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胃ろう措置を受けた高齢患者の二症例 [慢性期医療]

老年期という人生のステージは、一人の人生の最終章のようなものだ。

きっと誰しも、その最終章を、穏やかに過ごして自分の人生の完結を迎えたいと思うところであろう。

理想はである。

しかし、老年期という現実は、しばしば、その人自身や周りの家族に対して厳しい試練を与える。穏やな死の前に立ちはだかる様々な病気がその人を襲ったりする。一例をあげれば、脳卒中(脳出血、脳梗塞、くも膜下出血)発症後の後遺症としての、遷延性意識障害や重度な身体麻痺など寝たきりの状態である。当然、その重症度からすれば、自分の口から自力で栄養をとることなど不可能である。また、別の例をあげれば、そういった脳卒中がなくとも、加齢にともなう嚥下力の低下で誤嚥性肺炎を頻繁に繰り返すようになるケースも多い。一昔前であれば、そのままさらに食べられなくなり、そのまま自然に亡くなっていったケースに該当すると思われる。

しかし、今の標準的な医療の場において、そういう患者さんの多くに、人工栄養投与が選択される。

理想的には、患者の生前意思を医療者と家族が十分に話し合い、その選択をそもそも行うかどうかをも含めて、意思決定するのがよかろうとは思うが、急性期医療の現場の状況や、死というものに対する社会コンセンサスや法的しくみなどまで考えてみると、人工栄養を行わないという積極的選択は少数派なのだろうと思う。実態は、脳卒中の急性期治療は行ったものの、残念ながらリハビリでの回復もあまり望めない程の重篤な後遺症が残ってしまった患者さんたちには、何らの人工栄養手段が施されて、急性期病院から慢性期病院へ転院してくるといったところである。誤嚥性肺炎を繰り返す患者も同様である。

その人工栄養を与える方法は、大きく分けて3つある。

1 鼻から細いチューブを胃に挿入して、流動食を与える方法
2 胃ろう増設処置を施して、胃ろうから流動食(1よりも固形に近いものも可ではある)を与える方法
3 大きな静脈に点滴ライン(カテーテル)を留置して、高カロリー輸液を点滴として与える方法

これらの使い分けやメリット、デメリットはそれぞれにはあるのだが、そこは割愛する。

マスコミ報道は、しばしば、胃ろう を 高齢者にまつわる生と死の様々な問題の象徴という形で行っている。しかし、現場に関わる者から言えば、胃ろうはあくまで、ツールの一つにしかすぎない。

そのような重篤な後遺症を抱えた患者は、当然自分で話をすることはできず、ただ寝かされている。そして、定時になるとなかば機械的に胃ろうや経鼻チューブから流動食が投与される。それが、その患者たちにとっての食事であり、生命線でもある。

しかし、その状況を各個人の価値観に任せて、一般論的に、高齢者の生と死はかくあるべきだ論を展開するのは、非常に危険な領域ではある。

とは言うものの、考える材料があればと思うのも、普段こういう世界と無縁の方々にとっては、当然かもしれない。そこで、今日は高齢者医療の現場における胃ろうとその周辺の諸々について自体験ベースに語ってみたい。

同じような背景で胃瘻をつけることになった症例なのだが、いろんな意味で対照的であった二症例について述べてみることにする。

胃ろう患者case 1 80歳女性 認知症、繰り返す誤嚥性肺炎
施設に入所していた。誤嚥性肺炎を繰り返すようになり、急性期病院に入院してはすぐに退院となり、またすぐ再入院といった状況となった。施設と急性期病院の往復運動現象が発生したとも言える。やがてそれを繰り返すうちに、いよいよ経口摂取ができなくなってきた。急性期病院にて、胃ろう増設の処置が施された。さて、その増設までのプロセスまでは私にはわからない。医師が主導だったのか? 家族側からの希望だったのか? ただ、病院側がこれまで通り施設に帰ってもらおうと思っていたところ・・・・

施設の返答:もううちでは見れません

というわけで、当院が転院先として選定された。胃ろうがついても対応可能な施設はそれなりにあるはずなのだが、その施設のその時点での対応力の状況次第では、胃ろうが施設との縁の切れ目になってしまうことだってあるのである。

当院に来てから、この患者は落ち着いている。誰とも話はできないけど体は落ち着いた。家族はふだん誰もこない。だけど一人ずっと落ち着いている。

今、この人にとって、ただただ静かな時間が流れ続けている。当の本人が、この状況をどう思っているのかは、わからない。また、社会としてこの状況をどう考えればいいのか、甚だ難問かもしれない。

ただ一つ言えることは、胃ろうが、生物学的身体の予後向上に寄与した一例であったことは間違いない。

胃ろう患者case 2 90歳女性 繰り返す誤嚥性肺炎

これも胃ろう増設まではcase1とほぼ同様の経過であった。しかし、この患者の場合は、胃ろうからの流動食栄養管理をもってしても、繰り返す誤嚥性肺炎肺炎を阻止できなかった。そこで、急性期病院にて、高カロリー輸液が始められた。これはどうも医療者主体で、その措置が選択されたようであった。

高カロリー輸液という点滴管理となった以上、さすがにこのままで施設に帰ることは不可能である。この場合は、施設という帰る場所が無くなっても、医療者側から積極的に生命永続優先という価値観で医療措置がおこなれたと解することもできるかもしれない。

というわけで、高カロリー輸液管理継続目的で、当院へ転院してきた。

転院時の家族面談においては、家族的にはもう寿命なので、あまり色々な医療措置はけっこうです という確たる意思が確認できた。

私としては、そういう家族の意思があったとしても、やはり現状の状況から積極的に栄養を止めるという行動パターンはやり辛い。そこで、しばらくは高カロリー輸液を継続した。

ある日、突然40度近い発熱が起きた。肺炎ではなかった。
カテーテル感染だ。

いつかは来るだろうと家族にはその可能性は伝え、そうなったときはどうするか、つまりカテーテル挿入措置をやり直して再度高カロリー輸液を継続し続けるかどうかについては事前に話し合いしておいたのだ。その話し合いの結果は、もうそれはしない であった。

私は、治療のためにカテーテルを抜去し、しばらく急性期病院程の厳密性と厳格管理下ではないものの、当院環境の現実的対応力の範囲で、カテーテル感染の治療を行い、その山はなんとか超えることができた。

次の手としてどうするか? せっかくある胃ろうから栄養を再開するか? もうそれもしないか? 考えた。悩んだ。

当然、家族と話し合いをもった。
「胃ろうも結局、前医で上手くいかなかったから、もういいです。自然にお願いします」
という返答だった。

自然にお願いします

しばしば、家族側から発せられる表現だ。言うは楽だが、その意をくみ取り、何らかの行動をアウトプットせねばならない医療者側には悩ましい表現である。

でも、私は考えた。この患者と家族には、これまでのプロセスがすでに十分存在している。医療者とのコミュニケーションも良好である。

決断した。寿命という予見される死を目標に見据えたギアチェンジである。

私はこの決断をする時には、決して機械的ではなく、凄くいろんなことを考える。家族の背景も考える。これまでの生き方も考える。とても全部知ることはできないが、それでも少しでも知ることがあればと努力する。

胃ろうによる経管栄養、高カロリー輸液のいずれの人工栄養からも撤退した。そして、カロリーとしては少ないけれども、末梢輸液管理とした。

以後、患者は発熱を繰り返すことはほとんど無くなった。軽い微熱程度が二回程あった程度で、末梢輸液管理を始めてから、約二ヶ月後に静かに永眠された。 その間ずっと、家族は毎日誰かが来ていて静かに寄り添っていた。

自然を望んでいた家族。いつからそう思うようになったかは正確にはわからない。果たして、この患者と家族にとって、医療者が介入した措置、つまり、胃ろうや高カロリー輸液ってはのは、どれ程の意味があったのだろうか?

そのプロセスがあって始めて、家族はもうそこまでは・・・と思ったのか? ならば、その介入には大きな意味があったのかもしれない。

しかし、
生き方の信念として、それを最初から持っていたけれども、医療者側に配慮して、医療者の提供する医療措置に、家族側が併せていてくれたのならば、その介入の意味はほとんどなかったかもしれない。

この症例を生物学的身体の面からだけみれば、胃ろうが予後向上には寄与しなかった例とは言えるだろう。

以上、身体的背景には類似した状況で、胃ろう増設された二症例を紹介してみた。一方、その転帰とそれぞれの家族背景は対照的であった二例だ。

胃ろうというひとつのキーワードを通して、自分の生と死、家族の生と死について、普段から考えるきっかけとなれば幸いである。

ただ、高齢者の終末期のあり方を、胃ろうというキーワードを指標に単純な二分法で安易に考えて欲しくはない。

胃ろう する vs しない? さあ、あなたは?

みたいな感じでのマスコミの投げかけには、十分気をつけてほしい。

補足:ここで提示された二症例とは、複数の患者での自分の体験を組み合わせたものであり特定の個別症例でないということにはご留意ください。














































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ある慢性期病棟での訴訟事例 [慢性期医療]

脳血管障害などを発症し、救急ルートで急性期病院に入院となった患者の多くは、急性期病院での加療で終わりというわけではない。いや、むしろそれからの後遺症との付き合いのほうが、ずっと長いのかもしれない。そういった患者は、現在の医療システムにおいては、慢性期病院が急性期病院より引き継ぐことになるのだ。急性期病院は、国から診療報酬を「平均在院日数」という数値で厳しくコントロールされている事情があるので、とにかく速く安定化させて、慢性期病院へ転院させたいというインセンティブが働く構造になっているのだ。

私も自分が研修医のときに、ある先輩医師からこのように教わった。

「いいか、脳卒中の患者はだな。最初が肝心なんだ、最初が。 緊急入院するその日のうちに、転院の話をしておくんだぞ。でないないと、病院を追い出すのか!ってクレームが来るからな。いいか、忘れるなよ」

まあ、こんな感じである。医療を受ける側にとってもこういう転院のシステムは事前に知っておきさえすれば、急性期病院のスタッフとの摩擦も幾分かは減るのかもしれない。

あくまで、転院する段階というのは、患者が落ち着いたという前提であるので、慢性期病院における病棟管理というのは、急性期病院での外来や病棟に比べて地雷的な要素が少なくなるのは当然だろう。 しかしながら、そんな慢性期病棟でも容赦なく医療訴訟の事例はあるようだ。

本日はある慢性期病棟での訴訟事例の症例を紹介してみたい。 (出展 医療訴訟ケースファイル Vol.2 P61)

症例  58歳女性

既往歴  

45歳時 くも膜下出血→クリッピング術施行
56歳時 交通外傷 外傷性脳内出血、骨盤骨折

病歴
(急性期病院)
上記後遺症のため、某病院をリハビリ通院していた。X年M月Y日、自宅のトイレで倒れ、A大学病院へ救急搬送された。意識障害(E3V1M4)と右片麻痺を認めた。診断は、左視床出血+脳室内穿破。血圧コントロールなど保存的加療が選択された。その後、嘔吐、痰などの症状があるため、気管挿管による呼吸管理を経て、(Y+8)日に気管切開術が施行された。なお、患者の痰からはMRSAが検出されていた。症状も安定化したとのことで、リハビリと呼吸管理の慢性期加療へのため、X年(M+1)月1日、B病院へ転院の運びとなった。転院時の意識レベルは、E4VTM6。

(慢性期病院) X年(M+1)月
1日  転院。 転院後呼吸管理の一貫として、一日4回のネブライザー処置は施行
        されていた。
    (頻回の吸引をしていたかという事実は、
          裁判所は記録にない以上判断できないとした)

5日  発熱。(後にグラム陰性桿菌が血液中より検出されたという結果が判明する)
AM6:00   SpO2 92%
           この日にA大学病院から患者の痰からMRSAが出ていたとの報告を
                受けたため、当院でも血液検査を出すとともにVCMが開始された。

6日  採血結果 WBC 22000 CRP 20.1
AM 10:30 看護師により痰の吸引が施行
  (看護記録に施行者のサイン漏れがあったものの双方の言い分から
                                                                  裁判所は施行したと認定)
 
AM 11:30 急変覚知! 心拍モニタアラーム鳴る。脈拍数28。看護師直ぐに訪室。
       呼吸停止を確認。

AM 11:3X 急変の知らせをうけて直ぐに医師が訪室。
       バックバルブマスクを気管切開チューブに接続し呼吸管理を開始。
       胸骨圧迫も開始。バックによる呼吸管理の様子などから、医師は、
                 痰がつまったと判断。看護師に吸引を指示。ボスミン、硫アトも
                 使用された。中等量の粘稠な痰が排出された。さらに、胸骨圧迫と
      ともに、肉芽組織に似た凝血塊のような痰が気管チューブより飛び出
      してきた。その後、バッグバルブマスクによる呼吸も容易となり、
      心拍は再開した。人工呼吸器が装着された。

AM 11:39  BP164/74、HR120台 に recovery。

このイベントを契機に患者は、低酸素脳症による植物状態となり、寝たきりの状態が続いている。

こういう臨床経過で、訴訟に至るまでの経緯はいっさい不詳だが、とにかく裁判が起された。
判決文から垣間見える訴え側の言い分は次の通り。(思い切ってかなり要約)

「吸引などの呼吸管理をちゃんとやってないせいだ(争点1)」
「急変時の対応がおそかっただろ(争点2)」 


さて、皆さんはいかがお感じであろうか? 判決文で裁判所が認定した経過をまとめてみたが、私個人的には、これで訴えられるとはかなわんな。。。
というのが実感である。

もちろん、判決文には、双方の感情的な部分を含めた紛争に至るまでのプロセスがいっさい記載されていないので、この事実だけでこの訴訟はけしからんと我々は言ってはいけない。おそらく現場の私たちにとってより切実な裁判前の事実経過はここには一切現れていないということには注意しておいてほしい。

で、

判決は、争点1は認定、争点2は認定せず

というものであった。まあ、原告勝訴(満額認定ではないが)と言っていいであろう。

裁判では、この患者は、医療者の過失のため痰が詰まったので植物状態となった と認定された。 それが裁判のルールだから仕方がないのかもしれないが、私はこの判決文を読んでいて何かすごく違和感を感じた。

どんな違和感なのかなあと、少したとえ話を考えてみた。

唐突だが、フジテレビのVS嵐という番組(子どもの超お気に入りの番組なので毎週目に入ってくる)がある。
その番組の中には、ローリングコインタワーというゲームがある。このゲームで自分の違和感を表現してみることにしてみた。
(youtube http://www.youtube.com/watch?v=nswDB-oT7OE いつまでリンクがあるか不明)

複数の人が回転するテーブルの上でコインを積み上げタワーをつくる。当然、だんだんと高さがつくにつれて、コインタワーは不安定化していく。そして、最後の誰かがコインを乗せたときついにコインタワーは転落しゲームオーバーとなる。

上記の裁判の責任のとらせかた(賠償者の認定)って、なんだか、このゲームの最後の一人に全責任を負わせてるような気がする。コインタワーの不安定さを作ったのは、決して最後の一人ではないのに、最後の一人に責任を負わせているようなものだと思うと、それはおかしくないか? というのが私が感じている違和感を例えたものであると言えるような気がする。

そもそも患者の状態は、倒れそうなタワーそのものであるという前提が、まるでなかったように過失認定作業が進められることの違和感と言ってもいいかもしれない。

医学的に、このような臨床経過が生じることは、ほぼ回避不可能だと私は思う。だからこそ、状態が悪くなってもそれがきっかけで医療紛争とならないような下地作りを日常の診療のなかで気をつけながらやっていくのしか手はないのかもしれない。

最後のこの裁判の判決が出たときの医療報道記事を引用して今日は終わりとする。ちなみにこの判決はこれで確定している。

病院側に6千万円賠償命令 たん吸引怠るとT地裁
20XX.XX.XX 共同通信  

低酸素脳症により植物状態になったのは、気管に入れたチューブがたんで詰まったのが原因だとして、K病院に入院していた主婦(61)と家族二人が、病院を経営する医療法人社団「○○○○会」に約一億三千万円の賠償を求めた訴訟の判決で、T地裁は六日、病院側の過失を認め、約六千六百万円の支払いを命じた。判決理由で、K裁判長は「主婦のたんは粘度が高く、血の塊のようなものが生じる可能性もあり、病院側は頻繁にたんの吸引などを行い、呼吸困難を防止する注意義務があったのに怠った」とした。判決によると、主婦はX年Y月、自宅で倒れ、大学病院に入院した。嘔吐(おうと)などの症状があったため、気管にチューブを差し込んで呼吸管理を行っていたが、容体が落ち着いたため、同年(M+1)月にK病院に転院。同月六日に気管のチューブがたんで詰まって低酸素脳症に陥り、植物状態となった。○○○○会は「弁護士から判決について連絡を受けておらず、コメントできない」としている。

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