有用であると考える。両者の対立が緩和され、医療システムの問題が改善されれば、その帰結として、医師のモチベーション低下の問題は自動的に解決するであろう。


コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

五輪旗で医療崩壊を語る(その1) [雑感]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

もうすぐ、北京オリンピックです。いろんな政治的問題はあろうと思うが、是非成功してほしいものですね。もちろん、日本にも頑張ってもらいたいです。今回は、あまり五輪と脈絡はないのですが、あえて医療問題を皆様方に印象深く感じていただくために、こじつけは承知の上で五輪旗とからめて、医療崩壊問題を5つの視点から眺めてみることにします。

私は、医療問題を語るときに、人の心の問題は、絶対に切り離せない問題であり極めて重要な視点であるという認識を持っています。ですので、これからの話は、当然そこに力点が込められたものになろうかと思います。

まずは、私が作成した五輪旗:医療崩壊版をご覧下さい。 まあ、こんな感じです。 とりあえず、印象的に眺めてもらったら、それだけで結構です。
図1.jpg

いかがでしょう? ぶっちゃけていえばただの目次です。 番号順にこれから私見を述べていく予定です。その前に図の右下にある相互関係性のところから説明をしておきたいと思います。

私は、医療崩壊の根底には、患者側(1の円)と医師側(5の円)、それぞれの心の問題が大きく関与していると思っています。 その関係性は、原因と結果という直線的な関係性ではなく、相互関係という認識です。ですので、1と5を結ぶ矢印は、⇔としているわけです。 医者が・・・だからとか、患者・・・・だからとかいう直線的な因果律は、全くナンセンスだと思っています。

で、他の円(2,3,4)は、それはそれぞれ重要だけれども、それでも私の見方は脇役という位置づけです。 だから、1と5の相互関係に影響する因子という意味で、図に示すような関係性で表してみたわけです。

では、1、5、2、3、4の順番で、それぞれの各論に入っていきたいと思います。

「1」:心の問題(患者側)について

(1)死生観・死との直面
医療は、生と死を扱います。言い換えると、人間の知に基づいた操作です。その操作は、生命のもつ本能により、「死を回避し、生を維持する」という方向を目指します。それが医療です。しかしながら、この方向性は、(長いタイムスパンとしてみれば)最終的には100%失敗するというのが、万人が認めざるを得ないところの真実です。だからこそ、人間は、ずっと「死」を考え続け、その体系として、多くの哲学や宗教ができあがってきたのではないのでしょうか? 幸か不幸か、人間は、20世紀に入り、多くの技術を獲得し、確かに人間の平均寿命を大きく伸ばしました。もちろん、世界レベルで見れば、大きなばらつきがあるでしょう。ここでは日本という狭い中で考えてみます。20世紀の医学の発展により、多くの日本人は、身近に死と直面しなくても、社会生活が普通に営める時代になってしまってはいないでしょうか?だから、死生観について自己洞察する必要性をなんら感じていない人が多数派なのではないでしょうか?

そんな背景で、いきなり自分の死を直面しないといけなくなったり、家族の死と直面しないといけなくなったとき、普通の人は混乱します。そしてそのとき、人の心にはどんな感情が生じるのでしょうか? 平素の死生観がなければ、なおのことその混乱が大きくなり、感情も激しくなりそうです。では、そのような人たちに生じる感情は、どのような変化をしていくのでしょうか?

それは、死とどう向き合うか アルフォンス・デーケン NHKライブラリー P37~に、 多くの人に共通するという「悲嘆のプロセス」としての12の段階があると記載されています。
①精神的打撃と麻痺状態②否認③パニック④怒りと不当惑⑤敵意とうらみ⑥罪意識⑦空想形成・幻想⑧孤独感と抑うつ⑨精神的混乱と無関心⑩あきらめ-受容⑪新しい希望⑫立ち直り

さて、悲嘆のプロセスに、こういった感情の変化があるとして、今の社会において、このプロセスがつつがなく進みうることを考えての体制の整備がなされているでしょうか? 私はなされていないと考えます。むしろ、それどころか、④怒りと不当惑⑤敵意とうらみのステップあたりで、報道(2の円)や法体系(3の円)が医師と患者側の間に入ってしまうことで、ますます患者側の感情がこじれてしまい、結果として医師への不信を大きく増加させてしまっている現状はないでしょうか?そして、それが訴訟や報道という形で、他の医療者の心にまで影響を及ぼし、その複合的な結果として、今の医療崩壊という現象の一面が説明できるのではないでしょうか?

だから、医療者や政策決定立案者をはじめとする様々な分野の関係者が、こういう心理過程に対して無知・無関心である限り、医療崩壊問題の根底は解決し得ないと私は考えます。

死生観についてですが、私が今、勉強中のものが、荘子です。 物事の対立を否定し、万物を「一」とみなすスタンスをとります(万物斉同)。死生観もそれに根ざしており、死と生に対立はありません。(参考エントリー:生と死は対立ではない ) 難しいかもしれませんが、多くの日本人一人一人がこんな荘子の境地にたてれば、医療崩壊問題はおのずと解決するのかもしれません。

時に安んじ、順に処(お)れば、哀楽も入ること能わず。古者(いにしえ)は、帝の県解(けんかい)と謂えりと。 (荘子 内篇・養生主第三)   

訳:巡りあわせた時のままに身をまかせて自然の道理に従っていくというなら、生まれたからといって喜ぶこともなく、死んだからといって悲しむこともなく、喜びや悲しみの感情の入り込む余地はない。こうした境地を、昔の人は、絶対者からの束縛からの解放と呼んだのだ。        (荘子 第一冊 金谷 治 訳注 P100)

生と死は、自然という感覚が納得できれば、荘子のこの境地もわからないはないですが、人間は、感情の動物であり不安定です(これは、荘子も認めている)。 だから、悩んで良いのです。苦しんで良いんです。悲しんで良いんです。 そして、そうしながら、周りの援助を受けながら先にあげた12のステップを通過していけばいいのです。 ただ、その不安定さが少しでも安定に近づくために、先人達の境地を一度は自分で勉強しておくとよいのかもしれません。いざというときの自分の心の平穏のために。私は、そう思います。

こういう心の視点から、社会的な医療崩壊問題を語る人が、一人くらいいてもいいのではないかと思い、私がこうして主張しています。


(2)ゼロリスク希求  参考エントリー リスクを認め付き合うこと 

死や疾患、あるいは医療上の合併症や副作用などを、リスクという捕らえ方をした場合、そのリスクをどの程度社会の中で許容するかという視点は重要です。その視点が欠落すると医療という公共の社会資源を永続維持していくことが困難になるからです。そのことを、大学入試センター試験(800点満点)を引き合いに出して考えてみます。つまり、800点をリスク0と考えます。そして、テストで高得点をめざす学習行為そのものを医療安全行為とします。 さて、ある時の医療安全体制で、センター結果試験の結果は、300点でした。まだまだですよね。そこで、努力をしました。そしたら、比較的容易に500点になりました。 しかし、世間はまだまだ許しません。ゆるぎない安全を求め続けます。そこで、医療業界は努力しました。今度の試験では、なんと650点まで挙がりました。すごい努力です。多くの人がその安全の恩恵を受けられるようになりました。それでもリスク発生は0にはなりません。だから、世間はまだまだ許しません。医療業界は、総力をあげて努力を続けました。中には過労死をする人も出始めました。それでも努力しました。そして次の試験では、なんと720点まで取りました。すごい努力です。でもやはり、リスク発生は0になりません。 さて、このまま、世間がリスク発生0を求め続けたら、医療システムはどうなると思いますか? つまり、720点からあと80点上げるために、どれくらいの勉強が必要ですか? そう考えると、それは300点を600点にするよりもはるかに現実不可能な要求であることがわかりますよね。というか、そんなこと本気でやったら受験勉強だけで一生が終わっちゃいますよねきっと。つまり、私がいいたいゼロリスク希求とは、現状の状況(現在の点数)を見つめたうえで、その妥協点を考慮することなく、ただ、ただ800点満点を求め続けるバランス感覚の乏しい要求のことです。こういう感覚が患者側に幾分かはあるのではないかと私はなんとなく感じています。 これぐらいでいいという妥協意見が、患者側から全く聞こえてこないからです。もし、この感覚が世の主流だとしたら、他の要因をどんなにいじろうとも、医療崩壊は必然だと思いませんか?

(3)不寛容性  参考エントリー 医師-患者関係を考える<前半>
ここに示した参考エントリーが、この不寛容性について語ったエントリーです。キモはこれです。

他者に対して過度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがある

病的なまでに医療者に対して、過度に不寛容な人たちは、医療現場のスタッフのモチベーションを地の底まで突き落とします。それは、退職や転職や配置転換などの目に見えるかたちで表出することもありますし、自分の内面のみで苦しんでしまい、外部からはその被害がなかなか見えづらい場合もあります。いずれにしても、過度に不寛容な人たちは、医療者の心を蝕み、医療者の時間を過度に浪費させ、マクロな視点で眺めれば、医療システムを機能不全に陥らせてしまうということにつながるわけです。

(4)無関心  参考エントリー 「真実を知りたい」に対する私見
さて、社会の中で、医療と関わりをもつ人はどれくらいでしょう。高齢者になればなるほどその比率は上昇するでしょうが、全年齢で見れば、普段は医療とは無縁の方が圧倒的多数ではないでしょうか? そして、その人たちの多くは、医療崩壊に無関心なのではないでしょうか? この多数派層である無関心層が動かないと、日本のシステムは変わりません。それが民主主義の政治だからです。今、医療者は、一生懸命現場から、SOSを発しています。 そのひとつの良い形が、先月の12日行われた「医療現場の危機打開と再建をめざすシンポジウム」ではなかったのしょうか?しかし、その参加者は、圧倒的に医療関係者で占められていました。やはり世間は、医療崩壊問題に無関心なのだなあと思いました。無関心層には、おそらく先にあげた(1)~(3)の視点をもつ人たちが相当数いるだろうと私は思います。その無関心層に医療崩壊の問題をどう認識してもらうかは、おそらく政治家の先生方の手腕が大きく関与するのだろうと思います。だから、私達医療者は、自分達の声を、まずは政治家の先生方に確実に伝え、私たちの思いをわかってもらう努力が必要なのだろうと思います。

(5)不信  

患者側に潜む医療に対する不信・・・・・。この心の問題は、医療問題を考えるに当たり、最大の難課題だと思います。死別の混乱した感情の中で、(1)に示したような心理プロセスの中の一過性といえる不信感は、そう大きな問題ではありません。もちろん、それをこじらせなければの話ですが・・・・。 世の中いろんな人がいて、一生ある人を恨み続け、恨んで恨んでそれでも恨みきらずに一生を終えていく人もいます。つまり、恨むことがその人の人生の中心に来てしまうわけです。それと同じで、医療に対して、固定した不信を一生抱き続けていく人たちも存在するわけです。ネットの中を渡り歩いていると、患者側の立場の人たちが作成したブログやホームページに時々出会います。中には、医療に対する不信と怨念の強さと深さを感じざるを得ないものもあります。 このように医療に対していただき続ける不信感は、その人の心の中に、(3)に述べたような不寛容性をつくりあげてしまうでしょう。そして、それは、医療というシステムを機能不全にさえ陥らせる潜在的なパワーがあるといえるでしょう。そこだけをみると、医療者とは対立しかありえないことになります。ただ、難しいかもしれませんが、そのパワーがうまく違う方向に向くように変わってくれれば、医療者の良きパートナーとなりえる可能性もあるかもしれません。こういう人たちは、絶対数から言えば、圧倒的に少数派です。このように声の大きい方々のすっかり固定してしまった医療不信という視点を変えることができるのは、医療を信頼してくれている患者の方々の声なき声かもしれません。だから、国民の代表である政治家の先生方には、そのような声なき声を、形ある一つの声にすることを考えてほしいです。それが、私の希望です。

今回は、これくらにしてます。 その2へ続きます。


コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

胎盤早期剥離の事例に思うこと [医療記事]

?↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
???

5月3日13時40分を持ちまして、このエントリーに関するコメント受付を中止する措置をとらせていただきました。今回の事例に関してあまりに具体的な情報と思われるコメントが関係者と名乗る方から投稿されたためです。大淀病院の先行事例がございますため、自分のブログ管理方針としてコメント受付中止とさせていただいた次第です。私は、自分のブログ上で、あまりに具体的なことをやりとりをしたくないのです。ご理解の程お願いします。(5月3日 13:40記)

本日、こんな報道がなされました。

http://www.shizushin.com/news/social/shizuoka/20080502000000000064.htm    魚拓

大量出血の妊婦死亡、胎児も助からず 静岡の病院
05/02 14:52
静岡厚生病院(静岡市葵区北番町、玉内登志雄院長)は2日、陣痛を訴えて来院した静岡市内の妊婦(24)が大量に出血し、死亡する医療事故があったと発表した。胎児も助からなかった。病院と遺族はそれぞれ、静岡中央署に届け出た。同署は司法解剖するなどして過失の有無について任意捜査を始めた。同病院によると、妊婦は分娩(ぶんべん)予定日を3日すぎた4月27日午前0時ごろ、陣痛が始まったと同病院に電話連絡。対応した看護師、助産師は問題がないと判断し、自宅待機を伝えた。妊婦は約6時間後に再度電話で訴えて来院し、同日午前8時すぎに医師が診察したところ、既に胎児の心拍は無かった。母体は、胎児がまだ子宮内にいるのに胎盤がはがれてしまう症状「胎盤早期剥離(はくり)」が確認された。緊急帝王切開を行い、子宮内から死亡した胎児を取り出した。母体は3リットルを超える大量の出血があり、輸血を含む5リットル以上の輸液で対処したが、けいれんや意識レベルの低下が起こり、妊婦は同日午後1時40分ごろ死亡した。妊婦は昨年9月に同病院を初めて受診し、死亡2日前の4月25日の診察では母子ともに異常はなかったという。玉内院長は「母子ともに亡くなった結果について遺族におわび申し上げます」と述べた上で、「現段階では医療過誤との認識はない」と話した。病院の届け出を受けた静岡中央署は病院関係者から任意で事情を聴き、カルテなどの提出を受けた。胎盤早期剥離 通常、胎児が生まれた後で胎盤が子宮壁からはがれるが、胎児がまだ子宮内にいるにもかかわらず胎盤がはがれてしまう状態。胎児への酸素供給が止まってしまうため、緊急に帝王切開して胎児を取り出す必要がある。重症だと母体は大量出血に見舞われ、生命の危険に及ぶ。妊娠中毒症患者らに発症の可能性が高いと指摘されているが、正常な経過をたどっていた妊婦が突然発症するケースもあり、予測は難しいという。

わが子を自分の胸に抱くことなく旅立たれた妊婦の方と名前を授かる間もなく旅立ったお子様に心からご冥福をお祈りします。それと、ご家族のご心痛はいかばかりかとお察し申し上げます。 しかし、常位胎盤早期剥離・・・本当に恐ろしい病気ですね。 私の経験では、その怖さを、自分の実体験をもってお伝えすることができませんので、ブログからの引用とさせていただきます。 

ある産婦人科医のひとりごと: 常位胎盤早期剥離について  これは2006年1月24日のエントリーです。 そこから一部抜粋します。

常位胎盤早期剥離は母児の命にかかわる非常にこわい病気ですが、いつ誰におこるのかは全く予想ができません

いかに医学が進歩したとはいえ、この病気の発症を予測することは未だに不可能です。常位胎盤早期剥離は全妊娠の0.44~1.33%程度に発症すると言われてます

常位胎盤早期剥離の母体死亡率は4~10%児死亡率は30~50%といわれています。

このような医学的な背景をもって、新聞記事を普通に読むと、病死なんだろうなあと私は思います。

さて、こういうまれな死亡事例に遭遇したとき、社会の向かうべき方向はいったいどこなんでしょうか?

1)「悪人はどこかにいないかっ?」 「いないかっ?」 「探せっ?」 という発想で、加害者を探しに行くいくことでしょうか?
上記記事においては、 司法解剖するなどして過失の有無について任意捜査を始めた の一文がそれに該当します。これは、今の社会の法体系そのものだと思います。 私は、おかしな社会だなあと個人的に思っています。全力で行う医療行為に対しても、こういう色眼鏡で社会から見られてしまうことが、多くの医療者の心を折っているのだと思います。この報道事例は、今後どのように進展していくのでしょうか? まだわかりません。今はただ、見守るのみです。

2)再発予防を最優先に、人・もの・金・時間を徹底的に費やすことでしょうか?
これをイエスと思う人は、大自然からみれば、ごくちっぽけな存在に過ぎない人間が、人の生死という自然現象をコントロールできるという幻想に犯されてはいないでしょうか?だから、私は、この2)もおかしいなあと個人的には思っています。 一見、最も正論にみえると思いますが、社会全体がこのことに対する気づきがなければ、どんどん泥沼にはまるばかりです。イメージとしては、Xをリスク値、Yをリスク回避に要する総資源量とすると、その関係はY=1/Xのようなものになるという感じです。 このグラフでは、X→0のとき、Yはどうなるでしょうか? わたしが言いたいのはそういうことです。 言い換えると、社会として、どこかでリスクを容認するという姿勢が必要というわけです。 そして、死に関して、リスク容認の心を持ちえるためには、そのような死生観を個人個人が持ちえることが重要だと考えています。

3)この死亡事例にかかわりのあるご家族や医療関係者へのグリーフワークが必要ではないでしょうか?
私は、これこそが最も必要だと思います。少なくとも私の知る限りでは、確立された社会システムとしてグリーフワークが現在行われているとは思えません。(ボランティア活動等はあるかもしれません。私が知らないだけだと思います。)もっと社会に普及されるべきだと考えます。そのためにも、メディアが、その必要性を広く報道すべきだと私は思っています。

産婦人科医療崩壊を少しでも回避に近づけるためには、産科リスクをどこかのラインで社会が容認することがきわめて重要だと私は思います。

とても残念な続報です。 ゼロリスク社会を背景とした重大な社会問題だと私は考えます。 つまり、死が受け入れらないという重大な社会問題です。


以下、5月3日 追記です。続報がでました。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/news/20080502-OYT8T00771.htm


病院 「急変予測できず」
妊婦・胎児死亡 
遺族は提訴検討

模型を使いながら事故について説明する玉内院長(中央)ら(静岡厚生病院で) 静岡厚生病院(静岡市葵区北番町、265床)は2日、同病院で4月27日に手術を受けた静岡市駿河区の妊婦(24)と10か月の胎児が死亡する医療事故があったと発表した。玉内登志雄院長は「典型症状ではなく、急激な悪化を予測できなかった」と述べ、想定外の事態だったことを強調したが、遺族は病院の対応に不信感を募らせている。同病院によると、妊婦は初めての妊娠で、昨年9月から同病院に通院。妊婦は、死亡する約14時間前の27日未明、陣痛が出たため同病院に電話したが、応対した看護師や助産師が「痛みは強くない」と判断、いったん自宅待機となった。同日早朝、再び陣痛が強くなり入院。胎児の心音が確認できず、呼び出された産婦人科医が、分娩前に胎盤が子宮内ではがれる「胎盤早期剥離(はくり)」と診断、帝王切開したが、胎児は死亡していた。手術後、妊婦も血圧が急激に低下し、大量出血を起こして死亡した。胎盤早期剥離は妊婦の1%程度にみられ、胎児に酸素が供給されないため、胎児死亡率は30~50%と極めて高い。妊婦も出血を起こすことが多いが、死亡率は一般に10%未満で、妊婦、胎児とも死亡するのは「妊娠5000~1万例中に1例」(玉内院長)とまれだという。玉内院長は「胎盤早期剥離は予防できず、早期発見するしかない」と言うが、「死亡2日前の診察では異常は見られなかった」ともしている。
妊婦の父親(55)は読売新聞の取材に、「事故当日、病院は『出血はさほどなく、(死亡の)理由はわからない』と言っていたのに。今の時代に、母子ともに死亡するなんて信じられない。提訴も検討したい」と話した。

(2008年5月3日 読売新聞)

ご遺族の医療者への感謝の念を伝える続報を、期待していた私だけに、とても失望感が大きいです。

提訴を匂わせる報道がなされました。本当に残念という一言に尽きます。 ただ、ご遺族のお気持ちを否定する気は、私にはありません。これが日本社会の一面であり現実なのでしょうから。

(ただし、記者が、「訴訟はどうしますか!」等の意図的な質問をし、ご遺族側の言質を無理やり引き出した可能性も私達は考えておく必要があります。 記事というものは、メディアが加工した一つの料理にすぎません。そこには、記者の意図や誘導が入ります。だからこそ、読者自身が、記事からいろんな可能性を自分で考える必要もあるといことです。)


今の時代に、母子ともに死亡するなんて信じられない

このご遺族のご発言が、まさにゼロリスク社会ならではの感覚からのご発言といえるでしょう。
(メディア側が、ご遺族の発言の一部のみを切り取ってこういうニュアンスをあえて出している可能性もあり、これがご遺族の本意のご発言ではない可能性があることも併せて併記しておきます。)

産科医療に携わる方々が、一生懸命になって、産科医療のリスクをものすごく下げ続けてきたことによって、逆に、こんな感情が発生してしまう。実に皮肉なことではないですか

メディアは、医療の悪い結果の場合は、社会全体の影響を十分に思慮することなく、個人の感情を、マスコミ情報として、いっせいに日本全国にばら撒いてしまう。
一方、メディアは、医療の良い結果の場合は、積極的に報道する姿勢が欠落しています。

そのメディアのあり方は、医療者の心に、確実の「負」の印象をもたらし続けています。そして、それは、社会の中での医療資源のパワー不足につながります。今現在、もう表在化しています。 そして、このような事例とその報道のあり方一つ一つが、確実に悪化の道へと突き進んでいます。そういう意味ではこの事例も程よい効果のある崩壊促進事例といえると思います。

メディア報道と社会のリスク感覚とは、リンクしていると私は思います。

最近の硫化水素自殺の事例をみれば、明らかなように、メディア報道と社会風潮がリンクしているのは明らかでしょう。

社会資源としての医療を守るには、

1)個人個人の感情を慰撫する社会システムの確立
2)社会システムとしての提訴抑制の確立
3)社会的見地から見た場合の有害報道の抑制システムの確立
4)生と死は対立ではなく共存という心のあり様を社会的に普及させるシステムの確立

こんな視点必要ではないしょうか。あくまで、私見にすぎませんが・・・・・・・


コメント(7)  トラックバック(3) 
共通テーマ:日記・雑感

謎の胸痛 [救急医療]

?↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
??

夜間の時間外診療にしろ、正規の内科外来診療にしろ、徒歩来院を対象とした患者層の中には、本人が症状を訴えるにも関わらず、レントゲン、心電図、血液、尿などの検査には、何ら異常がない人はかなり多い。

諸検査で、異常がないとき、私達はしばしばこう言う。

「よかったですね。検査には異常はありません。今日のところは様子を見てください」

私達のこの台詞に対して、患者のリスポンスは様々だ。例えば、両極端な二つの例を挙げる。

「はあ~~、良かったああ・・・異常がなくて・・・」
「え?、そんなはずは?異常がないなんて・・・・」

前者の場合は、我々の対処も楽だ。診療は、スムーズに終了する。
問題は、後者の場合だ。

この場合、極端に病的な場合は、「心気症」という診断が下される場合もあるが、ここでは、そこまで極端な例を除いて考えておくことにする。

後者の反応をする人たちは、しばしば、こんな質問を私達に投げかける。

「じゃあ、私の症状はどうして起きるのですか?」

ややもすると、私達医療者は、余りに簡単に、こう答えてしまわないでしょうか?

「心因性かもしれないですね」
「ストレスのせいかもしれないですね」

この時点で、患者と医師のコミュニケーションが上手くなされないと、患者の症状は、さらに悪化し、慢性化する場合さえあるかもしれない。

本日は、そんなことを考える症例を提示してみたい。

患者さんは、Hさんとしておく。

45歳男性  早朝の安静時胸痛

5,6年前よりほぼ毎朝5時ごろ、約20分間の安静時胸痛を自覚していた。そのため、循環器科で心臓カテーテル検査が昨年行われた。結果、冠動脈に狭窄を認めなかったため、冠攣性狭心症(VSA:vasospastic angina)が疑われ、カルシウム拮抗薬が開始された。現在も服用中である。しかし、カルシウム拮抗薬が開始されてもなお、毎朝の胸痛は改善せず、循環器科で、薬の増量や他薬併用をしているが、改善していない。効果がないので、時々、本人は怠薬をするようになったが、怠薬にても胸部症状が逆に増悪することもなかった。循環器科の主治医は、逆流性食道炎(GERD:Gastro-Esophageal Reflux Disease)を疑い、消化器科に紹介し、胃内視鏡検査を施行してもらった。結果、軽度のびらんが認められるものの、GERDとして胸痛を説明できるほどの所見は認められなかった。

そんなHさんが、朝の時間外を受診した。今度も同じような胸痛だった。ただ、いつもより症状の程度が強かったため、不安が高じて、正規の外来を待てずに、受診したのだった。

担当した当直医師は、型どおりの検査と診察を行った。異常はなかった。だが、もうしばらく待てば、正規の外来が始まるので、それまで、本人に救急外来で待機してもらうように伝えた。

Hさんは、その指示に従い、待った。そして、循環器科の外来を受診した。 Hさんの外来主治医は、本日カテーテル検査日だったので、別の循環器科医師(K医師)が、Hさんの対応を行った。 Hさんとその医師は、初対面だった。

Hさんは、K医師に告げた。
「最近、朝の胸の痛みがひどい気がします。食欲もなく、眠れないのです」 

K医師は、少し長めの問診と身体診察を行った。結果、胸痛以外の症状としては、頭痛と食欲低下および不眠があることがわかった。パニック発作は問診から否定的だと判断した。

K医師は、患者のこれまでのカルテや入院時のサマリーを読みながら、少し考えた。
そして、おもむろに、患者さんに、今自分が考える病態の説明を始めた。

もし、皆様がK医師の立場なら、どのような説明を患者に行いますか?

本日のお題は、確定診断を求めるわけではございません。 頭の中ではそれなりに鑑別をたてながら、患者さんにどのように説明するのかということをテーマにしてみました。

いろんなご意見をお待ちしております。あのお・・・地雷にはこだわらずに普通に考えていただいてけっこうです。

(4月29日 記)

たくさんのコメントありがとうございます。ほぼ全員の先生から、「うつ」の可能性のご指摘をいただきました。たしかに、それはあると思います。ですが、私が、この症例から伝えたいと思ったことは、「うつ」の指摘ではありません。キーワードは、機能的疾患。 そして、そのことを念頭に置いた病状説明です。

とりあえず、症例を続けみます。

K医師は、Hさんにこう告げた。
「確かに、胸部の痛みが悪くなっているようですね。こういうときは、気分がどうしても落ち込むものです。そうするとまた、痛みを感じやすくなってしまいます。悪循環が生じちゃうんですよね・・・・・。んん・・・、一度、お困りの胸痛の問題を、心身両面からアプローチするのが得意な内科の先生に診てもらうのも、一つの手かもしれませんね。今日の処は、様子を見ていただいて、次回の定期診察のときに、主治医とご相談ください。カルテには、その旨きちんと書いておきますから」

Hさんは、K医師の言葉を聞いてやや安心した。そして、その指示に従った。

K医師はカルテに次のように記載した。

#1 安静時胸痛の増悪、薬の効果乏しい
      ⇒ NCCPとして胸痛を鑑別する必要あり
        (注:NCCP non-cardiac chest pain)
#2 うつ状態の合併の可能性
      ⇒#1の増悪因子となっている可能性あり

○○先生へ
#1、#2の問題があるようです。Q大心療内科への紹介はいかがでしょうか?

数日後に、これを見た主治医は、Hさんと相談のうえ、Q大心療内科を紹介受診することとなった。そこで、入院の上、精査。結果、入院後の24時間食道内圧、pH同時測定検査にて、有症時に食道内圧高値を認め、その波形から、胸痛の原因は、びまん性食道痙攣(DES diffuse esophageal spasm)と診断された。また、面接と心理テストなどから、軽症うつ病の合併も認められた。 患者には、入院中の時間をかけた説明を通して、胸痛は心臓や消化管の器質的疾患ではなく、食道の機能異常、つまり機能的疾患であることを理解してもらった。この病態説明による保証と亜硝酸薬、抗うつ薬の内服開始開始により、諸症状は劇的に改善した。

いかがでしょうか?

ネタ元は、胸痛診療のコツと落とし穴 中山書店 P34 食道機能障害による胸痛の実例と治療のポイント(九州大学 心療内科 久保千春教授) からでした。 注:症例は一部改変してあります

なお、NCCPの鑑別疾患については、心療内科 初診心得 中井吉英 三輪書店 P170に次のように書いてあります。 (リンク先は、上から5段目の心身医学の欄の中からこの書籍の選択ができます)

1.食道
 1)びまん性食道痙攣
 2)Nut-Cracker esophagus
 3)GERD
 4)食道アカラシア
2.胃・腸管
 1)空気嚥下症
 2)脾彎曲症候群
 3)肝彎曲症候群

NCCPの各論よりも私の言いたいことは、次の2点です。

■器質性疾患が否定的なとき、つい心の問題のみに走ってしまわないでしょうか? 
■機能的な疾患を疑うという視点をつい忘れがちではないしょうか? 

こんなことを自戒をこめて言いたかったのです。

次に、P先生のコメントを引用させていただきます。

こういう患者さんをご紹介いただくとき、内科の先生方にお願いしたいのは、すっぱり精神科に送るのではなく、いっしょに診ていく、という姿勢を患者さんに示してほしい、ということです。
「検査をしましたが、異常ありませんでした」ではなく、
これまでの検査では、異常が見つかりませんでした(今後も必要に応じて検査をいたします)」というご説明をお願いします(実際にもこちらが正しいですよね)。
精神科では、
「痛みの原因は実際にあって、それが
今の検査では見つけられない、ということかもしれません。ただ、この外来では原因よりも痛みを和らげる方法を考えましょう」というアプローチをします。

患者さんがお感じなる痛みを否定しない、患者さんとともに考えるという姿勢を示す・・・・・・
とてもすばらしい御指摘だと思いました。 いつもこのような説明をすることができる自分でありたいものです。お題であったどのような説明とは、まさにP先生のような説明ということになるかと思います。

体は、内科。心は、精神科。 こんな風に、完全二分化してしまうと、その狭間に落ちる患者さんが必ず出てしまいます。 器質的疾患と精神疾患の間で、機能的疾患のことを考える視点が、このような完全二分化を避けえることに少しはつながらないでしょうか? もちろん、身体面と心理面の両者を上手く扱って患者を診察する専門家が、心療内科の領域だと思います。心療内科≒精神科と思われがちですが、これはちがいます。心療内科≠精神科、心療内科⊂内科 というご理解をしていただきたいです。
もう少し詳しく知りたい方へ⇒心療内科は誤解されています

ということで、原因のよくわからない身体症状に出くわしたら、心の問題に視点をあてるだけでなく、機能的疾患に視点をあてる目を、普段の日常診療から養っておきたいものだと私は思います。

まとめます。

本日の教訓
機能的疾患は?という発想も大事です

コメント(28)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「死」に対するコミュニケーションについて考える [雑感]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
   

少し前のエントリー 生と死は対立ではない  の冒頭を再掲してみます。

そして、種々の状況を鑑み、私がいけると判断した方の場合は、ストレートにこんな質問をかます。

「患者さんの死についてお話し合いをされたことはありますか?」

そこから、お互いの死生観についての会話を始めることが多い。そして、その会話から得た情報は、ポイントをカルテに落とし、病棟への引き継ぎにも使っている。

一番多いと私が思っている反応は、戸惑いである。「えっ!? そこまでは・・・・・・・」 という反応だ。
 

本日は、家族間の「死に対するコミュニケーション」について考えてみたいと思います。

普段、私達は、日常生活の中で、家族の間で「死」のことをどれだけ話し合っているでしょうか?
なかなか、オープンには話しにくい雰囲気ですよね。

少なくとも、現代社会レベルでは、確実に「死はオープンじゃない」ですよね。
現代社会は、メディア社会。我々は、社会生活を営む上でメディア情報の影響を多大に受けています。
だから、各家庭内においても、「死はオープンでないのが主流」と考えるのは、それなりに合理的だと私は考えます。

家族間で「死がオープン」でないと、どういうことが医療の現場で起きやすいのでしょうか?

そのあたりの問題点は、田舎の消化器外科医先生が、生と死は対立ではない のコメントの中でご指摘くださいました。
それを引用してみます。

現在の終末期の医療では、本人が望む最期と、家族の望む最期とでは、明らかに後者が優先される状況が出来上がっています。
現状では、この患者さんにここまでするのは、本人も望まないであろう、と思われる処置や治療でも、家族が望めばせざるを得ません。本人の望む最期を迎えるためには、元気なうちから自分の死に方を何通りもシミュレーションしなければなりませんが、
そのような話を切り出すこと自体が、許される雰囲気で無いことに、頭を悩ませています。
by 田舎の消化器外科医 先生

いやあ、最もなご指摘だと思います。 やはり、普段の生活の中で、「死」について話し合い、いざというときは、本人の望む形が優先される医療があってもよいのなとは思います。

皆さんは、自分の思いを家族に伝えていますか? 
皆さんは、家族の思いを、一人一人把握できていますか?

そんなことを考えさせられたメールを紹介します。私の知り合いのA医師(20代 女性)から、いただいたメールです。一部を変更の上、差し出し主の許可を得た上で紹介しています。

こんばんは。
ご無沙汰してます。

(途中 略)

そういえば、ちょっと思い出したことを書きます。
遠方に住むうちの祖父母が、ビデオメッセージで「
私達はもう85歳と80歳ですが、そろそろ私達が楽に死ねるような医療を考えてください」と話してました。
祖父母は、私が医者になってすごく喜んでくれていたので、
いろいろ期待してると思ってただけにずっこけました
私たち家族からするとなるべく長生きしてほしいと思いますが、今回初めて、祖父母の気持ちを知りました。

(以降 略)

自分達の「死」を自ら静かに見つめている祖父母 VS ただ「生」の視点に重きを置く20代の医師
自分達の「死」を自ら静かに見つめている祖父母 VS 祖父母の思いとは相反する家族の気持ち

そして、そのギャップに気が付き、ずっこける医師でもあり孫でもあるA先生・・・・・・・。

何気ないお便りでしたが、こういう構図を私は感じました。

こういう気づきは、やはりコミュニケーションなんですね。A先生のご家族は、家族間で良好なコミュニケーションの土台があるからこそ、A先生は祖父母の気持ちを知ることができたんですね。

今後、高齢者の死亡者数は、向こう20年位、直線的に上昇し続けていくと推計されています。
だから、ますます、高齢者の方の死への思いに対して、ご家族にしろ、医療者にしろ、アンテナを立てて、それをキャッチする努力が必要なのかもしれません。
つまり、日常生活の中で、「死」に対するコミュニケーションなるものが重要だと私は思うわけです。

死生観がからむ話をすると、一部の方々は、どちらか両極端の意見を言われ、しばし、話がかみあわなくなります。
そうではなくて、私は、その結論よりも、話し合いそして向き合い、お互いの気持ちを知っていくというプロセスがすごく重要なのだと思います。

だから、私は、私の領域である医療の現場で、生と死の狭間で揺れ動くご家族に出会ったとき、そのご家族や患者さんが、よりよい人生の選択をしていただけるようなファシリテーターとして振舞えたらいいなあと思っております。

そのためには、自分は自分としての立ち位置はしっかりさせておくこと。 自分とは異なる考えや立ち場も尊重できる視点を持ちえること。
そんなことを自分に課しておきたいと思います。

で、死生観に対する私の現在の立ち位置は、荘子的境地をめざしたいということです。 まだまだその境地は遠そうですが、私のこれからの目標です。

生と死の問題を突き詰めて考えていけばいくほど、医療を受けないという考えを選択肢として持っておくことも重要なのかもしれないと私には思えてきます。医療は当然受けるものという考えが社会にありがちですが・・・・・。だから、多くの人には気がつきにくい視点かもしれません。 しかし、いずれにしても、選択した結果よりも、選択にいたるプロセスのほうがはるかに重要であると私は考えます。


コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。