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2011 たらい回し報道再び [医療記事]

最近は、ツイッターで気ままに好き勝手なことをつぶやく毎日ではありますが、どうもここ最近になって、「たらい回し」という言葉がメディア側から、ちらほら聞こえてきました。まあ、昔ほどの大合唱ではありませんけどね。


まあ、こんな感じです  3病院たらい回しという朝日の記事に対する医療関係者の方々の弁

そんな彼らの枝葉な一言一句に過敏に反応しても仕方がないと達観できることを日々自分の目標にしてはいるのですが、まだまだ修行が足りません。ついついこうして何か言いたくなってしまいます。まあ、そういうわけで、過去にお蔵入りにしていた自分の主張を、一部加筆修正して、今日は述べてみたいと思います。

今日の自分の主張の骨子は、

救急要請を受け入れできない事態という現場の実勢は、ずっと昔からある一定の確率で存在し続けており、その率には大きな変動はない。一方、報道頻度の変動は著しいものがある。情報の受け手側は、「現場の実勢と報道頻度には、大きな解離があるのではないか?」という認識を常に抱きつつ、報道情報の解釈をするのが妥当である。

ということです。


●先ずは、言葉の整理

表題には、たらい回しと書いたが、これは私の本意ではないここでは、メディアが時に使う「たらい回し」という表現は、救急搬送「受け入れ問題」という表現に統一する。以下に、私のその意図を説明する。

昨今の救急搬送の受け入れ先がなかなか見つからないという救急医療におけるシステムの問題をメディアが扱うときに、よく使われる表現が、「受け入れ拒否」と「たらい回し」だ。これらの表現に関しては、医療者側からの反発も大きい。医療者側からは、「受け入れ不能」という表現を使うべきだという声が大きい。

まず、広辞苑(第六版)にて、それぞれの言葉の意味を示しておこう。

「拒否」・・・・要求・希望などを承諾せず、はねつけること。防ぎこばむこと。ことわって受け付けないこと
「たらい回し」・・・・一つの物事を、責任を持って処理せずに次々と送りまわすこと
「不能」・・・・・・・できないこと、なしえないこと、不可能

「たらい回し」という言葉には、無責任のニュアンスが非常に強く含まれる。したがって、この言葉を向けられた病院や医師は、病院側の事情はなんらおかまいなしに、一方的にただ非難されているだけと感じる。そういう意味で、医師の心をへし折るパワーのある言葉だ。「受けれ拒否」という言葉は、病院が新たな救急患者をとても診れるような状況の中で仕方なく新規の救急要請を断らざるを得なかった場合でも、患者側にそうとは受け取ってもらえずに誤解を与えてしまいそうな言葉である。そのため、一部の医療者側からは、「受け入れ不能」という表現を提唱されたこともあるが、まだ、メディアの間ではほとんど浸透していないのが現状である。これらの言葉がかもし出す語感というものは、その感じ取り方が、医療者と患者側の間で大きく異なっている可能性もある。また、同じ医療者同士の間でも、それぞれがおかれている立場によって、やはり感じ方が異なっているように思う。

どの言葉を使うにしても、読み手の間でそのニュアンスが異なるのは避けられそうにない。そこで、私は、いずれの言葉も使用しない。私は、救急搬送「受け入れ問題」という表現を使うことにする。これならば、誰が悪いとか誰の責任とかのニュアンスをその表現の中に含ませずに、医療者と患者の間で、救急システムの問題意識を共有できると思うからである。ただし、引用として用いる場合には、その引用元の言葉をそのまま用いることにする。

● 実は、昔からあった救急搬送「受け入れ問題」

2006年以降の医療報道の中で、救急搬送「受け入れ問題」が報道されることが急に突然多くなった。では、この問題は、昔は”なかった”のであろうか? つまり、昨今の医療崩壊問題にともなって、新たに出現した問題なのであろうか?それとも、昔から”あった”のであろうか?

結論から言う。その回答は、昔から”あった”である。

医療法人 徳洲会が発行する徳洲新聞 (2006.4.17 月曜日 NO.514)には、次のような記載を見ることができる。

徳洲会の研修医制度は八尾病院設立の75年から始まりました。日本中で救急車のタライ回しが社会問題となった中、徳洲会は救急車を決して断らないという方針を引っ提げ医療界に登場し、それは現在まで脈々と続くバックボーンとなっています。

また、救急医療を題材にしたエッセイなどの著作でも知られる救急医の浜辺祐一氏は、その著作の中で次のように書いている。

救命救命センターからの手紙、再び  浜辺 祐一   集英社 2005年  P8

最近ではマスコミなどでよく取り上げられるようになりましたが、「救命救急センター」なるものが生まれたのは、実は、四半世紀も前のことになります。誕生のきっかけは、昭和四十年代に起きた、いわゆる「たらい回し」事件でした。時は高度成長期のまっただ中、日本の経済が急速に拡大していた頃のことです。交通量が爆発的に増え、その結果として交通事故も急激に増加しました。そして、その交通事故による犠牲者が年間一万人を突破し、「交通戦争」と呼ばれるほどの非常事態に陥ってしまったのです。
 (中略)
救急患者の「たらい回し」と言われたこうした苦い経験を踏まえて、通常の救急病院では診きれないような患者たちを引き受けるために作られたのが、救急医療の「最後の砦」と呼ばれる救命救急センターだったというわけです。

警察庁が発表する交通事故統計から、年間交通事故死亡者数の推移をグラフ化してみた。(図1)これをみるとまさに、昭和40年代(1965年~1975年)は、交通戦争と呼ぶにふさわしい死亡の数である。このような時代背景の中、救急搬送「受け入れ問題」も日常的であったと十分考えられる。上記2つの引用はその傍証である。つまり、救急搬送「受け入れ問題」は、日本の救急医療の歴史と共に存在し続けてきたといえるのである。救急搬送「受け入れ問題」をいつ頃から「たらい回し」という言葉で表現するようになったかについて私は資料を持ち合わせていない。ただ、このような昭和40年代の時代背景の中からいつの間にか生まれてきたと考えるのが最も妥当な仮説ではなかろうか?当時の医療状況を仮にその言葉が適確に言い表していたとしても、今の医療状況は全く異なっているわけであるから、慣習という理由だけで、「たらい回し」という言葉を今も使い続けることは、もはや適切でない。

図1

20110724fig3.jpg

さて、データベースG-Search(1984年以降を検索可能)から検索できた最も古い救急搬送「受け入れ問題」の報道は、1985年の朝日新聞の報道であった。何気なく記事の中に「たらい回し」が使われている。

「救急病院」を再検討 厚生省、質向上へ研究班発足 
1985.08.09 朝日新聞

(冒頭略)
しかし、救急病院の制度そのものが、交通戦争さなかの39年につくられ、指定要件も交通事故のけが人の受け入れを念頭に置いて決められているため、救急病院の中には脳卒中、心筋こうそくなど外科以外の急病に対処できないところもある。40年代後半から、専門医の不在、ベッド不足などを理由にした患者たらい回しが相次いだため、厚生省は52年度から初期、2次、3次と、急病の程度に応じた救急医療体制の整備を進め、たらい回し騒ぎは、最近は聞かれなくなった。しかし「救急病院の看板のあるところに行ったのに、診られないといわれた」などの不満が、今も厚生省に寄せられている。

(以下略)

東京都大田区で、1985年12月30日、スーパーに押し入った強盗を追いかけた20歳の大学生が、強盗に刺殺されてしまう事件が起きた。当時の報道記事には、病院の様子がこう記載されている。

勇気ある大学生、5病院が治療断る 都が救急体制見直し 
1986.01.21 朝日新聞


(冒頭略)
20日、東京都衛生局の調べで、Tさんは事故現場のすぐ近くの大学付属病院はじめ5つの救急医療機関から「担当医が忙しい」などの理由で次々に断られ、やっと収容された6番目の病院で息を引き取っていたことがわかった。事態を重くみた都衛生局は今週中に救命救急センターの代表を集めて緊急会議を開き、全国一の陣容と折り紙のつく東京の救急体制の下で「たらい回し」がなぜ起きたかを探り、対策をたてることになった。

(以下略)   ※人名部分はイニシャルに変更

ここでも当たり前のように「たらい回し」が使われている。断った病院の状況は、この記事の中でも明らかにされており、現場から最も近い救命センターは、重体の患者の手術中(記事によると腸こうそく)で、3名のスタッフがそれにかかりきりの状況、もう一つの救命センターも重傷患者の対応中であったとされていた。どちらも重傷の刺傷患者をさらに受け入れられる余裕があるとは到底思えない。メディアは、病院がそういう切迫した状況であっても、なお「たらい回し」という言葉を使うくらいであるから、そう言われた当時の医療関係者は、そんな「たらい回し」報道にどのような思いを持っていたのであろうか?

それはそれとして、こういう記事を見ると今も昔もきっと変わっていないのだろうなあと私は思う。それは、医療に対するメディアの期待と要求(社会の期待と要求と表裏一体)が強すぎて、医療の限界は受け入れようとしない、あるいは、それは考えたくないのであえて思考停止しているといった心理状況である。そういう期待と要求の強さが、いつの間にか、医療批判やバッシングに変容していくのだろうと思う。

救急車搬送「受け入れ問題」の程度は、昔と今ではどうなのだろうか? データで検証してみた。 東京都における救命センターへの搬送状況ということで昔と今を比較する。

東京消防庁はこの大学生刺殺事件をきっかけとして、東京23区内における救命センターの患者受け入れ状況を調査している。その調査報告に関する報道は次のようなものであった。

救急病院のたらい回し、他に20件 消防庁が12月分を調査  1986.02.06 朝日新聞 東京朝刊 

 「勇気ある追跡」で死んだ東京都大田区の明大生Tさんが最終収容されるまでに5つの病院に応急処置を断られていた問題をきっかけに、東京消防庁が搬送したすべてについて追跡調査した結果、Tさんの事件が起きた同じ昨年12月中に、他にも計20件の「たらい回し」があったことが5日明らかになった。Tさんの「病院たらい回し」では、断った5病院の中に、一刻を争う重体患者のための救命救急、救急医療両センターが1カ所ずつ含まれていた点が大きな問題になっていた。このため、同消防庁は、昨年12月の23区内での救急車出動(約2万4000回)の記録を洗い直し、都内に計13カ所ある救命救急、救急医療センターに収容された357人の搬送経過を追った。重体患者については、救急車に乗せる一方、同消防庁が電話で病院に連絡をとり、「収容できるかどうか」聞く、通称「ノック」が行われる。357人にこの措置がとられたが、20人は、センターを5カ所以上ノックした後、やっと受け入れ先が決まったことがわかった。各センターは、「重症患者取り扱い中」「手術の最中」などTさんのときと同じような断りの理由を挙げていた。救命救急、救急医療センターは「最後の救急病院」といわれ、集中治療施設(ICU)などを備え、専任の医療スタッフが24時間体制で待機している。東京都の運営要綱などで「常時、救命医療に対応できる体制をとる」と決められ、Tさんの「たらい回し」が発覚した際、「起きないはずのことが起きた」(都衛生局)と関係者は深刻に受けとめた。しかし、こんどの追跡調査によって、Tさんの問題は例外でないことが浮き彫りになった。都は改善策として、東京消防庁とセンター間をホットラインで結ぶことを決め、3月中に実施する。しかし、センターで他の緊急手術が行われている最中に別の要請があった際どうするかなどの問題点がまだ残されていることも明らかになった。

※原文の実名などはイニシャルに変更しています。

この報道記事を1985年12月に東京都内の救命センターに入院した357人を対象として調査した結果、20名が受入れまでに5回以上の要請を要したというデータを、昔のものとして、ここで使用することにする。

最近のデータとしては、総務省消防庁が報道資料として公表したものを用いる。

2008年・・・平成20年中の救急搬送における医療機関の受入状況等実態調査 
        生データ引用箇所 P33,P32
2010年・・・平成22年中の救急搬送における医療機関の受入状況等実態調査
         生データ引用箇所 P36,P37

これらから、東京都における、救命救急センター等の医療機関に受入れの照会の部分の生データを採用した。
総件数をN、4回以上をA、4回をB。この生データから、4回以下=N-(A-B) 、5回以上=A-B と算出した。

2008年・・・N=24695  A=1989、B=741  よって、4回以下=23447 5回以上=1248
2010年・・・N=27426  A=1933、B=830  よって、4回以下=26323 5回以上=1103

見やすいように表にまとめた。

20110724fig2.jpg

照会回数に5回以上を要した受け入れ困難事例の頻度は、全体の4~5%程度で今と昔で全く変わっていないことが読み取れそうである。また、フレームを変えていえば、今も昔も、95~6%の救急患者がきちんと救命センターに受け入れてもらえているともいえるわけである。


そもそも、リスク一般について考えた場合、リスクは決してゼロにはできないものである。もちろん、ゼロに近づける努力はするという前提においてだ。ただし、リスクをゼロに近づければ近づけようとする程、コストや医療リソース(人・物)は、無限級数的に増大する。だから、現実的には、どこかでリスクを受け入れる妥協点を引いて、社会システムを組むしかないのと思う。もっとはっきりといえば、「断念」するというメンタリティを国民一人ひとりが持つしかないともいえる。しかし、対世間的には、どこの組織においても「あってはならない」と発信することはあっても「もう仕方がないですよ」と公的メッセージを発信することはまずない。そうはっきりと言ってしまえば、マスコミ対応が極めて大変になるであろうからと思う。組織の対マスコミ対策としては、無難な「おもしろくない、ありきたりな回答」が、定石とすれば、必然的に「あってはならない」となるんだろうと思う。

ここで示したように、今も昔も、ある一定の割合で受け入れ困難事例は存在していたことがわかった。救急搬送「受け入れ問題」も、医療システムの中における一つのリスクであるから、そういう意味では同じに考えないといけないと思う。はたして、これからの救急搬送「受け入れ問題」報道に、そのような「断念」や「受容」の視点は今後出てくるのであろうか? もしそういう視点がマスコミから出てきたら、それはマスコミが一つ成熟した証だと、肯定的に受け止めていきたいと思う。

● 昨今の救急搬送「受け入れ問題」に関する報道の実態

まずは、救急搬送「受け入れ問題」に関する報道に関して、どのような単語が使われた傾向にあるのかを調べてみた。調査は、有料のデータベースG-Searchを用いた。報道機関は、読売、朝日、毎日、産経の全国大手四紙と共同通信社を対象とした。見出しとして使われた単語の検索のみを行い、記事本文中に使われた単語の検索までは行わなかった。検索結果を表として示す。なお、ヒットした全ての見出しを実際に自分の目で確認したわけではないので、対象外の記事が”ノイズ”として若干は混入していると思われる。具体例として、一例を挙げておくと、検索語「救急 AND 不能」でヒットした総件数15件のうち、救急搬送「受け入れ問題」とは無関係な”ノイズ”も相当に含まれていた。ただし、2009年の7件は、奈良県生駒で生じた搬送事例の記事が主なであり、このときは「搬送不能」を各社見出しに使っていた。このように、他の検索語句においても同様に若干のノイズは入っているであろうこと(私自身めんどくさいし、検索料もばかにならなくなるので、いちいち全部の記事詳細までは調べていない)は、承知の上で、傾向を読み取ってほしい。

20110724fig4.jpg
奈良の大淀病院の事例は、2006年10月、毎日新聞報道が契機であった。出産中の妊婦が大淀病院で急変し、19もの病院に転送を打診したが受け入れてもらえなかったという報道は、まさに医療崩壊の社会問題がどんどん深刻化しているさなかであっただけに、社会的に大変な反響をもたらした。そのため、メディアはこの事例を契機に救急搬送「受け入れ問題」に関する報道を興味を持ち始めた。2006年のヒット件数の増加はそれを裏付ける結果と解釈してもよさそうである。


さらに、ヒット件数が2007年から激増している。これは、2007年8月に奈良~大阪で発生した事例が契機となっていると思われる。その事例とは、奈良で救急要請をした妊婦の受け入れ先病院がなかなか決まらず、10件目でようやく大阪の病院に受け入れ先が決まったが、胎児は死産という結果になったものであった。この事例は大淀病院に引き続いてまた奈良で起きたということもあり、そのことがよりいっそう報道に拍車をかける要因となった。いずれにせよ、明らかに、メディアはこの事例をきっかけとして、以降、爆発的に救急搬送「受け入れ問題」に関する報道を行うようになっていった。しかも、そのメディアの姿勢は、わざわざ昔の事例を掘り起してきてまで、報道するという加熱ぶりであった。上記結果で、検索ヒット件数が桁違いに増えているのはその動きの反映である。 そこで、2007年8月以降に救急搬送「受け入れ問題」として報道された15の事例については、別表として報道日順にまとめてみた。この2007年8月の事例が、その別表の記事No.1である。以後の事例は、全てを網羅できているわけではないが、2007年以降のおおまかな報道実態はこれで俯瞰できると思う。

2008年になっても、その報道は沈静化しなかったということも、上記検索結果は示している。その一因としては、2008年10月に東京で発生した事例-脳出血を発症した妊婦の受け入れ先がなかなか決まらずに、再度の打診で墨東病院が患者を受け入れたが、妊婦は死亡したもの(別表 記事No.9)-が大きかったのではなかろうか。

●過去の事例をわざわざ掘り出してきて報道する

メディアは、注目すべき話題があると、それに関連する事例を積極的に選んで報道する。そのため、旬の話題の場合、その報道頻度の急な増加は、あくまでメディア側の意図であり、実際にその旬の話題が世の中で起きている頻度(実勢頻度)の急な増加をそのまま表すものではない。過去の事例をわざわざ掘り出してきて報道する姿勢などがその良い例である。エレベーターの事故が起きれば、エレベーターの事故報道が増え、回転ドアの事故が起きれば、回転ドアの事故報道が増えるといった具合である。まさに同じことが今、救急搬送「受け入れ問題」に関する報道で起きているといえよう。事実、別表で挙げた15事例のうち、6事例(記事No.5,7,10,11,12,14)も過去の掘り出し事例であることがわかる。情報の受け取り手としては、この辺りのメディアの報道姿勢をよく理解したうえで、物事を判断していく必要性があるのである。つまり、救急搬送「受け入れ問題」に関する報道が増えたからといって、「受け入れ問題」の実勢頻度が同じ割合で急増したわけではないのである。したがって、救急車を呼んでも行き先がないのではないかと必要以上に不安になることは、報道に不安を煽られてしまっているという態度といえるであろう。そのような報道に煽られてしまった方が、また現場の医療者を必要以上に苦しめることだってあるのである。私は、そんな事例を自ブログに書いたこともある。

●救急搬送「受け入れ問題」を死亡との因果関係に直結させて考えてはならない

救急搬送「受け入れ問題」の報道がなされた直後、その報道を話題とした一般の方々のブログなどを読むと、しばしば、受入れが遅れたから(原因)、患者が死亡した(結果)という受け取り方をしているものがある。つまり、原因と結果が非常に単純化されて認識されているのである。なぜだろうか?それは、人にはある認知の性向があるからだと思われる。その認知の性向とは、クリティカルシンキング(論理的思考)の入門の本に次のように指摘されている。

クリティカルシンキング 入門篇   E.B.ゼックミスタ、J.E.ジョンソン著 北大路書房 1996年 P35

人は目につく出来事や、他のすべての出来事の中から浮き上がって見える出来事だけに注目し、それが原因だと即断してしまう傾向があるので注意せよ。 

本来、人の死亡原因を医学的に考察する場合は、常に多面性とあいまい性(≒確率的な存在性)を要求される。一方、報道は、わかりやすさを絶対的に要求されるため、原因考察は単純化されやすい。医療者は、医学的知識が一般の方々より豊富であるために、当然医学的な原因考察にも深みがある。だから、救急搬送「受け入れ問題」報道を見て、それを少し深く考えてみたいと思う方は、医師自らが発信している各種情報にもアクセスしながら考えていくのがよいかもしれない。ツイッターなどはそのツールとしてのよい一例であろう。報道ニュアンスとは、また違った見方をを自らが知ることのできる良い契機となるとは思う。また、別に深く考えようと思わない人は、どんなにセンセーショナルに大きく報道されていようが、自分の中では、「受け入れ」の遅れと死亡との間の因果関係は、常に保留にしておくという姿勢を貫くのが、必要以上の医療不安を自分自身に抱かないもっとも簡単な方法であろう。

つまり、報道との関わり方を、極力「淡く」するように自己コントロールするのである。 自分自身もそれを自分への目標としている毎日なのだが、今なおその境地に自分が到達したとはまったく思えない。これからもその境地をめざして引き続き頑張っていきたいと思っている。

ブログは、気が向いた時だけごくたまにこうして書くことにします。では。

それと、コメント欄はあえて設けない方針にしました。昔と違って、今は、はてなとかツイッターがありますからね。ご理解ご協力のほどをよろしくお願いします。



共通テーマ:日記・雑感

「気づくこと」と「信じること」 [医療記事]

医療紛争の記事を見るたびに、どこか割り切れない思いを感じる。そう、記事の文面から自分が感じ取るのは、「不毛」という感覚だ。そんな不毛な医療紛争が少しでも社会から減ってほしいと思う毎日である。日々のツイッターでのつぶやきは、私のそんな思いが込められている。メディアに対してきつい言い回しになるのは、そんな自分の思いとは裏腹な現実に対する自分のフラストレーションの結果としてなんだろうと思う。

そんな私が大切に思っていることがある。

それは、「気づくこと」と「信じること」だ。

これは、どちらも相手に求めることでなく、自分で自分に求めることであるという特徴がある。つまり、どれだけ自分が自分と向き合えるかというのが大きなポイントなのだろうと思う。

今日は、そういう「気づくこと」と「信じること」の大切さを伝えてくれるような話を紹介してみたいと思う。

●「気づくこと」について考えさせられるお話

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、紀元前5世紀頃の人で、仏教を開いた人としてあまりにも有名である。その後、仏教は広く世界に広まっていく。5世紀前半には、ブッダゴーサという仏教徒がスリランカに登場する。ブッダゴーサは、広く経典に精通し、仏教伝道のために尽くしたという。そのブッタゴーサの著作として伝えられる「ダンマパダ・アッタカター」の中にある説話、キサー・ゴータミーの話を紹介する。ある論文(キサーゴータミー説話の系譜   赤松孝章 高松大学紀要34、2000年)を参考とし、少し自分の手を加えた形でここに紹介してみたい。

キサー・ゴータミーの説話
インドのコーサラという大きな国の都サーヴァッティーという町にゴータミーという名前の若い女性が住んでいました。
彼女は、貧窮した家柄の娘で、疲れきった体から「キサー・ゴータミー」と呼ばれていました。

そんなゴータミーでしたが、ある時、裕福な男性と縁があって結婚しました。二人はしばらく幸せな時を過ごし、めでたくゴータミーは、一人のかわいい男の子を授かりました。

しかし、その子がやっと両足で歩けるようになった頃、突然病気にかかり死んでしまったのです。

ゴーターミーは、深い深い悲しみにみまわれました。
ゴータミーは、それまで死というものを一度も見たことがなかったのです。

周りの人は、子供をを火葬するように言いましたが、ゴータミーは拒み、こう言いました。
「私はこの子の薬を探してきます」

そして、死んだ子の亡骸を両手にかかえて、家から家と尋ね歩きました。
「私のこの子にあげる良い薬を知っている人はいませんか」と。

そんなゴータミーに人々は言いました。
「娘さん、あなたは正気を失っている。死んだ子供の薬をたずね歩いている」と。

それでも、ゴータミーは全く聞き入れませんでした。
「必ず、薬を知っている人を見つけ出します」
と言い続けました。

ゴータミーは、子供の死を受け入れることができなったのです。

そんな様子を見かねた町の長老が、ゴータミーにある提案をしました。
「娘さん、私はそんな薬は知らないが、もしかしたら薬のことを知っているかもしれない人を知っている」

そうして、長老は、この辺りで唯一悟りを開いたとされるお釈迦様の元を尋ねるように、ゴータミーにアドバイスしました。

ゴータミーは、期待に胸を膨らませて、町のはずれに住むお釈迦様の元を訪れ、一礼しながらこう尋ねました。
「先生は、この子の薬のことをご存知なんですね」

「ええ、知っていますよ」
「一掴みの芥子の実があればいいのです。ただし、誰も未だ死者を出したことのない家から出た芥子の実でなければなりません。それさえ、あれば私がその子を治す薬を作りましょう」
とお釈迦様は、ゴータミーに優しく答えました。

「わかりました。ありがとうございます」
とお釈迦様にお礼を言った後、ゴータミーは町へ戻り、再び家から家と尋ね歩きました。

ゴータミーは、最初の家の戸口に立って尋ねました。
「ごめんください。この家には、芥子の実はありますか?」

「ええ、ありますけど。それが?」と主人が答えました。

ゴータミーは続けました。
「お宅の家から、今までに誰か死人が出たことはありますか?」

主人は、その質問に少しびっくりしながら答えました。
「何を言うのですか!ええ、たくさん出てますよ。昨年は親が死にました。そして、一ヶ月前に、娘を亡くしたばかりです」

ゴータミーは、この家から芥子の実をもらうのは諦め、次の家に向かいました。そして、同じことを尋ねました。また同じ返事でした。その後、尋ねる家、どの家もどの家も、死人を出したことのない家など一つもありませんでした。

日も暮れようとしてきたとき、ようやく、ゴータミーはお釈迦様が自分に何を教えようとしているのかがわかりました。

その結果、半狂乱な気持ちも消え去り、すがすがしい気持ちにさえなっていました。
子供は生き返りはしなかったにもかかわらず・・・・。

ゴータミーは胸に込みあげてくるものを押さえながら、町はずれの墓地へ行って、子の亡骸を優しく抱いてこう言いました。

「愛する我が子よ、私は今まで、あなた一人だけが、死んでしまったとばかり思っていた。でも、生まれてきた者は、皆いつかは死ぬんだよね」

ようやく、子供の死を自分で受け入れることができたのです。そして、再びお釈迦様の元を訪れました。

お釈迦様は、尋ねました。
「ゴータミーよ、芥子の実は見つかったかね?」

ゴータミーは答えました。
「もう芥子の実はいりません。たくさんの家々を訪ねるうちに、死なない人などいないということをお釈迦様に教えていただきました。私をあなたの弟子にしてください」と。

その後、ゴータミーは、修行を続け、お釈迦様にも認められる立派な尼僧となったとのことです。

人生には、自分の死、愛する人の死という受け入れ難い現実に直面させられることがある。その現実は、時に、あまりに非情でさえもある。しかし、その現実は、どんなに非情であっても、あくまで自分の人生の一部であって、他人の人生ではない。だから、それをどう乗り越えるかを決めるのは、最終的には自分しかいないのである。いくら、他人に死の責任や賠償を求め続けても、自分の心と自分自身が自分自身で向き合おうとしない限り、自分の心の中に納得の境地は決して訪れることはないであろう。この境地は他人から与えてもらうものではなく、自分で見つけ出すものだという自覚が必要なのだと私は思う。この説話は、そういう心のあり様に目覚め、そして生死を超える道を求めるところに、私たちの苦しみや悲しみの根本的な解決があることを教えているのだろうと思う。なぜ、釈迦の教えが、時間を越え、空間を越え、人の心に響き続けるのか?その理由が何となく分かるような気がする説話である。こういう説話を通して人の生死、自分の生死、家族の生死を考えてみることも、不毛な医療紛争を減らす何かのきっかけとはなりえないだろうか。私はそう願い、私は自分を信じ、自分也の医療を実践している。

ちなみに、この話は自分でフラッシュファイル化したものをすでに公開している→ ゴータミーの話をフラッシュに

●「信じること」について考えさせられるお話

小林多喜二(1903-1933)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。有名な代表作に、「蟹工船」がある。ここで紹介するのは、その小林多喜二の母、小林セキ(1873-1961)のエピソードである。作家の三浦綾子が、「母」という作品の中でこの小林セキを描いているが、東洋思想家である境野勝悟氏の著作の一つである「日本のこころの教育」(英知出版社 2001年)のP102~P109には、小林セキの多く人の心に響くであろうエピソードが書かれている。元々、この著作は、境野氏が高校生に対して行った講演の内容を書籍化したものであるから、本来は高校生へのメッセージということになるが、私は、これを読んで、「信じる」ということについて随分と考えさせられるエピソードだなと思った。そこで、境野氏の原文を私なりの要約した形でここに紹介してみたい。

五分間の面接ために駆けつけた小林多喜二の母親、小林セキの話
蟹工船を書いた小林多喜二の時代は、不幸な時代でした。多喜二は、その社会活動のために、憲兵に逮捕され刑務所に入れられてしまいます。刑務所の中では憲兵の鞭が毎日のように飛んでくるつらい日々が続きます。そんな刑務所でしたが、北海道の小樽に住む多喜二の母、セキにだけは面会が許可されました。刑務所からセキへ宛てた手紙にはこう書いてありました。

「三日後の十一時から五分間の面会を許す。五分でよかったら東京の築地署まで出頭しなさい」

セキはこの手紙をみてこう言ったそうです。
「五分もいらない。一秒でも二秒でもいいから、生きているうちに息子に会いたい」

ただ、セキは貧乏のどん底で旅費もままならない状況でした。それでも、なんとか近所から借金して東京まで往復する汽車賃だけは借りることができました。冬の小樽は雪がたくさんあります。汽車もすぐに止まってしまいます。次の駅に汽車が止まっていると聞くと、駅員に止められても、何キロでも雪の中を歩いてその汽車に乗り換えました。

「こんなところで一晩待っていたら多喜二に会う時間に間に合わない」
セキは、そんな気持ちだったのです。

そんな努力が実り、セキは、当日の午前十時半に東京の築地署に着きました。憲兵が見ると、あまりに寒そうな様子だったので、火鉢をそばに持って行くと、セキはその火鉢を端っこに置きながら、憲兵にこう言いました。
「多喜二は火にあたってないんだから、私もいいです」

今度は、別の憲兵がうどんを温めて差し出しました。また、セキは言います。
「いや、多喜二は食べてないから、私もいいです」

十一時ぴったりになりました。
多喜二が二人の憲兵に連れられて、セキの目の前に座りました。多喜二は母の顔を見られませんでした。ひたすらにコンクリートの床に顔をつけて、「お母さん、ごめんなさい」と言っています。憲兵がその顔を持ち上げました。多喜二の顔は、目は腫れ、顔は痩せ細り、頭は剃られて、自分の息子かどうかもわからない有様でした。

セキは、絞り上げるような声で言います。
「多喜二か、多喜二か?]

多喜二は答えます。
「はい、多喜二です。お母さん、ごめんなさい」

二人とも泣き声で叫んだきり声が出ません。そして、何もしゃべらず、ただ手を取り合っているだけでした。たった五分の面会時間が、一分、二分と過ぎていきます。見かねた憲兵がセキに声をかけます。
「お母さん、しっかりしてください。あと二分ですよ。何か言ってやってください」と。

それにハッと気づいたセキは繰り返し多喜二にこう言いました。
「多喜二!お前の書いたものは何一つ間違っておらんぞ!お母ちゃんはね、お前を信じとるよ!」

そうして、たった五分の短い面会は終わり、セキは雪の小樽へ、一人帰って行きました。
多喜二は、その後一度釈放されるのですが、すぐまた逮捕され、死刑を待たずに、憲兵の激しい拷問により獄中で死にます。その死に際の話です。

憲兵が鞭を振り上げると、多喜二がしきりに何か言ってます。しかし、口は動かしても、もう声にならない。コップに水を一杯やり、「何か言いたいことがあったら言え」と言うと、多喜二は絞り出すような声でこう言いました。
「待ってください、待ってください。私はもうあなたの鞭をもらわなくても死にます。この数ヶ月間、あなた方はみんなで寄ってたかって、私を地獄へ落とそうとしましたが、遺憾ながら私は地獄へは落ちません。なぜならば、母が、おまえの書いた小説は一つも間違っていないと、私を信じてくれた。むかしから母親に信じてもらった人間は必ず天国へ行くという言い伝えがあります。母は私の太陽です。その母が、この私を信じてくれました。だから、私は、必ず、天国へ行きます」
そう言い切って、多喜二は、にっこり笑ってこの世を去ったというのです。

セキは、漢字が一つも読めなったのです。片仮名がほんの少し書ける程度だったのです。だから、息子の書いた難しい小説は一行も読んでいないのです。にもかかわらず、「おまえの書いたものは間違っていない。お母さんはお前を信じておる」と声を張り上げて言ったのです。

私は、このエピソードを読んで、人間関係の中での「信じる」ということの重みを感じた。人は、社会生活を営む中で、いろんな人との間に何らかの関係性を構築していかなければならないことを考えると、その重みは、何も母子関係の間に限るものではないと思う。例えば、私たち医療者は、患者から「信じてもらえた」と自分が感じるときに、自分の心の安らぎと安心を覚えるものである。それは、ひいては、患者への責任という自覚に変わっていき、より誠実な医療を行う強力なインセンティブになる。

多喜二が医者、セキがその患者、そして憲兵が今の医療批判社会全般と当てはめたらどうなるだろうか?

私は、ふっとそんなことを思ってしまった。とすれば、私はその憲兵に物を言おうとしているのかもしれない。同時に、セキのような患者が増えてくれることを望んでいるのだと思う。そして、私が、多喜二のように、笑って天国へ行けるかどうかは、私自身のこれからの医療者としての課題であり続けるのだろうと思う。

「不信」も「信用」も、その気持ちを抱く人の心の中にしかないという意味においては同じである。違うのは、その気持ちを向けられた人の反応である。「不信」の気持ちを向けられた人の心の中には、向けてきた人に対して、新たな「不信」と新たな「対立」を生み出すことであろう。これは、不毛な医療紛争の背後にある多くの当事者たちの潜在的な心の状態ではないかと推定している。一方、「信用」の気持ちを向けられた人の心の中には、このエピソードに見るように、新たな「信用」と新たな「自己肯定感」を生み出すだろう。私たち一人ひとりは、このような「不信」と「信用」という自分の心の状態が、他者の心にどんな影響を与えるかも知った上で、自分の感情は自分で選択しなければならない。自分がどんな心の状態を選択するかは、あくまで自分の責任であり、それが自分の人生の今後を決めていくことになるのだという自覚を強くもつことは、医療紛争の緩和において、ひいては人生一般において、とても大切なことだと思う。


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<番外エントリー>大淀病院判決報道に思うこと(判決文リンクしました) [医療記事]

(3月6日 追記しました。読売新聞報道に対する抗議の意です)
(3月7日 追記しました。報道姿勢の問題点を心理的な見地から具体化してみました)

皆様、大変ご無沙汰しております。当ブログの継続執筆を中断して随分と時間が経ちました。当ブログをこれから再開させるという気持ちは特にはないのですが、大淀病院の判決が出た今だからこそ、番外エントリーとして、私見をネット上に公開してみたいと思います。

そもそも、私が一現場の医師としての意見を広く知ってほしいと思い、ブログ執筆へ向かうようになったきっかけの一つが、2006年10月の大淀病院報道でした。当時、毎日新聞を筆頭に、「たらい回し、6時間放置」などの言葉が躍ったメディアの騒ぎぶりに、激しい怒りを感じるとともに、深い悲しみも感じました。いずれにせよ、当時の一連の報道が、救急医療に対する私の心を最初にへし折った報道であることはまちがいありません。これは私の気持ちですから、誰にも否定できないことです。つまり、この初期報道は、現場でがんばろうとする救急医療従事者に対する立派なペンの暴力であったと思います。マスコミ・ハラスメントとも言えるかもしれません。そんな大淀病院事件ですので、その判決が出た今、私自身、久しぶりにネット空間に自分の意見を出してみるよい機会だと判断としたわけです。

では、まずは、これまでの私のブログエントリーの中から大淀病院に関するエントリーをリストアップしてみたいと思います。

シンポジウム聴講記  2007.4.29

奈良妊婦死亡事件の提訴記事  2007.5.24

嫌悪感を覚える毎日の記事  2007.5.30

私は大淀病院を支持します   2007.6.25

大淀病院裁判 世間の声は  2007.6.26

大淀病院を応援します。  2007.8.29

大淀事件を通して今感じること  2008.7.17

まあ、今自分で見直してみると、ああ、当時の自分は随分と一生懸命だったんだなあと思います。同時に、メディアに変わってほしい、理解してほしいという切なる思いも伝わってきます。 そして、今回の奈良地裁の判決は、請求棄却でした。つまり、医師側の勝訴です。私は、2007.8.29のブログエントリーでは、こんなことを言っていました。

医学的判断においては、我々医療者側に十分勝算があることに間違いありません。
裁判官の方々には、遺族感情にながされることなく、中立的な判断を下してほしいものです。

私は、裁判官を信じています。

結果的には、この通りとなったわけです。でも、勝った・勝ったという喜びの感情はありません。ただ、この数年間は一体なんだったんだという虚しさにも近い感情が静かに私の心の中でうごめいています。

そもそも、この大淀病院事件とは、ご遺族もメディアに巻き込まれた人たちだと私は思うのです。そういう観点では、ご遺族もまたメディアの被害者なのかもしれません(死別のグリーフケアの過程をメディアに傷害されたという意味において)。

毎日新聞社は、ご遺族と病院がまだ話し合いの途中であるところに、ずかずかと突然割り込んできて、スクープとしていきなり第一報を流しています。裁判の傍聴録からその様子をうかがい知ることができます。http://obgy.typepad.jp/blog/2008/07/post-99d0.html より引用してみたいと思います。

病院側弁護士(K)
10月17日でしたか、ある日突然報道がでましたよね。報道とはいつごろから連絡を?

Tさん
報道の3日前にいきなり新聞記者が来て、私を指名して、いらっしゃいますかと。
ボクは何か分からなかったので「留守です」と答えました。その話をすると父が「名刺だけもらっとけ!」と言われたので、追いかけてって名刺だけもらってきて。一回話をして。そうしたら次の日に新聞に出ました。


※固有名詞はアルファベットに変えました

この発言から、一連の騒動に、火をつけたのは、まさにメディアだったと思うのです。 病院とご家族は、とても大事な話し合いを進めているところに、メディアが突然割り込んできてわけです。しかも、あれだけの騒ぎになってしまった以上、もう病院とご家族は、対立するしかなかったのではないでしょうか? メディアが病院とご家族の話し合いをぶち壊しにしたと考えられないでしょうか? もし、この話し合いが、ADR(裁判外紛争解決:Alternative Dispute Resolution)としての意味合いがあったとしたならば、そのADRを台無しにしてしまったのがメディアではないのでしょうか?そういう意味においても、あまりにも心無い報道だったと思うのです。大淀病院事件は、メディア介入による事件化という意味において、他の医療裁判とは大きく異なっている点だと思うのです。

その火をつけた側の毎日新聞社の報道にはこのようなものがあります。

記者の目:「次のMさん」出さぬように
2006.10.26 毎日新聞

取材は8月中旬、Tさん一家の所在も分からない中で始まった。産科担当医は取材拒否。容体の変化などを大淀病院事務局長に尋ねても、「医師から聞いていない。確認できない」。満床を理由に受け入れを断った県立医科大学付属病院(同県M市)も個人情報を盾に「一切答えられない」の一点張りだった。
 (中略)
Mさんの遺族にたどり着けたのは10月だった。Tさんは当初、「Mちゃんの死を汚す結果にはしたくない」と、取材への不安を口にした。「県内の実態を改善させるよう継続的に取材する」と伝えると、Tさんの話は5時間以上に及んだ。

(以降略)

(※記事中の固有名詞はすべてアルファベットに変えています)

記者が遺族を説得し、記事化したという経緯が書かれています。

私が思うに、大淀事件のケースは、通常の死別感情の一プロセスとして誰もが通過しうる怒りや敵意などの負の感情の真っ只中に、ちょうどご遺族がいたところに、実にタイミングよく毎日新聞社が割り込んできてしまっという不幸があると思うのです。毎日新聞が、記事として世間に公開してしまったがために、ご遺族のその負の感情が、正常な悲嘆反応として次へ進めずに、そこで停滞、そして大きく拡大してしまった。その結果、訴訟にまで発展したのでないかと推論するわけです。もちろん、私の推論にすぎませんから、本当のご遺族の気持ちは私にはわかりません。

判決が出てから、すでに4日経ちました。 どうして、当時あれだけの騒ぎをしたメディアは、こぞっておとなしいでのしょうかね。最初に騒ぐだけ騒いで、後は知らんぷりというのは、メディア業界の体質として、今に始まったわけではありませんが、「やっぱり大淀でもそうなのか」 という感じです。ただただ、私はあきれるばかりです。

その騒ぎぶりの違いを客観視するために、私は、有料のデータベースG-searchを用いて、第一報が出た2006年10月17日からの3日間と、判決が出た2010年3月1日からの3日間の期間において、毎日新聞社が大淀病院に関して、どんな記事を出しているのかを、見出しによる比較一覧を作成してみました。

2006.10.17~2006.10.19  毎日新聞社の記事から、「大淀病院」で検索 → 結果 11件ヒット

以下その記事の見出しのみ掲示

・病院受け入れ拒否:分べん中意識不明、転送まで6時間 1週間後、女性死亡--奈良 2006.10.17

・奈良の妊婦18病院転送拒否:遺族「助かったはず」 母体搬送システム、改善願う 2006.10.17

・病院受け入れ拒否:意識不明、6時間“放置” 妊婦転送で奈良18病院、脳内出血死亡 2006.10.17

・奈良の妊婦転送拒否:緊急治療の母体37%、県外搬送--04年 2006.10.17

・奈良・妊婦転送死亡:19病院以上、拒否か 大淀病院「判断ミスあった」 2006.10.18

・妊婦転送死亡:脳内出血見抜けず 遺族への謝罪、検討中--大淀病院長が会見 /奈良 2006.10.18

・奈良・妊婦転送死亡:病院の過失捜査へ--県警 2006.10.18

・奈良・妊婦転送死亡:産科満床なら他科へ 県医師会が再発防止、搬送要請で合意 2006.10.18

・奈良・妊婦転送死亡:県警、遺族から聴取 2006.10.19

・奈良・妊婦転送死亡:県警、遺族から事情聴く 病院関係者立件検討も 2006.10.19

・妊婦転送死亡:「周産期医療、整備を」 知事に要請文提出--共産党など /奈良 2006.10.19



2010.03.01~2010.03.03  毎日新聞社の記事から、「大淀病院」で検索 → 結果 6件ヒット

以下その記事の見出しのみ掲示   (判決日当日にヒット記事がないことにもご注目ください)

・奈良・妊婦転送死亡:賠償訴訟 「受け入れ体制作り必要」--大阪地裁 /奈良 2010.03.02

・奈良・妊婦転送死亡:賠償訴訟 「産科救急、充実を」 遺族請求は棄却--大阪地裁 2010.03.02

・奈良・妊婦転送死亡:賠償訴訟 産科救急医療の充実を 遺族の請求は棄却--大阪地裁 2010.03.02

・奈良・妊婦転送死亡:賠償訴訟 救急不備指摘 ママのおかげなんだよ 2010.03.02

・奈良・妊婦転送死亡:賠償訴訟 「救急充実願う」大阪地裁判決言及 遺族請求は棄却 2010.03.02

・ことば:奈良・妊婦死亡問題 2010.03.02


これら見出しの文言がかもしだす雰囲気から、いかに毎日新聞社が、自分達が行ったことを、自ら見つめ、それを自己開示することができていないかということを感じ取っていただければと思います。

どうして、自らの企業責任を自覚し、自発的に、つまり他者からの強制ではなく、

「あのときの報道はいきすぎでした。関係者に対して、深くお詫び申し上げます」

という一言が、社としてきちんと言えないのでしょうか。

まあ、そういう社風だからこそ、読者を失い、信頼を失い、結果、社が傾いていくと理解したらよろいしのでしょうか。 

大淀病院事件は、メディアが作った事件だと私は思っています。毎日が、あのときあのタイミングであんな報道の仕方をしなければ、奈良南部の産科医がいなくなることはなかったのではないのでしょうか? どうして、毎日新聞または他のメディア各社は、その検証報道をしないのでしょうか? そんな自分でまいた種に対して責任をとろうとせずに、だんまりを決め込むその態度に、私自身は当然としても、私のみならず日本国民の多くも、侮蔑の念を抱いてるのではないかと考えます。

これが業界というマクロ(集団)のレベルではなく、人と人というミクロ(個人)の関係の中での出来事であれば、多くの人から、その人は、軽蔑され、嫌われ、相手にされないのだろうと思います。そういう人に相当することを、メディアは、業界として行っているといえないでしょうか。

でも、私は、毎日新聞に謝罪を強制する気持ちはありません。謝罪とは、本来、人に言われてするものではなく、自らの内面から沸きあがってくる気持ちを態度と言葉で表明してこそ、心に響く謝罪になるからだと思うからです。 

判決が出て、一つの区切りとなった今、メディア業界がどういう態度になるのか、非常に興味がありました。 

結果、「やっぱり大淀でもそうなんですね」 でした・・・・

残念です。私は、またも、メディア業界を見直す機会を失ってしまいました。一体全体、これで何度目のことか、もう私にはわかりません。

今の私は、ネット活動よりもリアルの医療の現場の中で、私がこのブログで述べ続けてきたことを地道に伝え続けています。私自身は、まだまだ、自分の修行がたりません。ついつい、こんなエントリーを書いてしまうこと自体、自分の未成熟性の現れだと思います。私は、本当は、メディアが医療に関して、何を言おうが、どんないけてないことを言おうが、気にならない、心を動かされない自分になりたいと常々思っています。そのためには、自分をどうコントロールしたらよいかを悩みながら今を生きています。

今回に限り、ネット空間に出現することにはしましたが、基本的にはまた現実世界に戻ります。

メディア業界の中においても、個々の人というミクロのレベルにおいては様々ですから、私が信頼できると思う人も必ずいます。このエントリーは、あくまで、メディア業界というマクロに対する批判であり、個人というミクロレベルには、必しも該当しない批判であるということをどうかご理解ください。もし、心あるメディア関係者の方が私のエントリーを偶然目にしたとき、とても不愉快にお感じなることもあるかもしれません。そのときは、とても申し訳なく思いますが、業界批判であるという私の主旨に鑑み、お許しをいただきたいと思います。そして、業界としてなぜこういうことを言われるのかということを真摯に考えていただける機会となればと思います。

私は、医療業界というマクロを操作しようという大それた気持ちはもうなくなりました(以前ブログを書いているときはそんな驕りもあったように思います)。今はただ、自分が出会う患者さんやそのご家族を大切にしながら、今ある自分の目の前にある医療資源を使って、決して背伸びをせずに、無理をせずに、現実的な医療を提供していく中で、自分自身も成長できたらいいなと思っています。メディアが創りあげる虚構の概念を元に医療不信の念を抱いてしまう損な日本国民がもうこれ以上増えないことを切に願います。

本日はどうもありがとうございました。

コメント欄は一応承認制のままにさせていただきます。汚い日本語表現、ネット空間にふさわしくない個別情報の開示などが混じっているコメントが私の非承認の基準です。礼節をわきまえた表現でさえあれば、批判や反論でも開示するつもりです。

(3月6日 追記)

私が、家族を説得して自宅購読を中止した読売新聞から以下のような記事がでました。

メディア業界は、自らの報道のあり方をを振り返らないどころか、まったく自分たちのことはさておいて、メディアのほうが先に医師側を攻撃してきたようです。とても残念なことですが、私は、そんなメディア業界を心のそこから軽蔑します

ネットで医師暴走、医療被害者に暴言・中傷 

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100306-OYT1T00532.htm
魚拓
3月6日18時16分配信 読売新聞

 医療事故の被害者や支援者への個人攻撃、品位のない中傷、カルテの無断転載など、インターネット上で発信する医師たちの“暴走”が目立ち、遺族が精神的な二次被害を受ける例も相次いでいる。

 状況を憂慮した日本医師会(日医)の生命倫理懇談会(座長、高久史麿・日本医学会会長)は2月、こうしたネット上の加害行為を「専門職として不適切だ」と、強く戒める報告書をまとめた。

 ネット上の攻撃的発言は数年前から激しくなった。

 2006年に奈良県の妊婦が19病院に転院を断られた末、搬送先で死亡した問題では、カルテの内容が医師専用掲示板に勝手に書き込まれ、医師らの公開ブログにも転載された。警察が捜査を始めると、書いた医師が遺族に謝罪した。同じ掲示板に「脳出血を生じた母体も助かって当然、と思っている夫に妻を妊娠させる資格はない」と投稿した横浜市の医師は、侮辱罪で略式命令を受けた。

 同じ年に産婦人科医が逮捕された福島県立大野病院の出産事故(無罪確定)では、遺族の自宅を調べるよう呼びかける書き込みや、「2人目はだめだと言われていたのに産んだ」と亡くなった妊婦を非難する言葉が掲示板やブログに出た。

 この事故について冷静な検証を求める発言をした金沢大医学部の講師は、2ちゃんねる掲示板で「日本の全(すべ)ての医師の敵。日本中の医師からリンチを浴びながら生きて行くだろう。命を大事にしろよ」と脅迫され、医師専用掲示板では「こういう万年講師が掃きだめにいる」と書かれた。

 割りばしがのどに刺さって男児が死亡した事故では、診察した東京・杏林大病院の医師の無罪が08年に確定した後、「医療崩壊を招いた死神ファミリー」「被害者面して医師を恐喝、ついでに責任転嫁しようと騒いだ」などと両親を非難する書き込みが相次いだ。

 ほかにも、遺族らを「モンスター」「自称被害者のクレーマー」などと呼んだり、「責任をなすりつけた上で病院から金をせしめたいのかな」などと、おとしめる投稿は今も多い。

 誰でも書けるネット上の百科事典「ウィキペディア」では、市民団体の活動が、医療崩壊の原因の一つとして記述されている。

 奈良の遺族は「『産科医療を崩壊させた』という中傷も相次ぎ、深く傷ついた」、割りばし事故の母親は「発言することが恐ろしくなった」という。

 ◆日医警告「信頼損なう」◆

 日医の懇談会は「高度情報化社会における生命倫理」の報告書で、ネット上の言動について「特に医療被害者、家族、医療機関の内部告発者、政策に携わる公務員、報道記者などへの個人攻撃は、医師の社会的信頼を損なう」と強調した。

 匿名の掲示板でも、違法性があれば投稿者の情報は開示され、刑事・民事の責任を問われる、と安易な書き込みに注意を喚起。「専門職である医師は実名での情報発信が望ましい」とし、医師専用の掲示板は原則実名の運営に改めるべきだとした。ウィキペディアの記事の一方的書き換えも「荒らし」の一種だと断じ、公人でない個人の記事を作るのも慎むべきだとした。

 報告の内容は、日医が定めた「医師の職業倫理指針」に盛り込まれる可能性もある。その場合、違反すると再教育の対象になりうる。

最終更新:3月6日18時16分

確かに私たち医師も批判を受けることはあるでしょう。しかし、こと大淀病院の報道のあり方については、メディア業界は、私たち医師の心を折り続けるようなことをやり続けてきたのではないでしょうか?その検証記事が全く出てこない中で、この記事はあまりといえばあまりにひどいのではないでしょうか?

メディア報道のあり方の、あまりのバランスの悪さは、社会的に是正されてしかるべきだと思います。

今のこの時期に、このような記事を流す読売新聞の報道姿勢に対して、私は抗議の意とともに軽蔑の念を表明します。

私は、地道に自分の周りで出会う人々に自分のスタンスを啓蒙していくのみです。 

賛同の意をいただける方は、一言、「私も読売新聞に抗議します」 とコメントお願いします。
(上述の通りの理由で承認制ですので、反映には多少時間がかかります。)


(3月7日 追記)

自分でコメント欄につぶやいてたのですが、せっかくですから、今朝のコメントを加筆して、エントリーの一部にしました。以下、その追記および加筆部分。


誹謗中傷の類は、人の心に傷をつけます。もちろん、それは受け取る側の許容の幅が相当に千差万別的なところはありますが、一般社会常識に照らした超えてはならない一線があるでしょう。

一部の医師がその一線を踏み外したというのは確かに事実でしょう。
医師という職業の特性から、その一線の平均ラインが、医師以外の方のラインより多少厳しいところに置かれるというのも納得はできます。

しかしですね、これまでの幾多の報道被害の歴史を振り返れば、一部のメディアがその一線を踏み外してきたのも事実でしょう。
メディア業界の中に、大淀病院初期報道に対する自主的な反省や相互批判がいっさいないまま、昔の話を蒸し返すだけの一方的な医師叩きの記事です。メディアのこのような状態が、これほど社会に放置されたまままで、皆さん、本当にそれでいいですか?

この報道は、ネットを普通に適正に利用している大多数の極普通の医師たちへのに対する立派な誹謗中傷です。
私はそのように受け取るわけです。

割り箸事件の報道も、BPOから指摘をうけましたが、この記事と同じレベルで、読売新聞は、TBSを批判しましたか?問題点として社会に挙げましたか? 

あまりといえばあまりじゃないですか。メディアの報道姿勢は。

私は、そういう自分達のことを棚に上げて、他人ばかりを批判するメディアの姿勢に、著しく嫌悪の念を抱くのです。

認知療法の著書で有名なデビット・D・バーンズの著書(フィーリングGoodハンドブック 星和書店 P482)には、悪いコミュニケーションとして、15の指摘をしています。今回の読売新聞のこの報道姿勢に合致しそうなところを抜粋してみたいと思います。

原文中の「自分」に読売、「相手」に医師をそのまま当てはめてみます。( )部分が当てはめ部分。

<1.真実> 自分(読売)が「正しく」、相手(医師)が「間違っている」と固執する。

<2.非難> 生じている問題が相手(医師)の過ちによるものだと言う。

<12.罪の転嫁> 自分(読売)は正気で、自分(読売)の行動は適切で、自分(読売)は問題とは関係なく、相手(医師)に「問題」があるのだという態度をとる

<13.自己弁護>  あなたは(読売)は、自分が間違ったことや不完全なことをしたと認めることを拒む。
   (十分に批判があるのはおそらく承知の上で、あえて記事化しない(スルー)していることを、私はこう解釈しました。)

<14.反撃> 相手(医師)がどのような気持ちでいるかを理解しようとしないで、相手(医師)からの批判に対して批判で反応する。

<15.直面している問題からの逃避> いまここで自分(読売)と相手(医師)の双方が感じていることに向き合わず、過去の問題に対する不満をあれこれと列挙する


バーンズが指摘する悪いコミュニケーションの型15のうち、私的は、今回の報道姿勢は、この6個が合致すると解釈しました。

また、同著書P17には、歪んだ思考の10パターンというものが記載されています。(参考エントリー:リスクを認め付き合うこと )
その9番目にレッテル貼りというものが挙げられています。

バーンズはそこで、レッテル貼りを自分自身に対して貼ってしまうことが不適切であることを主に述べていますが、他人に対して貼る場合の危険性についても言及しています。バーンズは、レッテルを貼られた側は、これによって敵意を感じ、状況への改善の希望を失い、建設的なコミュニケーションの余地を小さくするとはっきりとその問題を指摘しています。

今回の場合、「ネットで医師暴走」という見出しがレッテル貼りに該当します。今回の私の感情は、バーンズが指摘する張られた側の心理状況とまさに一致します。つまり、他人に対するレッテル貼りというコミュニケーションにふさわしくない歪んだ認知に基づいて、そういう一般社会常識に照らして、とても適正とはいえないことを新聞社が公に堂々と行ったということになります。

他のメディア各社は、これを社会問題としないのでしょうか? 問題発言として、読売新聞社を批判しないのでしょうか?
それが、メディア業界が、他の業界には常に要求する自浄作用ではないでしょうか?

以上のように、そもそもメディア側のほうから、まず最初に、悪いコミュニケーションの型で、ボールを投げてくるわけですから、医師側から悪いコミュニケーションの型としてそのボールが返されるのは、当然至極の結果です。だから、当然その結果を作った原因は、メディア側にあるわけです。 

メディアは、悪いコミュニケーションのスターターという意味で、社会的にもっと厳しく追求されてもいいかなと思います。

反論をしたくてもその手段を十分に持ち得ない医師側が、まるでメディアのサンドバック状態にすらなっているようで、ほんま悲しくなります。


※ 読売新聞の釣りに、見事に釣られてしまった感がありますがお許し下さい。相手の誘導につい引っかかり、言質をとられるような発言だけは、皆様どうかしないで下さい。

(3/18 追記)

判決文が公開されました。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100318100440.pdf

メディアが報道してきた論調と実際の裁判での出来事とのズレを、今後も冷静に客観的に検証する際には、とても重要な資料なので、当ブログとしてもこの判決文はリンクしておきます。メディア業界は、自らの報道に責任を取らない業界ですので、メディア自身が、自ら率先して大淀病院の初期報道の報道姿勢の反省点を自己検証することはないでしょう。すでに、この2週間がそれを如実に物語っています。ですので、私たちの医療ブログなどが、より客観的かつ妥当な医学情報の提供の一部でありたいと考えます。ここに、お立ち寄りいただいた方々におかれましては、今後も大手メディアが発信する医学情報には、偏った医学的に妥当でない情報が相当の確率で混在しているということを前提にして、自分なりの判断をしていただきたいと思います。この数年にわたる大淀病院の医療紛争はようやく終結を迎えました。私たちはメディアが流す情報だけで絶対に医療不信の気持ちを抱いてはならないこと、つまり、医療メディアリテラシーの重要性ということを、大淀病院医療紛争の教訓として、私は強調しておきたいと思います。それが、今後、皆様が医療と上手に付き合うための智恵だと考えます。


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東京妊婦死亡症例報道を別目線で考える [医療記事]

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今回の東京妊婦死亡症例の報道のあり方を観察してみますと、人の心の不安を煽る記事がとても多いような印象をもちました。医療者は、医療者なりの不安が増幅され、医療を受ける側の方は、受ける側としての不安が増幅されているばかりのような気がします。そのような報道姿勢は社会にとって有益なのでしょうか?報道業界はそのことを果たして真摯に考えているのでしょうか?

そもそも、医療って何でしょうか?

病気や外傷は、その程度の大きさはともかくとして、皆さん自身の人生に降りかかった一災難(=リスクの現実化)です。医療は、その災難の被害を最小にすることを目的とした社会的リソースなのです。(注:病気を災難と考えない発想もありますが、とりあえず、それははずしておくことにします。)

ここでは、3前提3心理を提示しながら、私自身の主張を展開してみたいと思います。

前提1 人は、いつ死に瀕する疾病や外傷に遭遇するかわからない。 
前提2 そして、常にその事象に遭遇するリスクを誰しもが持っている。
前提3 リスクの現実化は、医療介入前にすでに生じている

これら3前提に、異論の余地はないかと思います。

また、人は、リスク現実化の前(=普段の日常生活)やリスク現実化の後(=死亡事例の発生など)に、こんな心理状態を呈してくるのではないでしょうか

心理1 いやなことをわざわざ考えたくないという抑圧的な心理
      例:自分が死ぬなんてこと、家族が死ぬなんてことは一度も考えたことがない

心理2 沸いてくる不安を回避しようとする代償的な心理
      例:「自分だけはちがう」と無理やりにでも思い込む

心理3 自己にとって都合の悪いものに対する代償的な心理
      例:死んだのは、○○のせいだと責任をどこかに転化する

報道業界は、この大事な前提を、業界自ら直視しようとせずに、同時に、市民に直視させようとせず、医療問題を医療者自身の問題や国や県の問題だけに矮小化して主張しようとしていませんか?

そうだとすれば、それは、上に掲げた心理(特に心理3)のためなんでしょうか?

さらにいえば、
医療システムが整いさえすれば、リスクの現実化(いわゆる死などの事象)がゼロになるという幻想を市民の心に植えつけてはいないでしょうか?

どうでしょうか?

もちろん、
事実A:システムがより整えば、それによって救われる命があることは事実。
ですが、

事実はそれだけではありません。
事実B:システムが整っても、救えない命があることも歴然たる事実。
も決して忘れてはなりません。

事実A、事実Bの両者の存在性にも異論の余地はなかろうと思います。

事実Aからは、次の主張の展開がごく自然です。
主張A:だから、システムはより完璧であるべきだ、あらねばならない。

一方、事実Bから、どんな主張を引き出せるでしょうか? 私はこうしてみました。
主張B:その死を受容し、それを今後の自分の生き方にどう反映させるかが極めて重要である。

果たして、今の報道風潮は、そこに、自立的なバランスをとって報道していますか?
全くそうは思えません。私には、こう見えます。

報道の目線  
事実A+主張A >>>>> 事実B+主張B

つまり、報道業界の世間に対する情報提供のありようが、悲しいほど余りにアンバランスだと私は言いたいのです。

今回の事例は、事実Aの要因も確かに存在はしていると思いますが、それだけを声高らかに言うのは、医療問題の矮小化だと思います。事実Aの要因だけでなく事実Bの側面も、そのバランスを意識しながら、市民に確実に伝えていくことのほうが、医療報道のあり方に求められている姿勢だと私は考えています。

報道業界のCSR(Corporate Social Responsibility)のあり方という観点からも、私はそう主張します。 

ただ、事実Bは、私が先に述べた人間のもつ心理故に、つい目をそむけたくなるものです。

ですが、医療という社会のリソースに限りあることが、どんどん露呈している現実がある以上、そのリソースを大事に使っていくという視点において、事実B+主張Bこそが、今もっと社会に投げかけられてもいいとは思いませんか?

先人達は、それぞれの時代背景・社会状況の中で、いやがおうにも生と死に向き合ってこざるを得ませんでした。その結果、先人達は様々な思想体系を作り上げてきました。それは現人類の財産と言っても良いと思います。私達も今、そんな財産を見つめなおしてみることが、主張Bに対応した具体的な向き合い方の一つではないかと思います。

私のブログの中では、主張Bに即したエントリーとして、こんなものがあります。
生と死は対立ではない  赤塚氏へのタモリの弔辞に思うこと
このブログをご覧になったどなたか一人にでも、その方にとっての何かの気づきにお役に立つことがあれば、私はうれしく思います。


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速報 妊婦死亡のニュースに関して一言 [医療記事]

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症例提示途中のエントリーではありますが、一言は言っておきたいニュースが出ましたので、新エントリーを挙げます。

まず、拒否というタイトルに一人の医療者として心が折れました。
TVの報道では、拒否という言葉は使われていなかったのですが、ネットニュースでは、タイトルに使われています。

一医療者として、NHKに対する不快感を表明しておきます。


「妊婦死亡 7医療機関が拒否

http://www3.nhk.or.jp/news/t10014878971000.html
(おそらく、すぐにリンク先は切れると思います。)
10月22日 6時42分


今月、東京で出産間近の36歳の女性が脳内出血を起こしましたが「対応できる医師がいない」といった理由で7つの医療機関から次々と受け入れを断られ、赤ちゃんを出産後に死亡していたことがわかりました。

東京都は詳しい経緯を調査しています。東京都や消防などによりますと、今月4日の夜出産を間近に控えた都内に住む36歳の女性が体調の不良を訴え江東区にあるかかりつけの産婦人科医院に救急車で運ばれました。女性は脳内出血の症状がみられたためかかりつけの医師が電話で緊急手術が可能な病院を探しましたが「当直の医師が別の出産に立ちあっている」とか「ベッドに空きがない」といった理由であわせて7つの医療機関から次々と受け入れを断られたということです。

およそ1時間後最初に受け入れを断られた墨田区内の都立病院に再度、要請した結果病院側は当直以外の医師を呼び出して対応しましたが女性は帝王切開で赤ちゃんを出産したあと脳内出血のため3日後に死亡しました。赤ちゃんの健康状態に問題はないということです。この都立病院は緊急の治療が必要な妊娠中の女性を受け入れる医療機関として東京都が指定しています。しかし医師不足を理由に本来は2人だった産科の当直の医師を1人にしていたため当直時間帯は原則として手術を断っており、最初の要請に対応できなかったということです。

東京都は女性が死亡したことを重く見て医療機関などから事情を聴いて詳しい経緯を調査しています。妊娠した女性の救急搬送の問題に詳しい昭和大学医学部の岡井崇教授は「今回の問題をきちんと検証し病院施設の多い東京でも産科医の不足や病院の受け入れ体制について対策を講じる必要がある」と話しています。

病気は、一人の人生のなかのリスクです。昨今、メディア報道は、リスクについてどのような見識を持って、これは報道する、これは報道しない という選別を行っているのでしょうか?

昨今のこんにゃくゼリーの騒ぎ方といい、昨日、振って湧いたように、小学6年生のパン窒息の事故を大々的に報道してみたり・・・・。

ただ、私は、とまどうばかりです。

さて、この初期報道から、世間がどのように動くのでしょうか? 静観してみたいと思います。

あらかじめ、皆様にお伝えしておきます。
私は、他者に対する配慮の乏しい言論は大嫌いです。ですので、私がそのように感じるコメントは、このコメント欄には公表いたしません。ご承知おきのほどよろしくお願いします。

15時5分追記
続々とマスコミ各社から報道が出ているようです。 拒否という単語を使った報道各社すべてに不快感の意を表明しておきます。


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秋葉原トリアージ問題 読売も指摘 [医療記事]

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先々エントリーで、サキヨミのトリアージ批判について考えるを書きました。 活発なご意見が多く、コメント欄はそれなりに盛況でした。今度は、読売新聞もフジテレビに追従したようです。こんな記事が出ました。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081014-OYT1T00667.htm

秋葉原事件で重傷2人収容に1時間、トリアージ運用見直し

 17人が死傷した東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、東京消防庁が実施した救急搬送のトリアージ(患者の選別)について、読売新聞が被害者の搬送時間を調べた結果、「最優先で搬送」と判断された負傷者7人のうち、少なくとも2人が通報から病院収容まで1時間近くかかっていたことがわかった。

 トリアージの対象外だった別の2人は30分以内に搬送が始まり、数分で収容されたとみられ、トリアージが、かえって搬送の遅れを招いていた。同庁は、情報伝達など現場の連携ミスが原因とみて救急搬送の運用指針を見直す。

 17人の被害者が搬送された12病院は現場から700メートル~数キロの範囲にあり、搬送時間は数~十数分程度。このため都や同庁、医療関係者などで作る「検証委員会」が今回の救急活動を検証している。今回の事件では発生3分後の6月8日午後0時36分ごろに最初の119番があり、7分後に1台目の救急車が現場に着いて応援を要請し、30分後には計14台の救急車が現場に到着していた。

 同庁は負傷者が多数に上ることから現場交差点の東約50メートルの路上に指揮本部を設置したうえで、現場に駆け付けた医師とともに、交差点付近で倒れていた15人にトリアージを実施した。

 このうち5人は致命的な損傷があるとして「搬送を先送りする」と判断され、3人は「簡単な救護処置で間に合う」だったが、7人は「生命の危険が迫り、最優先での搬送が必要」という判断だった。

 この7人について読売新聞が調べたところ、状況が判明した5人のうち、最も早く病院に収容された人が通報の36分後で、40分後と50分後が1人ずつだったほか、腹部を刺されて重傷を負った30歳代の女性は57分、右胸を刺されて一時重体に陥った50歳代の男性も54分かかっていた。

 これに対し、100メートル以上離れた路地に倒れていたためトリアージが実施されなかった重傷者2人は、指揮本部の指示から外れた救急車2台が30分以内に搬送を始め、最も近い700メートル先の病院に収容した。

 最優先の負傷者の搬送に1時間近くかかった理由について同庁幹部や検証委は、〈1〉現場が広く、指揮本部と被害者の間の情報伝達に時間がかかった〈2〉規制線などで一部の救急車が被害者のそばまで行けなかった――などを挙げている。

 同庁や検証委は、搬送を先送りされた5人を含め7人の死者は、搬送時間が短縮できても救命は困難だったとみているが、トリアージマニュアルの見直しも含め、搬送の在り方を再検討している。

 ◆トリアージ=多数の負傷者が出た場合、多くの命を救うため、けがの程度から救急隊員や医師が搬送や治療の優先順位をつける行為。赤(最優先)、黄(優先順位2番目)、緑(軽処置)のタグのほか、死亡または救命不可能で順位が最も低い黒タグがある。2005年4月のJR福知山線脱線事故でも実施された。

(2008年10月15日03時07分 読売新聞)

新聞記事としては、よくまとまっているのかもしれません。問題点の指摘もまっとうなのかもしれません。「マスコミは、社会の問題点を指摘し、批判し、そのことによって世を改善するのがその努めなのだ。マスコミとはそういうものなのだ。」という前提を認めてしまえば、何の問題もない記事かもしれません。

しかし、この記事を読んだ私の感想はサキヨミの時と変わりません。

こういう批判は、果たして医療をよりよくするのに役に立つのでしょうか?
いったいマスコミは何をどうしたいのでしょうか

ということです。

この国は、

専門家に対する敬意

なるものを持ち合わせてないのでしょうか?  本当にさびしい国だとほとほと悲しくなりました。

今、北海道で救急医学会が開催中です。 このエントリーは、そこから発信しています。

ある演題では、救急救命士の黒タッグ使用に際する「ためらい」に関するデータが報告されています。

救急救命士が黒タッグを使用した場合に、心的負荷を感じたという方が、275名(94%)と大多数を占めていた
というデータです。このデータから、心的負荷を軽減する方策の検討が必要であると結ばれていました。 

どうも、私には、 サキヨミといい読売新聞といい、安全地帯にある人が、事後から、後知恵バイアスという存在の気づきもないまま、言いたいことを好き勝手に言ってるだけとしか感じません。つまり、私は、好意的に記事を受け取られないのです。

その感じ方自体は、私自身の心に常に内在している「救急という現場に生じる自分で制御できない不確実性」なるものに対する不安と恐怖があるから故かもしれません。

現場の人たちは、程度の差はあれこそ、大なり小なり私の感じ方と似たようなものがあるのではないでしょうか?

私が言いたいことは、トリアージのあり方という視点だけではなく、現場の人の心のありようまでに想像力を働かすという視点をできるだけ多くの人に持ってほしいということです。


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不起訴です。SAH死亡事例 [医療記事]

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久しぶりの更新です。最近、更新の頻度を落としています。今後も気が向いたら・・・の程度で書いていきます。そのおつもりでどうかお付き合いください。
さて、くも膜下出血(SAH)の診断が、ときに大変難しいことがあるというのは、このブログの読者である方ならば、もはや常識に近いことかもしれません。
しかし、そうではない圧倒的絶対大多数の一般の方は、 CTを撮りさえすれば、SAHは診断できて当たりまえという認識をお持ちかもしれません。

もしかしたら、そういう認識が、医師の処罰感情へつながったのでしょうか? 

過去にこんな事例がありました。研修医の診察後にSAHで死亡した出来事が警察から検察に書類送検され、起訴か不起訴かについて検察の判断を待っていた事例です。→SAH再出血の怖さ。書類送検時にいたっては、一部の報道でなんと実名報道(魚拓あり)ですよ。 「書類送検=犯罪者」という誤った印象を持っている人が多い中での書類送検時での実名報道・・・・、もうこれだけで、風評被害の発生源となります。

さてこの度、この事例の検察対応が報道されました。 不起訴です。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/news/20080926-OYT8T00814.htm

佐久総合病院 医師を不起訴に 地検佐久支部
 県厚生連佐久総合病院(佐久市臼田)で2004年10月、頭痛を訴えて診察を受けた佐久市の女性(当時55歳)が、帰宅後にくも膜下出血で倒れ、死亡した件で、地検佐久支部は26日、業務上過失致死容疑で書類送検された同病院の男性医師(29)を不起訴(嫌疑不十分)とした。

 長野地検の発表によると、女性は04年10月23日午後2時20分ごろ、後頭部の痛みで、男性医師の診察を受けたが、「肩こりなどによる頭痛」と診断され、帰宅。同日午後5時30分ごろ、くも膜下出血で倒れ、意識不明となり、05年1月12日に死亡した。

 地検は、診察時に、くも膜下出血に特有な嘔吐(おうと)や、頭が爆発するような痛みなどの症状がなかったことから、CTスキャン検査などを行わなかった過失は認められないと判断した。また、検査でくも膜下出血が見つかっていても、発症から手術までに6時間の安静が必要なため、約3時間後に起きた再出血を防ぐことはできなかったと判断した。

 同病院の夏川周介院長は「改めて、亡くなられた女性のご冥福(めいふく)をお祈り申し上げる。病院としては、医療に内在するリスクの低減に向け、今後も不断の努力を重ねる」とのコメントを出した。

(2008年9月27日 読売新聞)

検察の方々もいろいろと大変であったでしょうが、賢明なるご判断だと思います。

「CT撮ればええだけやったんちゃう?だから、撮らんかった医師が悪いんちゃう? なんで不起訴?」 とお感じなる方もいるかもしれません。
そんな方には、このエントリーをご参照いただければと思います。
頭痛を訴える若い女性   SAH地雷の確率計算

多くの医療者は、SAHという難しいという病気に対して、診断や治療の向上という不断の努力を続けているものなのです。このブログの狙いは、SAH診断のピットフォールという面から、多くの医療者と情報共有をもつことによってその診断力の向上につなげようというものです。同時に、たとえリスク軽減の努力は実行していても、悪い結果は、決して0にならない-つまり、ゼロリスクは決して存在しない-という認知の普及も狙っています。


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大野病院判決:メディア報道の偏向性を憂う [医療記事]

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福島大野病院無罪判決が出て4日が経過した。実に多くの報道がなされている。しかしながら、メディアがあまり世間に伝えていない視点がある。本日はその視点について私見を述べてみたい。

前エントリー福島大野病院事件mixi日記の反応から  において、私はmixiの日記の検証を行った。そのことから私が感じたことは、一般の方々がこの報道を通して、改めてお産そのものに内在するリスクを感じ取っていたように思う。つまり、やっぱり、お産は怖いんだという感覚である。

一方、メディア報道(特に新聞社の社説)では、無罪判決を医療の隠蔽体質などと結びつけて論じている記事が多いように思う。福島大野病院の事例に限って言えば、隠蔽体質とは無関係であるにもかかわらずにである。その一例を引用すれば、毎日新聞 社説:帝王切開判決 公正中立な医療審査の確立を である。

そこで、私は、主要全国紙や主だった全国の地方紙などを一挙に検索できる有料のデータベース G-searchを用いてメディアの報道状況をチェックしてみた。 検索期間を判決日(2008年8月20日)以降に限定してキーワード検索を行い、そのヒットした記事数から、報道状況の概要を把握しようという方法だ。 共通キーワードとして、判決 AND (無罪 or 大野病院) とした。 可変キーワードとして、A群・・・医療の不確実性に関するもの B群・・・医療界が指摘されてきた体質に関するもの をそれぞれ結果のごとく選んだ。

その結果を示す。

 可変キーワード記事のヒット件数
A群医療の限界1件
医療の不確実性1件
受容 AND リスク0件
死生観 AND リスク0件
B群透明性27件
隠ぺい OR 隠蔽11件
誠実4件
体質6件
医療不信 OR 不信24件

私達医療者は、医療をうける方々に、医療の不確実性、医療行為の中に初めから内在しているリスク というものを理解してほしいと切実に訴え続けている。もちろん、このブログでも、リスクの受容や死生観をキーワードとして、それを訴え続けている。 参考エントリー:リスクを認め付き合うこと 病気・死は悪か? 胎盤早期剥離の事例に思うこと

報道の結果をみると惨憺たる結果である。 無罪判決が出たにも関わらず、メディア報道は、医療の体質に関することばかり報道し、世間が認知すべきリスクについてはまるで報道していないということが、見て取れる。 私自身のキーワードの選出の仕方の問題は残るものの、とりあえずこの結果は、報道の偏向性の具体例と指摘しておきたい。

A群のキーワードがヒットした貴重な新聞報道をここに引用する。

新生面=産婦人科判決
2008.08.21 朝刊 朝一 (全619字) 

 米国の外科医デニスが医師を辞めたのは、医療過誤保険の保険料が高騰したためだ。年収二十万ドルのデニスに、十八万ドルの保険料負担が求められた。失職に苦しむデニスは、うつ病の患者となった▼ジャーナリストの堤未果さんが「文藝春秋六月号」に書いた話。訴訟社会の米国では、医療過誤には患者から巨額の賠償が求められる。このため、医師も保険をかけて“自衛”するが、それも限界に達している▼
患者からすれば、病気を何とか治してほしい。そう願うのが人情だ。医療技術の発達を見れば、なおさらそう思う。医療過誤とも無縁でありたい▼一方、医療側の見方は違う。医療界の論客で泌尿器科医の小松秀樹氏は「医療とは本来、不確実なものです。しかし、この点について患者と医師の認識には大きなずれがあります」と言う(「医療の限界」・新潮新書)▼医療に完全を求める傾向と医師不足が医師の疲労を深め、病院を辞める医師が増えているという。「立ち去り型サボタージュ」。小松氏の造語で、医療界では有名な言葉だ▼福島県立大野病院で、帝王切開手術を受けた女性が死亡した事件の裁判も、検察側と医療側の見解が対立した。検察側は医師の過失を主張したものの、判決は無罪だった▼裁判長は、医師の措置を妥当と認めた。安堵[あんど]した医師も多いだろうが、医療内容を中立的に調査する機関の整備や医師の増員を急ぐべきだ。このままでは、日本の医療も、患者と医療者が苦しむ「米国病」になる心配がある、と診断する。  熊本日日新聞社
地域産科医療への影響検証 大野病院事件受け、医師ら
2008.08.20 共同通信 (全367字) 

福島県立大野病院事件が地域の産科医療に与えた影響を考えるシンポジウムが二十日、福島市内のホテルで開かれ、医師や、医療問題に詳しい弁護士らが意見交換した。名古屋医療センターの野村麻実(のむら・まみ)医師は冒頭、「産科崩壊が身近になったのはこの事件が契機」と指摘。「無罪で良かったが、萎縮(いしゅく)した医療の再建は難しい。残った産科をどう守っていくか住民も考えてほしい」と呼び掛けた。加治一毅(かじ・かずき)弁護士は「捜査機関が医療ミスにどこまで介入するか、医師が安心して働くためには線引きの確立が必要だ」と述べた。医療現場の再建を目指す超党派の議連に所属している自民党の世耕弘成参院議員は「検察は控訴するべきでない」と強調。ほかの参加者からは「産婦人科の専門医大を作るべきだ」「
医療の不確実性が患者側に理解されていない」などの意見が出た。
共同通信社

今回の無罪判決を通して、医療の不確実性の問題を扱った記事は、私はたった二つしか探せなかった。一方、B群に関しては、たくさんある。いちいち全てを全部検証する気にはとてもならない。

医療は、人間の生死という人間の人知では所詮手の届かない深遠なる「自然」を扱う分野である。つまり、医療は、人間にはどうしようできないリスクというものが内在しているという本質を持っているのである。 今回の無罪判決は、妊婦の死亡という悪い結果にも終わったにも関わらず、適正な医療を行ったと裁判が認定した事例なのである。世間に、その医療に内在するリスクの存在を世に啓蒙する絶好の機会である。にもかかわず、報道は、そのリスクの存在を世間に一向に伝えようとしていない。すごくバランスの悪い報道のあり方ではないだろうか。

社会が、我々医療者に襟を正せと要求するだけで、医療の不確実性を理解しようとせず、そのリスクだけを我々医療者に丸投げする風潮が続くのならば、医療崩壊は止まらないと考える。


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福島大野病院事件mixi日記の反応から [医療記事]

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本日、無罪判決が出ました。 多くの医療者が妥当な判決だと評しています。もちろん、私も妥当な判決だと思っています。その妥当性については、改めてここで論じることはしません。

すでに、多くの報道ソースがありますが、ここでは、下記の福島での号外記事をリンクしておきます。

http://www.minpo.jp/var/rev0/0015/2971/gougai20080820B.pdf

さて、この報道を一般の方々は、果たしてどのように捉えているのでしょうか? 今回、私はそれを考えてみました。

その方法は、一般の方々の反応を次のmixi日記をランダムに眺めてみることでした。
mixiニュース:<大野病院医療事件>帝王切開の医師に無罪判決 福島地裁 (注:mixiに加入してない方はアクセスできません)


リンク切れに備え、そのリンク先引用しました。(8月23追記)

<大野病院医療事件>帝王切開の医師に無罪判決 福島地裁
(毎日新聞 - 08月20日 10:21)

日記を読む(1460)日記を書く


 福島県大熊町の県立大野病院で04年、帝王切開手術中に患者の女性(当時29歳)が死亡した事件で、業務上過失致死と医師法違反の罪に問われた同病院の産婦人科医(休職中)、加藤克彦被告(40)に対し、福島地裁は20日、無罪(求刑・禁固1年、罰金10万円)を言い渡した。鈴木信行裁判長は、最大の争点だった胎盤剥離(はくり)を途中で中止し子宮摘出手術などへ移行すべきだったかについて「標準的な医療水準に照らせば、剥離を中止する義務はなかった」と加藤医師の判断の正当性を認め、検察側の主張を退けた。

 加藤医師は04年12月17日、帝王切開手術中、はがせば大量出血する恐れのある「癒着胎盤」と認識しながら子宮摘出手術などに移行せず、クーパー(手術用はさみ)で胎盤をはがして女性を失血死させ、医師法が規定する24時間以内の警察署への異状死体の届け出をしなかったとして起訴された。

 争点の胎盤剥離について、判決は大量出血の予見可能性は認めたものの、「剥離を中止して子宮摘出手術などに移行することが、当時の医学的水準とは認められない」と判断した。医師法21条については「診療中の患者が、その病気によって死亡したような場合は、届け出の要件を欠き、今回は該当しない」と指摘した。

 医療行為を巡り医師が逮捕、起訴された異例の事件で、日本医学会や日本産科婦人科学会など全国の医療団体が「結果責任だけで犯罪行為とし、医療に介入している」と抗議声明を出すなど、論議を呼んだ。公判では、検察、被告側双方の鑑定医や手術に立ち会った同病院の医師、看護師ら計11人が証言に立っていた。【松本惇】

 【ことば】癒着胎盤 一般に分娩(ぶんべん)後、胎盤は自然に子宮壁からはがれるが、胎盤の絨毛(じゅうもう)が子宮筋層に入り、胎盤の一部または全部が子宮壁に癒着して胎盤がはがれにくくなる疾患。発生率は数千~1万例に1例と極めて低い。

 ◇県警刑事総務課長「捜査を尽くした」

 福島県警刑事総務課の佐々木賢課長は「県警としては捜査を尽くしたが、コメントは差し控えたい。細かい争点については(裁判所の判断が)まだ分からないので何とも言えない。県警は医師に注意義務があるとして検察へ送ったが裁判所はそう認定しなかった」と話した。

 ◇産科婦人科学会理事長「救命医療の確立目指す」

 吉村泰典・日本産科婦人科学会理事長は「被告が行った医療の水準は高く、医療過誤と言うべきものではない。癒着胎盤は極めてまれな疾患であり、最善の治療に関する学術的な議論は現在も続いている段階だ。学会は、今回のような重篤な症例も救命できる医療の確立を目指し、今後も診療体制の整備を進める。医療現場の混乱を一日も早く収束するため、検察が控訴しないことを強く要請する」との声明を出した。
毎日新聞 (提供元一覧)



8月20日 19:15現在で821件の日記が書かれていました。 私はそのうち、97件の日記を覗かせていただきました。そして、日記の内容を次の3つに分けてみました。 つまり、 無罪支持、無罪不支持、支持表明なし という3つです。

結果です。

無罪支持無罪不支持支持表明なし
58435

圧倒的に、無罪支持の意見が主流でした。 mixi加入者というバイアスを考えないといけませんが、一般世論として、無罪支持の風潮が強そうであると私は推論しておきたいと思います。
一方、一部のメディア報道は、医療への疑問を抱かせることを意図した誘導的な記事が存在します。具体例をあげますと、これです。
「なぜ事故が」…帝王切開死、専門的議論に遺族置き去り

タイトルからして全くいけてません。いい加減にしてほしいと私は本当に思います。 ご遺族には、ご遺族のお気持ちがあるのは当然です。だから、納得が出来ないというお気持ちを抱くのはある意味自然な感情でしょう。 しかし、その感情を、報道にのせて、世に流すことにどんな社会的有用性があるのでしょうか? はなはだ疑問に思います。 遺族感情を大々的に報道する姿勢は、メディアの悪い風潮だと思います。割り箸事件のときもそうでした。→参考エントリー:割り箸訴訟と医療の不確実性

そういう報道姿勢は、今後改めてほしいと切に願います。mixi日記からも、明らかにそういう報道姿勢は嫌悪の対象とされています。メディア関係者の方の学習を期待します。

さて、mixiの日記を勝手に引用することは、私自身問題があると認識しています。ですので、直接の引用ではなく、要約の形で二つ(#1、#2)ほど紹介しておきます。

最初に、無罪不支持意見として
#1:人が一人死んでるのに、無罪なんておかしい! という意見です。

ごく少数ですが、このような主張がありました。 医療者は、「人は死ぬものだ」という大前提で医療行為を行いますが、こういう主張をされる方は、「死」という大前提を心の中にお持ちでないように私には思えます。 やはり、社会としての「死の教育(death education)」ということの重要性を感じずにはいられません。#1の認識をもつ人が、医療の中で死亡事例の関係者になると、医療関係者は、納得してもらうためには本当に大変なんだろうなと思います。いくら、一生懸命時間をかけて説明しても、丁寧に説明しても、現在の医療システムでは、なんら医療報酬は発生しません。つまり、医療者側の良心、誠実度のみに依存するボランティアとなるのです。 「説明」という立派な専門的業務をシステムとして認めることも医療者ー患者の対立関係緩和につながる一つの具体的方策かもしれません。


次に、支持表明なしの中で、複数の興味深い意見がありましたので、その共通する部分の意見を紹介します。
#2:私がもし遺族の立場だったら、やっぱり納得がいかないと思う! という意見です。

医療という人の生死を扱う業界に属する自分にとっては、とても興味深い反応だと思いました。 

医師と患者が安心して、医療に向き合える環境づくりには、システム整備論のみならず、 「死」を納得できない遺族感情を、個々の医師-患者関係の中で、どう取り扱い、どう向き合っていくのかという視点が極めて重要だと思いました。 そういう捉え方においては、まだまだ、マスメディアはもちろんのこと社会全体が未成熟な状態なのかもしれません。

医療崩壊を阻止していくためには、死をもっとオープンにする社会が絶対に必要な気がします。違う言葉で言えば、一人ひとりが、自分に対するあるいは家族に対する「死の覚悟」を日ごろの生活の中で認識しておくことの必要性でしょうか。 そういう認識が十分にあれば、#2のような気持ちを持つ人が少なくなるのかもしれません。

もちろん、#2を考えるに当たり、「信頼」という視点も必要であることは言うまでもありません。まず、「信頼」があってこその覚悟だと思うのです。では、その「信頼」は、どうすれば良いのでしょうか?それは、各人の心の問題であると私は思っています。だから、「信頼」はまず自分の問題という自覚から入る必要があります。「信頼」は、他人から決して与えられるものではありません。そこをわかっていない方が、不信の負のスパイラルに陥いるのでしょう。医療裁判に限らず、離婚調停や裁判などにおいても、この不信の負のスパイラルから対立の深みにはまってしまってる事例がきっとあるのでしょうね。

あらためて、#2に関する私の主張を整理します。

医療に対する信頼はまず大前提。その上で、各人が「死に対する覚悟」を日ごろから認識しておくことが、いざ当事者になったときに、(死という)医療の結果を納得できるようになるのではないか。

ということです。

以上、今回の無罪判決に対するmixi日記の反応から、私が感じたことでした。


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大淀事件を通して今感じること [医療記事]

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大淀病院の事件は、一医療機関と一患者側との医事紛争の枠組をすでに超えてしまっているというのが大きな特徴だと思います。既存の報道機関が提示する情報が、とても社会的公平性を欠いた不適切なものであったということを、ネットを通した医師個人レベルの活動が明確にし、そして非常に質の高い医学的論がネットを通してリアルにやり取りされ、そういう中で裁判経過が多くの医師の注目を浴びているという特徴です。これは、医療報道のありかたそのものを変える大きな転機ではないでしょうか。

2006年10月17日、毎日新聞は、次のような報道を行った。それがすべての始まりであった。

病院受け入れ拒否:意識不明、6時間“放置” 妊婦転送で奈良18病院、
脳内出血死亡
2006.10.17 大阪朝刊 1頁 政治面 写図有 (全1,454字) 

 ◇手術は60キロ先の大阪
 奈良県大淀町立大淀病院で今年8月、分娩中に意識不明に陥った妊婦に対し、受け入れを打診された18病院が拒否し、妊婦は6時間後にようやく約60キロ離れた国立循環器病センター(大阪府吹田市)に収容されたことが分かった。妊婦は、脳内出血と帝王切開の手術をほぼ同時に受け元気な男児を出産したが、約1週間後に死亡した。遺族は「意識不明になってから長時間放置され、母体の死亡につながった」と態勢の不備や病院の対応を批判。大淀病院側は「できるだけのことはやった」としている。過疎地の産科医療体制が社会問題化する中、奈良県や大淀町は対応を迫られそうだ。(31面に関連記事)
 ◇県外搬送常態化
 遺族や病院関係者によると、妊婦は同県五條市に住んでいた高崎実香さん(32)。出産予定日を過ぎた妊娠41週の8月7日午前、大淀病院に入院した。
8日午前0時ごろ、頭痛を訴えて約15分後に意識不明に陥った。産科担当医は急変から約1時間45分後、同県内で危険度の高い母子の治療や搬送先を照会する拠点の同県立医科大学付属病院(橿原市)に受け入れを打診したが、同病院は「母体治療のベッドが満床」と断った。同病院産科当直医が午前2時半ごろ、もう一つの拠点施設である県立奈良病院(奈良市)に受け入れを要請。しかし奈良病院も満床を理由に、応じなかった。医大病院は、当直医4人のうち2人が通常勤務をしながら大阪府を中心に電話で搬送先を探したが決まらず、午前4時半ごろ19カ所目の国立循環器病センターに決まったという。高崎さんは約1時間かけて救急車で運ばれ、同センターに午前6時ごろ到着。脳内出血と診断され、緊急手術と帝王切開を実施、男児を出産した。高崎さんは同月16日に死亡した。大淀病院はこれまでに2度、高崎さんの遺族に状況を説明した。それによると、産科担当医は入院後に陣痛促進剤を投与。容体急変の後、妊娠高血圧症候群(妊娠中毒症)の妊婦が分娩中にけいれんを起こす「子癇(しかん)発作」と判断し、けいれんを和らげる薬を投与した。当直の内科医が脳に異状が起きた疑いを指摘し、CT(コンピューター断層撮影)の必要性を主張したが、産科医は受け入れなかったという。緊急、高度な治療が必要な母子について、厚生労働省は来年度中に都道府県単位で総合周産期母子医療センターを指定するよう通知したが、奈良など8県が未整備で、母体の県外搬送が常態化している。大淀病院の原育史院長は「担当医が子癇発作と判断して処置した。脳内出血の疑いも検討したが、判明しても対応しようがなく、診断と治療を対応可能な病院に依頼して、連絡を待っていた。ご遺族とは誠意を持って対応させていただいている」と話した。一方、高崎さんの遺族は「大淀病院は、脳外科を備えながら専門医に連絡すら取っていない。長時間ほったらかしで適切な処置ができていれば母体は助かったはずだ」と話している。【林由紀子、青木絵美】
 ◇「確認可能なはず」
 妊婦が意識を失った場合、子癇発作と脳内出血の差はどう判別されるのか。県立医大の小林浩・産科婦人科教授によると「いずれもけいれんを起こし、普通どちらなのかは判断できない」という。一方、別の産科医は「頭痛があり、妊娠高血圧症候群がないなら、脳内出血を疑うべきだ。病院内にCTがあるなら、確認は可能だったはず」と話す。遺族は「脳内出血を疑う情報が、転院依頼先の病院に伝わっていれば、次々と断られることはなかったのでは」と訴える。
毎日新聞社

今あらためて、この報道が、いかに医療者の侮辱にさえ値する報道であったかが、裁判の証言を通して明らかにされつつあります。これは、ネットによる個人レベルの情報発信手段が確立された昨今であったからこそ、明らかにされたとも言えます。僻地の産科医先生のところに、その情報が最も集約されていると思います。その精力的なご活動に心から敬意の意を表したいと思います。とても貴重なその資料はこちらです⇒ 大淀病院 目次

私自身、この記事を最低と評する最大の部分は、6時間放置という表現である。
そして、ご遺族の発言として、新聞社としての責任を回避しながら、長時間ほったらかし という報道を行ったことも許しがたいが。

では、実際は・・・・
僻地の産科医先生の資料(第5回資料 診療経過表)から適宜抽出してみる。
大淀事件 証人喚問 内科医先生編 大淀事件 証人喚問 高崎さん編 大淀事件 証人喚問 産婦人科医先生編
からは、さらに詳細な現場の様子が伝わってくる

最初の症状   午前0時頃 (より正確には0:14) ・・・・A
本来の急変時 午前1:37                ・・・・B
          直ちに転送交渉開始
        (産科医が詰め所で転送交渉にあたり、
         内科医が、患者のそばについている状況で)
交渉成立    午前4:20                ・・・・C
現場出発    午前4:50                ・・・・D
国循到着    午前6:00                ・・・・E

この経過で、どうして6時間放置になるのでしょう? 

・ぎりぎり嘘という批判に対して言い逃れが可能な最大な時間のとり方(=E-A=6時間)にしています。
・放置というこの単語一語のみで、医師が何もしなかったという悪印象を自動的に読者に与えるようにしています。

この2点は、明らかに毎日新聞社の意図です。 
医療を悪者にしたかったという意図が明らかすぎるほどに明らかです。
転送システムを論じるとすれば、C-B=約3時間弱 というところを検討すべきでしょう。
いずれにしても、この裁判を通して、明らかに当初の報道が不適切だったことがはっきりとしました。

医師ブログは、「情報流出・誹謗中傷」云々で、メディアの攻撃対象にされましたが、結果的には明らかに既存のメディアより早期に的確な情報を流していたこともこの裁判経過から判明したわけです。 もちろん、そんなことをメディアが報道するはずもありませんが、大きな事実だと私は思います。

新聞社側に最大限歩み寄って当初の取材当時は仕方がなかったという側面は仮に認めたとしても、今はもう違いますよね。それは、毎日新聞だって知っているはずです。

医療界を侮辱するような「6時間放置」という発言に対して、今、毎日新聞社は医療界にそして何よりも大淀病院の関係者達に真摯に謝罪するべきではないでしょうか?もしかしたら、私の知らないところですでに謝罪されているのでしょうか?

ただ、私個人の倫理観は、新聞社という組織には通用しないのかもしれません。
それが社会の不公平性の1つかもしれません。 
(ちなみに、私は社会や人生は不公平なものであるという認識を前提にもっています)

この裁判を通して、医師側と患者側の間に、新たな相互理解が生まれることを願ってやみません。

(7月21日 追記)  
2007年5月 2chでは、大阪保険医雑誌2007年5月号に記載された「対論 奈良・大淀病院問題から医療報道を考える」という記事の内容が紹介されていました。ネット上ではそれなりに有名かもしれませんが、いちおう、初めての方もおられるであろうと思うので、ここにも開示しておきます。

卵の名無しさん 投稿日: 2007/05/16(水) 22:10:14 ID:ytRbtdiX0

大阪保険医雑誌5月号より
吉村:
後の「医療クライシス」からは報道の姿勢が変わってきていると 医師仲間も思っています。 ただ、最初の大淀病院を巡る報道では亡くなった妊婦さんを担当した医師個人の資質の問題をターゲットにした書き方を されているのではないかと思うのです。

毎日新聞 砂間裕之:
具体的にどこがターゲットになっているのか、 示していただけますか。

吉村:
「当直の内科医が脳に異常が起きた疑いを指摘し、 CTの必要性を主張したが、産科医は受け入れなかった」という 箇所はどうですか。 一部には内科医師が「子癇発作の痙攣でしょう」としてCTを 進言した事実もないという話もあります。

毎日新聞砂間裕之: 
そ れ は ネ ッ ト 上 の M 3 で の 話 で し ょ う 。 詳細な経過がなぜ外部に流出するのかも、こちらは全然理解できないです。僕らは取材に基づいてやっているので。

吉村:
しかし、この文面は体制の問題を強調している文章と言えるのですか。

毎日新聞 砂間裕之:
事実経過を説明しないと、体制の話もできないでしょう。 この中で、悪いとも何とも書いていないわけです。 事実経過がなくて、どうして体制が不備だと言えるのですか。

吉村:
だから、これが事実かどうかも明らかではないでしょう。

毎日新聞 砂間裕之: 
事 実 に 基 づ い て い ま す 。

吉村:
では、どこから、誰から取材したのですか。

毎日新聞 砂間裕之:
取材源は明かせません。 少なくとも、病院関係者と遺族、奈良の医療関係者から取材しています。 子癇か脳内出血かというのは、診断するに当たって、大事なところではないですか。


このようなやりとりが実際になされていたわけです。しかし、裁判での関係者の証言が、明らかになった今だからこそ、もういちどこの砂間氏の発言を考え直してみるのも良いかと思います。 いろんな立場がおありでしょうから、ご自由にお考えいただければ幸いです。

併せてここに、裁判証言での関係箇所を抜き出しておきます。皆様のご判断の一助となればと思います。

0:14の意識消失に関して助産師の証言

[被弁2]
 
その後、お二人の医師が何か話されているのを聞きましたか?

[助産師]
「陣痛中の単なる失神でしょう、しばらく様子を見ましょう」
というようなことを言われました。

[被弁2] 
誰が言いましたか?


[助産師]
内科医だと思います

1:37の痙攣発作に関しての内科医と産科医の証言

[内科医]
脳の異常だと思いました。脳出血ないし、脳梗塞。CTは撮ってもいいと思ったのですが、産婦人科医先生が動かしてはいけないとおっしゃった。それに搬送先でCTも撮ってもらえばいいかなと

[産科医]
マグネゾールがきいたから。子癇には絶対安静が必要。それに高次機関ですべきだと思ったCTには40-50分かかる。脳の病気では?といわれた覚えはない。

(コメントを下さる方へ 単語1つを切り取って、誹謗・中傷と言われかねない単語は、できるだけ回避してくださるようにご配慮ください)


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SAH地雷の確率計算 [医療記事]

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本日は、くも膜下出血(SAH)の話題が報道されていました。 このブログではSAHにはこだわりをもって何度もエントリーを入れてきました。そこで、本日は、この記事に対する自分の感想と考えを述べた後に、SAH地雷の確率計算を皆様と考えてみたいと思います。

<くも膜下出血>初診6.7%見落とす 学会調査   魚拓
7月7日21時56分配信 毎日新聞

くも膜下出血の患者のうち、脳神経外科医以外が初診した6.7%が風邪などと診断され、事実上、病気を見落とされていたことが7日、日本脳神経外科学会の調査で分かった。患者が軽い頭痛しか訴えなかったことなどから、くも膜下出血を発見できるCT(コンピューター断層撮影)を実施していなかった。
同学会は「軽い頭痛の患者全員にCTを行うわけにはいかない。現代医療の限界とも言える」としている。同学会学術委員会の嘉山孝正・山形大教授らが、宮城県と山形県の2病院で、脳神経外科のカルテ全491例を調査した。宮城県は07年1月~08年5月が対象。198例中37例が脳神経外科医以外で初診を受け、うち10例(5.1%)が風邪、高血圧、片頭痛などと診断されてCTを受けず見落とされた。10例すべてが再発し2例が死亡した。山形県は96~05年が対象。専門医以外の初診は293例中48例で、23例(7.8%)が見落とされ、すべてが再発し2例が死亡した。見落とし計33例のうち17例は、くも膜下出血の常識に反して発症時に軽い頭痛しか起きておらず、委員会は「専門医以外では他の頭痛と区別できない」と指摘。他の16例も「診断が難しい例がある」とした。山形県では脳神経外科医でも見落とした軽度頭痛の患者が1例あった。米国では5~12%の見落とし率という報告がある。嘉山教授は「くも膜下出血の診断は難しく、完ぺきな診断はできない。現代の医療でも見落としは不可避という現実を周知し、脳ドックの普及など社会全体で対策を考えるべきだと思う」と話している。【奥野敦史】

上記引用記事において、私が重要と思ったところは、赤太字にしてみました。 医療の限界性を、記事を通して伝えようという点においては、この記事を評価しておきたいと思います。それに比べて、読売の記事「くも膜下出血、5~8%見逃す可能性…風邪や高血圧症と診断」 では、この限界性については、完全にスルーして、見落としの部分がこの記事よりさらに強調されているものとなっています。

新聞社が見出しで「見落とし、見逃し」といったネガティブな印象を与える言葉を使ったがために、「SAHに対する医療のレベルが一般に低い」という印象が世間に広まってしまったのではないかと私は危惧しています。

SAHは、当ブログでも何回も話題にしてきました。それだけ、地雷性が強く、訴訟にもなりやすい疾患なのです。

SAH診断の限界性は、どこから来るのか? それについて、ここで一言解説させていただきます。

それは、予兆 → 再出血(急変) というステップで病状が進行するというパターンが存在するということです。この予兆が、非典型であればあるほど、SAHの診断は困難となります。 さらに、予兆の段階ですので、頭部CTによる診断も大いに限界があります。 この予兆を象徴する頭痛として、雷鳴頭痛とか警告頭痛という名称が与えられているものがあります。「突然発症のバットで殴られたような人生最悪の頭痛」という特徴をもった頭痛がそれに該当するわけです。この予兆の出かたにも個人差があるでしょうし、また、自分の症状を、自分の言葉で医師に伝えるときも、人それぞれでしょう。そういうわけで、予兆の把握も一筋縄でいかないということです。

本日は、SAHの診断に関するこんな問題を提示してみたいと思います。 計算問題です。

症例   35歳男性  頭痛

(経過1)
最近、過労気味。深夜の帰宅も多い。健康診断では、血圧が高めだとここ数年言われ続けているが、放置している。 叔父が42歳で、SAHで突然死しているという家族歴もある。 本日、16時ごろ、会議中に、突然後頭部が殴られたように痛み、一瞬嘔気も伴った。 そのため、一端会議の席をはずれ、ソファーで横になっていたが、1時間もすれば軽快した。 そこで、会議に戻り、仕事を続けた。 夜の22時に帰宅。 昼間の出来事を妻に言うと、「あなた、それってクモ膜下じゃないの? 今すぐ病院行こう!」と言われ、妻に連れられ、深夜0時に、時間外の内科を受診した。 受診時、血圧160/96 脈78 体温 36.4 呼吸数18。意識 清明。 瞳孔径異常なし。瞳孔不動なし。対光反射異常なし。 

当直医は頭部CTを撮りました。 しかし、その画像に異常はありませんでした。そのため、担当医は、「SAHはないです。大丈夫です。」と患者とその妻を安心させ、患者を帰宅させました。

(経過2)
それから2日後の朝、患者はいつもの時間に起床してきませんでした。 妻が見に行くとすでに呼吸も心臓も停止していました。患者は救命センターに運ばれ、そこで死亡が確認されました。そして、AIにてSAHが確定しました。

医事紛争に発展するような、SAHの臨床経過の一例を示してみました。怖いでしょ、SAHって。

さて、ここからが、問題です。Clinical Practice of Emergency Medicine 4th ed. P591を改変して作成しました。

この患者のSAH発症の、頭部CT検査前確率pを 50%≦p≦80% と仮定します。 そして、SAHに対するCTの感度を93%、特異度を100% という前提とします。(ここでは、この前提は正しいものとしてください) 

読影に誤りはないものとみなして、考えることにします。 さらに、SAH再出血による死亡率を60%とします。

以上の設定のもとで、(経過1)の対応をとった患者が、(経過2)のように、SAHで死亡してしまう確率を計算すると、何%以上何%以下になるのでしょうか?

つまり、地雷を踏み抜く確率の計算の一例というわけです。
(7月8日 記)

(7月9日 追記)

rirufa様、moto様 コメントありがとうございました。 今回の計算プロセスの背景には、ベイズの定理があります。 このあたりの解説は、ここにまとめてあります。

で、その計算は、moto先生のご指摘どおりでございます。

(解答例)

p=0.5~0.8
↓(換算)
検査前オッズ=p/(1-p)=1~4

陰性尤度比=(1-感度)/特異度=0.07

検査後のオッズ  =(陰性尤度比)x(検査前オッズ)
            =0.07 X 1~0.07 X 4
            = 0.07~0.28
               ↓(逆算)
   検査後確率 =0.065~0.22

最後に再出血確率0.6をかけると、

求める死亡率の範囲は、0.039~0.13

            答え 3.9%~13%

このようになりました。 つまり、(経過1)のような対応で帰宅した患者のうち、きつく見積もって8人に1人は、SAHの再出血で死亡するということを意味します。少なく見積もって、25人に1人ということになります。 CTで異常を認めなくてもこれくらいの確率でSAH死亡が起こりえるということです。つまり、病歴が相応に怪しければ、その時点で、CT検査はSAHの完全除外ツールにはなり得ないということを知っておくことはとても重要だと考えます。

つまり、CT陰性であっても脳外科医と慎重な協議が必要と考えます。次の手としてルンバールとかMRIとか、脳外科医の意向にそった形で、診断を進めていくのが現実的だと思います。

まあ、最も、最初の仮定である検査前確率そのものがあいまいですから、そこから導き出されたこの数値もあいまいなものではあります。しかし、このように検査前確率に幅を持たせて考えれば、それなりに現実的な推量範囲にはなりえると思います。

今回の報道は、CT検査が万能であるという誤解を、一般の方に与えてしまいそうです。現実の臨床の現場において、CTはとても有用だけれども決して万能ではないということを私は強調しておきます。

まとめます。

本日の教訓

SAHの初期診断過程において、病歴がそれなり怪しい時(検査前確率が高いと考える時)、頭部CT検査陰性だけを根拠に、SAHを完全否定すると、SAH再出血死亡という地雷を踏んでしまうだろう


(さらに追記 7月9日)

Yosyan先生の「新小児科医のつぶやき」でも、同じ新聞記事をソースにエントリが立てられているのですが、そこでのロハスメディア・川口様のとても重要なコメントがあります。http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20080709#c1215602670 今回の報道に関する、脳神経外科学会のコメントです。

http://jns.umin.ac.jp/ より引用

「脳卒中における新知見に関する学会発表」
(社)日本脳神経外科学会は平成20年7月7日(月)厚生労働省において
「脳卒中における新知見に関する学会発表」と題して、くも膜下出血の診断の困難についての記者発表を行った。

記者発表資料はをご覧下さい。

なお、本学会発表について、
一部新聞報道内容に「初診6.7%見落とす」という、説明内容とは相違する誤解をまねく不適切な表現がありました。強く抗議を表明します。

(社)日本脳神経外科学会

メディア報道って、うのみにしちゃいかんよ という実例ですね。


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事故調医療ミス否定なのに賠償命令? [医療記事]

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今朝の読売新聞(大阪)朝刊に、こんな記事がありました。まだ、ネットでは記事を検索できませんでしたので、手書きで引用します。

ラジオ波治療死亡と因果関係
病院機構に賠償命令

大阪府立急性期・総合医療センター(大阪市住吉区)で「ラジオ波治療」を受けた60代男性患者が死亡した医療事故を巡り、男性の遺族4人が同センターを運営する地方独立行政法人「府立病院機構」と担当医らに約1億2000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、
大阪地裁は27日、医療ミスを認定したうえで、死亡との因果関係を認め、「ミスがなければ治療後4年間生存できた」と、同機構などに4300万円の賠償を命じた。判決では、肝臓がんだった男性は、2004年8月、AMラジオと同じ周波数の電磁波を出す針を患部に差込み、がん細胞を焼くラジオ波治療、腹膜炎を起こすなどして約3ヶ月後に死亡した。判決は「担当医が治療時、エコー画面の変化を見逃し、通電を続けた過失がある」と指摘した。
(読売新聞 2008年6月28日 朝刊 大阪)

これだけ、読めば、「医者がミスったんだろあなあ・・」という印象を読者の方々はお持ちになるでしょう。メディア情報を自分なりに解釈する際、書いてあることだけなく、「書いていないことは何か?」と思慮する習慣を持つことはとても重要であると思います。それが、メディアリテラシーの基本の1つだと思います。 何を書き、何を書かないかという情報の取捨選択が、新聞社の意図によって必ずなされているからです

ここでは、皆様が、この今朝の記事を評価するに当たり、ひとつの情報を提供しましょう。
読売は、その情報を持っているにも関わらず、今朝の記事には提示しなかったものです。その真の意図については、私は知る由もありませんが。

その情報とは、読売が過去に報道したこんな記事です。

大阪の医療センター・ラジオ波治療男性患者死亡 事故調、「偶発的」ミス否定
2005.06.02 大阪朝刊 31頁 (全498字) 
「偶発的」医療ミス否定 事故調査委が報告
府立急性期・総合医療センター(住吉区)で昨年、「ラジオ波治療」と呼ばれる針を用いた療法を受けた60歳代の男性患者が死亡した事故を受け、同センターの事故調査委員会(委員長=中室嘉郎(かろう)・同センター副院長)は1日、「患者の体の動きによる
偶発的要素が濃く、医療ミスではない」とする調査報告を発表した。報告では、昨年8月、主治医(43)と部下の医師(27)が同療法を実施。高熱の針を肝臓に差し込む際、患者が動いたため、誤って小腸に穴を開けた。その結果、「肝不全の進行が早まった」とし「より慎重な配慮を行うべきだった」と認めたが、死亡との因果関係については「府警が捜査中」として明言を避けた。治療は、AMラジオと同じ周波数の電波を出す針を患部に差し込み、60~70度の熱で周囲のがん細胞を焼く療法。患者は緊急手術後に一時回復したが、その後容体が悪化、昨年11月に亡くなった。報告について、主治医と医師を業務上過失致死容疑で刑事告訴した遺族は「事実に反する内容で、怒りと悲しみでいっぱい。病院は自己弁護ばかりせず、真実を明らかにすべき」とするコメントを発表した。  読売新聞社

調査報告書は、裁判には通用しないのでしょうか? 調査委員が身内だったから通用しなかったのでしょうか? 

この二つの報道記事を素直に結びつけて考えれば
調査報告書では、ミスは否定しているにもかかわらず、裁判官はミスを認定した
ということになります。

どうしてでしょうか? もっと私たちが知りえない何か?が隠れているのでしょうか? 

やはり、裁判官による遺族救済の主旨のためなのでしょうか?ならば、医療者側の気持ちはどうなるのでしょう?

私は、単純に不思議に思います。皆さんはどうお感じになりますか?

読売新聞は、この辺りの事情について、もっと取材し、報道する社会的責務があると私は思います。


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医療ミスはいけないことでしょうか? [医療記事]

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今日は、こんな問いかけをしてみたいと思います。

「医療ミスはいけないことでしょうか?」

と。

あえて医療ミスという言葉を使いました。このエントリーで意味する「医療ミス」という言葉は、「医療従事者の法的な過失の有無は問わない」 という意味合いでお考え下さい。つまり、医療事故のほうが本当は適切かもしれません。ですが、ここでは、あえて医療事故とはせずに、医療ミスとしました。以下の引用記事との兼ね合いを考えたためです。それにご留意のうえ記事をお読みください。お願いします。

なぜ、こんな問いかけをするかといいますと、今の医療が、あまりに単一の価値観に支配されてしまっているのではないかと私は個人的に危惧しているからであります。私の意味する単一の価値観とは、「生を絶対視すること」です。 この価値観からは、当然「医療ミスはいけない」という価値観が派生します。

確かに、「医療ミスはいけない」という単一の価値観があったからこそ、
今の医療は発展してきたのだと思います。リスクマネージメントの学問の分野も発展してきたのだと思います。それはそれですばらしいことだと思います。

そういう点は、この価値観の「明」の側面でしょう。

では、今の医療崩壊の現状においてはどうでしょう?
この単一の価値観のために、あまりに医療が窮屈になりすぎてはいないでしょうか?

例えば、事故調査委員会を国をあげて作ろうという話。「医療ミスはいけない」ことだから、国を挙げて組織を作ろうということですよね。理念はすばらしいかもしれませんが、実際は、いろんなところで利害関係が対立して、次々と対立構造が出現している気がしてなりません。そんな対立を続けていて、日本の医療はハッピーになるのでしょうか? 私はそんな疑問を感じています。

「医療ミスはいけない」ことだからと、時に医療者は、法で裁かれます。その中には、医療者が到底納得のいかない裁きもあります。そのような社会の価値観ゆえに、医療者側が今、悲鳴をあげ、そして医療システムが崩壊へむかっています・・・。このままで、日本の医療はハッピーになるのでしょうか? 私はそんな疑問も感じています。

また、「医療ミスはいけない」という単一の価値観は、ゼロリスクの無限地獄へと突き進み、あらゆる資源を枯渇させてしまわないかという危惧も私は感じています。

そういう点は、この価値観の「暗」の側面かもしれません。

では、この価値観を変えてみたらどうでしょうか?例えば、

「医療ミスはあってもいいんじゃないか」 

という価値観はどうでしょうか?皆さん、受け容れられますか?

では、もう少しソフトに、

「医療ミスかどうかこだわらなくてもいいじゃないか」

という価値観はどうでしょう?これならば皆さん、受け容れられますか?

今、私は、救急医療の現場のど真ん中にいて、何か医療に対してとても窮屈な感じを受けています。 もっと医療の中に、いろんな価値観が浸透してほしいものだと思います。

今回、こんなことを考えるきっかけとなった記事はこれです。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/news/20080603-OYT8T00043.htm
医療ミスで85歳女性死亡

富山市民病院
 富山市民病院(泉良平院長)は2日、昨年5月に入院中だった市内の女性(当時85歳)が、呼吸を確保するための医療器具「気管カニューレ」
交換時のミスで死亡したと発表した。会見した泉院長は、「市民の命と健康を守るべき当院で、あってはならない事故を起こした」と謝罪した。県警などには届け出ているといい、県警は業務上過失致死などの疑いで捜査している。女性の遺族とは今年5月下旬に示談が成立した。

 発表によると、女性は昨年4月下旬に意識障害のため救急搬送され、脳内の血腫(けっしゅ)を取り除く手術後も意識不明の状態が続いていた。入院6日目に、呼吸を確保するために、気管を切開しカニューレの使用を始めた。

 切開した個所を清潔にしておくため、カニューレは1週間に1回程度交換。入院30日目の5月下旬、担当の20歳代男性医師が女性看護師2人とともに内径8ミリのカニューレを交換したが、この30分後、女性が心肺停止状態になっているのを発見。女性は約2時間後に死亡した。

 事故原因究明のため設置された「医療事故調査委員会」委員長の山城清二・富山大学付属病院総合診療部教授によると、女性の死因は窒息死。県警の司法解剖の結果「気管の背中側の壁に穴があった」といい、「カニューレを誤って挿入し、気管を突き破ったのではないか」と話した。

 「カニューレ交換は特別に難しい処置ではないが、きちんと挿入されているか確認すべきだった。リスクの認識が足りなかった」と注意を促した。同病院は、調査委員会の提言を受け、マニュアル整備や処置実習などの再発防止策をとった。

(2008年6月3日 読売新聞)

「医療ミスはあってはならないもの」という価値観が根にあるからこそ、こういう報道が世に出てくるのでしょうね。 「市民の命と健康を守るべき当院で、あってはならない事故」という発言の裏にある価値観はまさに、「医療ミスはあってはならないもの」なのでしょう。

私は、老子・荘子を学んでいくうちに、「一つの価値観にこだわり囚われて生きることは、人生の幅を狭めることになるんだなあ。」とはっきりと感じるようになりました。そんな目で今の医療を眺めてみると、医療の中にも価値観の多様性がもっとありさえすれば、救われる道が開けてくるのではないかとも思います。残念なことに、今の医療は、生の絶対視という一面的な価値観に余りにも支配されすぎてはいないかというのが、私個人の考えです。

今回引用した記事に関して言えば、きっと患者は人生をかんばって生きてたと思うし、医療者もとてもがんばってきたと思います。だからこそ、遺族は示談に応じたのだろうと私は思います。ただ、記事以上の根拠はないので、より正確には、私は、そう思いたいと言ったほうがいいのかもしれません。 とにかく、なぜ、こんな形でわざわざ報道するのだろう?と私は疑問に思いました。報道のメリットは何なのだろうと思いました。

もし、この事例を、「仕方がないこと」として報道したら、いったい世の中どんな反応があるのでしょうね?

「医療ミスかどうかこだわらなくてもいいじゃないか

こんな価値観がもっと社会に認められれば、医療崩壊のあり方も変わるかもしれません。

私は、今の医療事情を見据えながら、医療とどういう関わり方をしたら良いのか、じっくりと考えていきたいと思う毎日です。


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産経の報道に物申す [医療記事]

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???

産経さんが、またやってくれました。 匿名の記事です。

救急現場に携わるものの一人として、この記事はとても不愉快です。現場で頑張る多くの医療者の気持ちを害するものだと考えます。後から、こんな風に、えらそうにいわれる筋合いはないと思います。

【主張】救急現場事故 正確な情報伝達忘れるな

救急医療の現場にはさまざまな急患(急病の患者)が運ばれてくる。急患の嘔吐(おうと)から有毒ガスが発生するような想定外の事態も起きる。救急病院はそれにも対応し、患者の命を救わねばならないから大変である。

 熊本赤十字病院(熊本市)の救命救急センターで農薬を飲んで自殺を図った男性を治療中、男性の嘔吐物に含まれた農薬が気化し、塩素系の有毒ガスが発生した。このガスを吸った救急外来の患者や医師、病院の職員ら計54人が体調を崩し、うち高齢の女性患者が重症となった。男性は死亡した。

 こうしたケースに備えるためにも病院は非常事態に対応できるマニュアルをきちんと作り、それを柔軟に活用していくことが肝要である。救急医も毒物などに対する幅広い専門知識を身につける努力を怠ってはならない。

 男性が飲んだ農薬は、液体の「クロロピクリン」と呼ばれる農薬だった。刺激臭があり、揮発性が高い。殺虫剤として使ったり、農地の土を消毒したりする。大量に吸い込むと、呼吸困難に陥る。劇物に指定され、使用時は防毒マスクが必要だ。

 熊本赤十字病院によると、地元の農家ではクロロピクリンを「ピクリン」と呼んでいる。男性を搬送した救急隊もこの略称で病院に連絡した。ところが、病院が専門書やインターネットを使って調べても、ピクリンという断片的な情報ではクロロピクリンという農薬に結び付かなかった。


 最終的にクロロピクリンと特定できたのは、それが入っていたビンが病院に届いてからだ。有毒ガスの発生から1時間半も経過していた。病院側は「クロロピクリンを飲んだ自殺は非常に珍しく、把握が難しかった」としながらも「毒物が特定できていればあらかじめ患者を避難させるなどそれなりの対応ができた」という。

 救急医療はその仕事のきつさから産婦人科や小児科、外科と並んで医師不足が問題になっている。しかし、そんな過酷な状況にあっても事故の原因を究明し、再発防止に結び付ける姿勢は忘れてはならない。

 今回の医療現場の事故では自殺を図った男性の情報が救急隊から病院に十分伝わっていなかった。これが有毒ガス発生による事故が起きた原因のひとつだろう。救急隊も病院も正確な情報伝達の重要性を改めて自覚したい。

この記事を書いた記者の意図ではなくて、私の意図を元に書き換えてみると以下のようになります。どうぞ、読み比べをしてください。

【主張】救急現場事故 リスク報道も忘れるな

救急医療の現場にはさまざまな急患(急病の患者)が運ばれてくる。急患の嘔吐(おうと)から有毒ガスが発生するような想定外の事態も起きるのである。救急病院はそのような想定外のことも起きうるリスクのある所ではあるが、それでも、患者の命を救うべく、日々努力を重ねている

 熊本赤十字病院(熊本市)の救命救急センターで農薬を飲んで自殺を図った男性を治療中、男性の嘔吐物に含まれた農薬が気化し、塩素系の有毒ガスが発生した。このガスを吸った救急外来の患者や医師、病院の職員ら計54人が体調を崩し、うち高齢の女性患者が重症となった。男性は死亡した。

 こうしたケースに備えるためにも病院は非常事態に対応できるマニュアルをきちんと作り、それを柔軟に活用していくことが肝要であるという主張もあるかもれないが、物事には何事も限界というものがある。もちろん、救急医は日々十分な努力をしているが、それでも防ぎ得ないリスクというものが世の中には存在する。そんなリスクがあってもそこで働き続ける医療者に、我々は感謝の気持ちを忘れてはならない。

 男性が飲んだ農薬は、ある液体の農薬だった。刺激臭があり、揮発性が高い。殺虫剤として使ったり、農地の土を消毒したりする。大量に吸い込むと、呼吸困難に陥る。劇物に指定され、使用時は防毒マスクが必要だ。

 熊本赤十字病院によると、地元の農家ではこの農薬を「XXリン」と呼んでいる。男性を搬送した救急隊もこの略称で病院に連絡した。ところが、病院が専門書やインターネットを使って調べても、XXリンという断片的な情報ではこの農薬に結び付かなかった。(類似事件予防のために個別名称の報道を避けました)

 最終的にこの農薬を特定できたのは、有毒ガスの発生からわずか1時間半のことであった。かつての、松本サリン事件と比べると格段の速さだ。それでも、会見では、「この農薬を飲んだ自殺は非常に珍しく、把握が難しかった。毒物が特定できていればあらかじめ患者を避難させるなどそれなりの対応ができた」と救急医療に対して更なる努力の姿勢が病院側には感じられた

 救急医療は、多くの心無い医療報道の記事等もあって、産婦人科や小児科、外科と並んで医師不足が問題になっている。そんな過酷な状況にあるからこそ、事故の原因を究明し、再発防止に結び付けるという姿勢だけでなく、世の中全体がリスクに対して寛容でなければならないという姿勢も忘れてはならない。要は、そのバランス感覚が重要なのだ。誰に言われなくとも、現場は努力しているのだから、その努力が、社会の中での信頼に変わるような報道をすべきであることは言うまでもない。

 今回の医療現場の事故では自殺を図った男性の情報が救急隊から病院に十分伝わっていなかった。これが有毒ガス発生による事故が起きた原因のひとつかもしれない。だが、救急隊も病院も、正確な情報伝達の重要性には、誰に言われなくても日々実感している。今回の事故は、それでも起きたといえよう。救急医療というのは、そういう予期せぬリスクと遭遇する場であるということを、多くの人がこの事例を通して知るべきである。

メディア報道は、自殺報道などに対する自主規制はないのでしょうか?ないのでしょうね、きっと。その時点で、そういうメディアのあり方は、社会的視点において、有害な存在でしかないと私は思います。そういう思いを込めて、私はこの農薬の個別名称は伏せる形で書いてみました。

いかがでしょうか? 物を書くということは、その書き手の意思が必ず先にあるわけです

先行する意図によって、事実関係は同じでも、文章全体の印象は、いかようにも変更できます。元記事と私の書いたものを比べていただけば、それをご理解いただけると思います。

さらに、同じことを別の文章を例に挙げて提示してみようと思います。

論より詭弁という本があります。この本の中から、ある一説を紹介します。

家庭裁判所の厄介になった少年について、調査官は次のような所見を記した。

「頑固で柔軟性に欠け、融通がきかない。自分の思い通りにしていたいとの気持ちが強く、他人から干渉されることを嫌う。目下のものに対しては、ボス的で強圧的な態度に出るが、目下の者に対しては卑屈に振舞う。」

私(本の著者)が、少年を弁護したいという意図から、この所見を次のように書き換えたらどうだろう。

「意志が強く、一途な性格で、曲がったことが嫌い。自立心旺盛で、自分のポリシーをもっており、周囲の意見に流されない。年下の者に対しては、親分肌なところを見せるが、年長者に対しては礼儀を守り、謙虚である。」

私が、こちらこそが少年の真の性格だと主張するとき、私は詭弁を弄していると見なされるのか。私は少年の性格について何か明らかな嘘を書いたのか。

いかがでしょうか?全然違うでしょう?

二つの対照記事をご覧になっていただき、後は各人がご自身で考えていただければ幸いです。とくに、みなさまご自身で考えていただきたいと私が思うことは、「世の中のリスクって何?」ということです。そこに画一的な答えは出ないとは思いますが、日ごろから、各人が、リスクとどうつきあうかということを考えておくことは重要だと思います。(関連エントリー:リスクを認め付き合うこと)


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胎盤早期剥離の事例に思うこと [医療記事]

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???

5月3日13時40分を持ちまして、このエントリーに関するコメント受付を中止する措置をとらせていただきました。今回の事例に関してあまりに具体的な情報と思われるコメントが関係者と名乗る方から投稿されたためです。大淀病院の先行事例がございますため、自分のブログ管理方針としてコメント受付中止とさせていただいた次第です。私は、自分のブログ上で、あまりに具体的なことをやりとりをしたくないのです。ご理解の程お願いします。(5月3日 13:40記)

本日、こんな報道がなされました。

http://www.shizushin.com/news/social/shizuoka/20080502000000000064.htm    魚拓

大量出血の妊婦死亡、胎児も助からず 静岡の病院
05/02 14:52
静岡厚生病院(静岡市葵区北番町、玉内登志雄院長)は2日、陣痛を訴えて来院した静岡市内の妊婦(24)が大量に出血し、死亡する医療事故があったと発表した。胎児も助からなかった。病院と遺族はそれぞれ、静岡中央署に届け出た。同署は司法解剖するなどして過失の有無について任意捜査を始めた。同病院によると、妊婦は分娩(ぶんべん)予定日を3日すぎた4月27日午前0時ごろ、陣痛が始まったと同病院に電話連絡。対応した看護師、助産師は問題がないと判断し、自宅待機を伝えた。妊婦は約6時間後に再度電話で訴えて来院し、同日午前8時すぎに医師が診察したところ、既に胎児の心拍は無かった。母体は、胎児がまだ子宮内にいるのに胎盤がはがれてしまう症状「胎盤早期剥離(はくり)」が確認された。緊急帝王切開を行い、子宮内から死亡した胎児を取り出した。母体は3リットルを超える大量の出血があり、輸血を含む5リットル以上の輸液で対処したが、けいれんや意識レベルの低下が起こり、妊婦は同日午後1時40分ごろ死亡した。妊婦は昨年9月に同病院を初めて受診し、死亡2日前の4月25日の診察では母子ともに異常はなかったという。玉内院長は「母子ともに亡くなった結果について遺族におわび申し上げます」と述べた上で、「現段階では医療過誤との認識はない」と話した。病院の届け出を受けた静岡中央署は病院関係者から任意で事情を聴き、カルテなどの提出を受けた。胎盤早期剥離 通常、胎児が生まれた後で胎盤が子宮壁からはがれるが、胎児がまだ子宮内にいるにもかかわらず胎盤がはがれてしまう状態。胎児への酸素供給が止まってしまうため、緊急に帝王切開して胎児を取り出す必要がある。重症だと母体は大量出血に見舞われ、生命の危険に及ぶ。妊娠中毒症患者らに発症の可能性が高いと指摘されているが、正常な経過をたどっていた妊婦が突然発症するケースもあり、予測は難しいという。

わが子を自分の胸に抱くことなく旅立たれた妊婦の方と名前を授かる間もなく旅立ったお子様に心からご冥福をお祈りします。それと、ご家族のご心痛はいかばかりかとお察し申し上げます。 しかし、常位胎盤早期剥離・・・本当に恐ろしい病気ですね。 私の経験では、その怖さを、自分の実体験をもってお伝えすることができませんので、ブログからの引用とさせていただきます。 

ある産婦人科医のひとりごと: 常位胎盤早期剥離について  これは2006年1月24日のエントリーです。 そこから一部抜粋します。

常位胎盤早期剥離は母児の命にかかわる非常にこわい病気ですが、いつ誰におこるのかは全く予想ができません

いかに医学が進歩したとはいえ、この病気の発症を予測することは未だに不可能です。常位胎盤早期剥離は全妊娠の0.44~1.33%程度に発症すると言われてます

常位胎盤早期剥離の母体死亡率は4~10%児死亡率は30~50%といわれています。

このような医学的な背景をもって、新聞記事を普通に読むと、病死なんだろうなあと私は思います。

さて、こういうまれな死亡事例に遭遇したとき、社会の向かうべき方向はいったいどこなんでしょうか?

1)「悪人はどこかにいないかっ?」 「いないかっ?」 「探せっ?」 という発想で、加害者を探しに行くいくことでしょうか?
上記記事においては、 司法解剖するなどして過失の有無について任意捜査を始めた の一文がそれに該当します。これは、今の社会の法体系そのものだと思います。 私は、おかしな社会だなあと個人的に思っています。全力で行う医療行為に対しても、こういう色眼鏡で社会から見られてしまうことが、多くの医療者の心を折っているのだと思います。この報道事例は、今後どのように進展していくのでしょうか? まだわかりません。今はただ、見守るのみです。

2)再発予防を最優先に、人・もの・金・時間を徹底的に費やすことでしょうか?
これをイエスと思う人は、大自然からみれば、ごくちっぽけな存在に過ぎない人間が、人の生死という自然現象をコントロールできるという幻想に犯されてはいないでしょうか?だから、私は、この2)もおかしいなあと個人的には思っています。 一見、最も正論にみえると思いますが、社会全体がこのことに対する気づきがなければ、どんどん泥沼にはまるばかりです。イメージとしては、Xをリスク値、Yをリスク回避に要する総資源量とすると、その関係はY=1/Xのようなものになるという感じです。 このグラフでは、X→0のとき、Yはどうなるでしょうか? わたしが言いたいのはそういうことです。 言い換えると、社会として、どこかでリスクを容認するという姿勢が必要というわけです。 そして、死に関して、リスク容認の心を持ちえるためには、そのような死生観を個人個人が持ちえることが重要だと考えています。

3)この死亡事例にかかわりのあるご家族や医療関係者へのグリーフワークが必要ではないでしょうか?
私は、これこそが最も必要だと思います。少なくとも私の知る限りでは、確立された社会システムとしてグリーフワークが現在行われているとは思えません。(ボランティア活動等はあるかもしれません。私が知らないだけだと思います。)もっと社会に普及されるべきだと考えます。そのためにも、メディアが、その必要性を広く報道すべきだと私は思っています。

産婦人科医療崩壊を少しでも回避に近づけるためには、産科リスクをどこかのラインで社会が容認することがきわめて重要だと私は思います。

とても残念な続報です。 ゼロリスク社会を背景とした重大な社会問題だと私は考えます。 つまり、死が受け入れらないという重大な社会問題です。


以下、5月3日 追記です。続報がでました。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/news/20080502-OYT8T00771.htm


病院 「急変予測できず」
妊婦・胎児死亡 
遺族は提訴検討

模型を使いながら事故について説明する玉内院長(中央)ら(静岡厚生病院で) 静岡厚生病院(静岡市葵区北番町、265床)は2日、同病院で4月27日に手術を受けた静岡市駿河区の妊婦(24)と10か月の胎児が死亡する医療事故があったと発表した。玉内登志雄院長は「典型症状ではなく、急激な悪化を予測できなかった」と述べ、想定外の事態だったことを強調したが、遺族は病院の対応に不信感を募らせている。同病院によると、妊婦は初めての妊娠で、昨年9月から同病院に通院。妊婦は、死亡する約14時間前の27日未明、陣痛が出たため同病院に電話したが、応対した看護師や助産師が「痛みは強くない」と判断、いったん自宅待機となった。同日早朝、再び陣痛が強くなり入院。胎児の心音が確認できず、呼び出された産婦人科医が、分娩前に胎盤が子宮内ではがれる「胎盤早期剥離(はくり)」と診断、帝王切開したが、胎児は死亡していた。手術後、妊婦も血圧が急激に低下し、大量出血を起こして死亡した。胎盤早期剥離は妊婦の1%程度にみられ、胎児に酸素が供給されないため、胎児死亡率は30~50%と極めて高い。妊婦も出血を起こすことが多いが、死亡率は一般に10%未満で、妊婦、胎児とも死亡するのは「妊娠5000~1万例中に1例」(玉内院長)とまれだという。玉内院長は「胎盤早期剥離は予防できず、早期発見するしかない」と言うが、「死亡2日前の診察では異常は見られなかった」ともしている。
妊婦の父親(55)は読売新聞の取材に、「事故当日、病院は『出血はさほどなく、(死亡の)理由はわからない』と言っていたのに。今の時代に、母子ともに死亡するなんて信じられない。提訴も検討したい」と話した。

(2008年5月3日 読売新聞)

ご遺族の医療者への感謝の念を伝える続報を、期待していた私だけに、とても失望感が大きいです。

提訴を匂わせる報道がなされました。本当に残念という一言に尽きます。 ただ、ご遺族のお気持ちを否定する気は、私にはありません。これが日本社会の一面であり現実なのでしょうから。

(ただし、記者が、「訴訟はどうしますか!」等の意図的な質問をし、ご遺族側の言質を無理やり引き出した可能性も私達は考えておく必要があります。 記事というものは、メディアが加工した一つの料理にすぎません。そこには、記者の意図や誘導が入ります。だからこそ、読者自身が、記事からいろんな可能性を自分で考える必要もあるといことです。)


今の時代に、母子ともに死亡するなんて信じられない

このご遺族のご発言が、まさにゼロリスク社会ならではの感覚からのご発言といえるでしょう。
(メディア側が、ご遺族の発言の一部のみを切り取ってこういうニュアンスをあえて出している可能性もあり、これがご遺族の本意のご発言ではない可能性があることも併せて併記しておきます。)

産科医療に携わる方々が、一生懸命になって、産科医療のリスクをものすごく下げ続けてきたことによって、逆に、こんな感情が発生してしまう。実に皮肉なことではないですか

メディアは、医療の悪い結果の場合は、社会全体の影響を十分に思慮することなく、個人の感情を、マスコミ情報として、いっせいに日本全国にばら撒いてしまう。
一方、メディアは、医療の良い結果の場合は、積極的に報道する姿勢が欠落しています。

そのメディアのあり方は、医療者の心に、確実の「負」の印象をもたらし続けています。そして、それは、社会の中での医療資源のパワー不足につながります。今現在、もう表在化しています。 そして、このような事例とその報道のあり方一つ一つが、確実に悪化の道へと突き進んでいます。そういう意味ではこの事例も程よい効果のある崩壊促進事例といえると思います。

メディア報道と社会のリスク感覚とは、リンクしていると私は思います。

最近の硫化水素自殺の事例をみれば、明らかなように、メディア報道と社会風潮がリンクしているのは明らかでしょう。

社会資源としての医療を守るには、

1)個人個人の感情を慰撫する社会システムの確立
2)社会システムとしての提訴抑制の確立
3)社会的見地から見た場合の有害報道の抑制システムの確立
4)生と死は対立ではなく共存という心のあり様を社会的に普及させるシステムの確立

こんな視点必要ではないしょうか。あくまで、私見にすぎませんが・・・・・・・


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厚労省の嘘? [医療記事]

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???

今の日本は、安全最優先の世の中です。医療にしても同じことです。だから、医療事故も決してあってはならないというゼロリスクが世間から希求されているように思います。そういう世論を通して、厚生労働省が、医療安全調査委員会を立ち上げようと、その第3次試案まで作成し公開しているわけです。

ところが、現場に立つ医療関係者、一部の患者代表と自認する人々、官僚側および国会議員の先生方・・・それぞれの立場で、様々な意見の対立があるのが現状です。

私達医療者は、まじめに真摯に医療に取り組んでも、今の社会システムの中であれば、犯罪者として世間から断罪されるであろうということを肌に危険として感じています。そして、厚労省は、口では、都合のいいことを言っているようですが、私たち現場の医師たちは、それを全く信用できないものと評価しています。

そんな厚労省を信用できないと思える出来事が、また本日明らかになりました。 多くのブログで同時に取り上げられるでしょうが、私のブログでも取り上げておきます。

先ずは、日経メディカルが報じた記事の一部を引用します。 赤太字に注目しておいてください。

シリーズ●どうなる?医療事故調《5》 (会員のみ閲覧可)
事故調第三次試案、ここが変わった!
医療機関への行政処分や黙秘権など進展、過失の法的判断については変わらず
野村 和博=日経ヘルスケア

つまり、裁判所が委員会の報告書を参考に判断する場合、どれだけの損害賠償が認められるか、あるいはどの程度の刑事責任が認められるかは、司法に委ねられるという点で変化がない。司法の独立性という観点からは当然の措置だが、弁護士の井上清成氏が、以前本サイトの記事で指摘したような、「(第二次試案には)民事の医療過誤損害賠償の訴訟レベルについては、まったく触れるところがない。ADRをいくら活発化させても、根幹に当たる法的医療水準(注・医療過誤の判断基準のこと。医療自体の水準のことではない。)を修正しない限りは、限界がある」という指摘は第三次試案にも当てはまりそうだ。

 ただし、
厚労省によると、法務局や検察庁などからは、この案の公表について了解する旨の覚え書きを得ているといい、同省としては「刑事訴追については『謙抑的』な対応をすることで了解を得ているものと考えている」という。そして、捜査機関や裁判所などが適切な判断を下すためにも、医療専門家などで構成する調査委員会が、事故を適切に評価するという点において、透明性・中立性を確保することが求められるとしている。

つまり、文書をもらったと厚労省は記者に伝えているということですね。

さて、本日、自民党の橋本岳議員が、刑事局長と警視局長から次のような言質を引き出しております。文字おこしは、産科医療のこれからのブログ管理人である僻地産科医先生のご尽力でなされましたものです。いつも、いろんな情報をありがとうございます。m(_ _)m

4/22 衆院決算行政監視委員会 第四分科会質疑   橋本岳議員

動画 ←こちらかどうぞ

○橋本議員
 なるほど、いまそれぞれに必要な協力を行っていただけると御答弁があったわけですけれども、いろんな議論があるといわれた中に、そもそもこの第三次試案の紙というのは厚生労働省という名前で出されています。
 それによって担当の法務省・警察庁とすり合わせをしているのか、厚労省が例えこういう案をたとえ作ったとしても、ま、今協力をするというお話はあったわけですけれど、具体的現実の場、個々のケースにおいては、もしかしたら警察もしくは司法の方はそれを踏み倒すというか、無視するのではないかといった懸念まで言われている現実がございます。

 というわけで、あらためてどの程度まできちんと厚労省さんと両省それぞれすり合わせをされているのか、お伺いをさせていただきたい。
 
同時にそのすり合わせの中で、もし合意するような文書なりなんなりがあるのかないのかまず教えてください

○大野警視局長
 厚労省が公表した第三次試案の作成に当たりましては、本省も協議を受けております。具体的に申し上げますと、第三次試案作成の前提といたしまして厚労省が主催した「診療行為に関わる死因究明等のあり方に関する検討会」に担当の課長がオブザーバーとして参加しておりまして、必要なご説明などを行うなど協力いたしております。
 また第三次試案の内容につきましても、厚労省と法務省の担当者間で協議を行っております。

 ただいま文書というようなご指摘がありましたけれど、そのような
文書を交わしたという事実はございません

○米田刑事局長
 警察庁の場合もまったく同じでございまして、「診療行為に関わる死因究明等のあり方に関する検討会」に担当課長がオブザーバーとして参加するなど、協議を進めてまいりました。

 特段、
警察庁と厚労省との間で交わした文書はございません
(7:47)

○橋本議員
 えーさて、困ったなと思っているところですが、ここで厚労省さんがどのようなお話をされたのか、有力なものがあるわけではないのですから、確認は仕様がないけれども、え~まぁ、なんと申しましょうかね。医療の安全だの信頼だのを議論している中において、そういった食い違いが起こることはけして望ましいことではないと思います。機会があればこれについてはもうちょっと調べてみたいと思っておりますが、残念だなぁと思っております。

ということで、厚労省が記者にしたであろうと説明と、本日の答弁との間にくいちがいがあることは明らかです。 これに関する事実関係がどうであれ、食い違いという事実があるという状況の中で、私達医療者が、どうして厚労省を信用することができるでしょうか? 

このまま現場の医師の気持ちを無視して、政策が突き進むことがあれば、医療の現状は、よくなるどころか、ますます悪くなるであろうということは、私は予告しておきたいと思います。

医療がいくら頑張っても、それでも人は病気になるし、事故にも会うし、そして人は死にます。その寿命の長さは千差万別で、だれにもどうすることもできません。それが運命というものです。私は、こんなことを感じていますので、これから医療がさらに悪くなる世になっても、それはそれで仕方がないと考えてはいます。そうなったらなったで、私はそれを静かに受け容れるつもりです。

だから、これからの世がどう転んでもあわてなくてすむように、今をよりよく生き、死ぬときが来たらさからわずにそれを静かに受け容れるという気持ちを今のうちから考えておくことを多くの人にお薦めしておきます。もちろん、自分も含めてです。

それでも、今の医療体制が維持できたほうがまだましですよねえ・・・・。だから、崩壊のペースが少しでも遅くなることを、私は望んでいます。それに、私は今の医療という仕事に知的労働的なおもしろさを感じていて、できることなら、それを続けたいという気持ちもありますから。

それでも、私は、世の動きを見計らって、時と場合を鑑みて、いつでもそこから撤退する心積もりも持っています。 

さて、少し話題を変えます。昔の記事を掘り出してきました。いかがでしょう。

医師ら不起訴不当 産婦失血死で福岡検察審査会 【西部】
1992.07.10 西部朝刊 27頁 1社 (全975字) 

 福岡市中央区の国立福岡中央病院で一昨年7月、同市西区の主婦Yさん(当時33)が出産直後に失血死した問題で、福岡検察審査会は9日、福岡地検が同病院産婦人科の主治医(29)と医長(42)を不起訴(業務上過失致死容疑で嫌疑不十分)にした処分に対し、医師らの過失を指摘、「不起訴不当」と議決した。同地検は再捜査し、改めて処分を決めることになった。
 議決書によると、Yさんは一昨年7月6日午後4時50分すぎ、同病院で女児を出産した後、大量出血。主治医と医長から子宮の裂傷の縫合手術を受けたが、同10時35分に死亡した。一方、医長は手術後の午後6時半ごろ、当直医だった主治医も同9時ごろ、製薬会社関係者との会食のために外出した。
 福岡検察審査会は議決理由の中で「医師としては患者に付き添い、容体の急変に対処可能な状態を保つことが当然」と指摘。「経過観察が十分であったとはいえず、これを容認することは社会的影響も大きい
この過失を認めずに不起訴にした検察官の処分は不当と言わざるを得ない」とした。
 夫の会社員Yさん(38)が福岡中央署に
刑事告訴。同署は一昨年12月、主治医と医長、上司の産婦人科部長の3人を書類送検したが、福岡地検は今年3月、不起訴処分にした。茂雄さんは不服として4月、主治医と医長について審査を申し立てた。
 Yさん側は審査申し立ての中で、主治医らの過失として(1)陣痛促進剤の過剰投与で子宮破裂を招いた(2)縫合手術の際、傷に縫い残しがあった(3)経過観察が不十分だった--の3点を主張。同検察審査会は、経過観察以外の問題については「検官の裁定を覆すに足る理由を見いだすことができなかった」とした。
 YさんやYさんの両親らは同病院の設置者の国と主治医、医長を相手取り、総額約1億5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こしている。
 検察審査会が再捜査を求めた後、検察側が改めて起訴する例は少ない。しかし、最近では、交通事故の加害者を福岡区検が不起訴(起訴猶予)にした処分をめぐり、福岡検察審査会が今年1月、「不起訴不当」と議決、これを受けて再捜査した福岡地検が6月、業務上過失傷害の罪で加害者を略式起訴した例がある。
 ○福岡地検の岡靖彦次席検事の話 不起訴不当の議決が出た以上、再捜査しなけらばならず、とくにコメントすることはない。 朝日新聞社

当直中に場を抜け出したのが事実なら、それはちょっと・・・と言えないことはないのですが・・・・。

家族を失った遺族の気持ちは、ほんの一歩間違えるだけで、どこかに憎しみの矛先をむけます。医療者は、その職業柄、その矛先となりやすいといえます。いったん憎しみをもってしまうと、自分の信じること以外はすべて信用できなくなるでしょう。だから、仮に医療安全調査委員会が立ち上がって、専門家で結論を出したとしても、信用できないの一言で終わってしまう可能正大です。 上記の記事はそういう可能性を示唆する十分な報道記事ではないでしょうか?

国が、医療を社会資源として守りたいなら、遺族の医療者に対する懲罰感情から、法的な枠組みで医療者を保護しておく必要があると私は考えます。故意による悪質性の高いものを例外的に対処するという枠組みはもちろん必要と考えます。

一言言います。どこの業界でも、だめだめ君、問題児君はいます。 だから、医療業界にはそういう人がゼロだとは言いません。だけど、他の業界と有意差をもって医療業界だけに多いとは言えないと思います。

そういうことから、免責によって、問題児君による医療被害が増えることになるので、刑事免責なんてとんでもないという論理は、ちとおかしいのではないかと私は思います。むしろ、絶対大多数の真面目な医療者が、安心して医療に打ち込める法的体制を作ったほうが、よほどましだと考えます。

今の現状は、ごく普通の多くの医療者の心が、今の社会風潮によって折られているのですよ・・・・。

だから、ごく少数の問題児君を業界からあぶりだすことに力を注ぐより、多くの普通の医療者を守るシステムにするために力を注ぐほうが、社会の中で医療提供力の維持につながるのではないかと私は思っています。

それでも、社会は、多数決で決まるので、我々小数の医療者の主張が世に通らなければ、私は、そういう世を静かに受け容れようは思います。 

なお、来年からは、審査会の2回の不起訴不当決議は、検察の裁量とは関係なく、下記引用赤字太字のように、法的に必ず起訴されるようです。

そうなると、家族の憎しみが、一旦医療者に向いてしまうと、その憎しみからくる懲罰感情が法的に刑事裁判まで通ってしまうわけです。第二、第三の大野事件が出てくるのは想定の範囲ということになってしまいそうです。

だから、いくら厚労省が、検察は謙抑的にすると言っても、なんら私たちの安心材料とはなりえないことは明白です。

医師が、医師として生き続けていくには、厳しい世の中になっていくのでしょうか?
これからどうなっていくのでしょう?

検察審査会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/08/03 21:55 UTC 版)


検察審査会(けんさつしんさかい)とは、日本において、選挙権を有する国民の中から無作為に選ばれた11人の検察審査員が、検察官の公訴を提起しない処分の当否の審査に関する事項や、検察事務の改善に関する建議・勧告に関する事項を扱う機関である。検察審査会法に基づき設置される。

概要
日本においては、事件について裁判所へ公訴を提起(起訴)する権限は、検察官が独占している。したがって、告訴を行った事件など、犯罪被害者が特定の事件について裁判を行って欲しいと希望しても、検察官の判断により公訴が提起されずに、不起訴・起訴猶予処分等になることがある。

このような場合に、その事件を不起訴にするという検察官の判断を不服とする者の求めに応じ、判断の妥当性を審査するのが検察審査会の役割である。検察審査会は、このような求め(不服申立手続き)に応じて審査を行い、「不起訴相当」、「不起訴不当」、「起訴相当」のいずれかの議決を行い、検察に通知する。

そのうち、不起訴不当と起訴相当の議決が成されたものについては、検察は再度捜査を行い起訴するかどうか検討しなければならない。しかし、検察審査会が行った議決に拘束力はなく、審査された事件を起訴するかの判断は最終的には検察官に委ねられるため、不起訴不当や起訴相当と議決された事件であっても結局は起訴されない場合も少なくない。

ただし、司法制度改革の一環として検察審査会法を改正するための法律(平成16年法律第84号)が2004年5月28日に公布され、
今後は「同一の事件について起訴相当と2回議決された場合には必ず起訴される」こととなり、法的拘束力を持つことになった(2009年5月27日までに施行するよう定められているが、裁判員制度開始に合わせることが予定されており、期日は未定)。

なお、司法に一般国民の常識を反映させるという目的により、検察審査員は選挙権を有する国民の中から無作為に選ばれる。これには法律で定められた場合を除いて職業や年齢による区別はなく、2009年5月までに開始される裁判員制度と同様に原則として辞退することができない。

検察審査員は11名で構成され、任期は6か月、そのうち半数が3か月ごとに改選される。審査された事件から得られた情報を他に漏らすことは終生禁止され、違反した場合は罰則が適用される。検察審査会は全国に200か所あり、地方裁判所と地方裁判所支部がある場所に設置されている

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学校検診危うし!二つの報道記事 [医療記事]

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本日、こんな記事がでました。学校医が訴えられました。

脊柱検診怠り病状悪化、大阪・能勢町と学校医提訴へ  (魚拓)

 小中学校の学校医が検診を怠ったため、背骨が横にねじれて曲がる「脊柱(せきちゅう)側湾症」に気付かず、症状が悪化したとして、大阪府能勢町の高校1年の女子生徒(16)が同町と在校時の学校医に計約5000万円の損害賠償を求める訴訟を近く大阪地裁に起こす。学校保健法は脊柱検診を義務付けているが、見落とされることが多いといい、生徒側は「学校検診のあり方も問いたい」としている。

 訴状などによると、生徒は町立小、中学校に通学し年1回、学校医の検診を受けていた。中学3年だった2006年6月、風邪で受診した病院で、「背骨が曲がっている」と指摘され、別の病院で「特発性脊柱側湾症」と診断された。

 生徒側が中学校に確認したところ、学校医は校長に「思春期の女子に裸の背中を出させることはできず、脊柱検診はしていない」と回答したという。

 生徒側は「
学校医が診断できなければ、町は別の対策を取るべきだ」と主張。学校医は読売新聞の取材に対し「弁護士に任せており、答えられない」とし、同町は「検診したが、発見できなかったと理解している」としている。

 日本側(そく)彎(わん)症学会元会長の鈴木信正医師は「側湾症の専門は整形外科医だが、内科医が学校医のケースが多く、検診していない学校がかなりある。
検診を徹底するほか、かかりつけの小児科医らが診断できる体制作りも必要」と話している。

(2008年3月27日 読売新聞)

巻き込まれた方は、お気の毒としか言いようがありません。日本社会の中で、他責的な人たちが増えているという現われなのでしょうか? 

学校医が診断できなければ、町は別の対策を取るべきだ

なんだかですねえ・・・・。どこまでもどこまでも他人に責任をとらせようとする勢いをこの一文に感じます。

しかし、訴えに出るほどの側湾とはどの程度なのでしょうか?私にはよくわかりません。軽い側湾があり、慢性的な肩こりに悩まされている人は、かなりいると思うのですが・・・。その方々達も検診医の見逃しのせいなのでしょうか? 私には、すぐには理解できない訴訟です。

では、

思春期の女子に裸になっていただいて、丹念に背中を診察したら、つまり、記事中の検診を徹底するということです。それを実行したら、今度はいったいどうなるのでしょう?

それは、約10ヶ月前の次の記事を思い出していたければ、容易に想像がつこうかというものです。

札幌の道立高*「胸触られた」120人苦情*女生徒*内科検診終了できず
2007.06.30 北海道新聞朝刊全道 35頁 朝社 (全1,405字) 

 札幌市内の道立高校が五月中旬に行った内科検診で、女子生徒約百二十人が「(大学病院から検診の応援に来た三十代の)男性医師に乳房をつかまれた」などと訴えたため、検診を中断していたことが二十九日、分かった。学校側は
「丁寧に診たことで誤解された」としているが、一連の混乱で学校保健法が健康診断の期限とする六月三十日までに、検診を終えられない事態となった。同校や道教委によると、内科検診は二日間の日程で初日は一年生全員と三年生の半数の計四百五十人が対象。大学病院からの応援医師(協力医)三人と学校医の計四人が診察。協力医のうち男性一人、女性一人が女子生徒を担当した。検診後、女子生徒から養護教諭や担任に「(男性の協力医に)右手で聴診器を当てている時に左手で胸をつかまれた」「ブラジャーを外された」などと苦情が続出。このため、学校は二日目の検診を延期した上で、この男性医師が診た女子生徒にアンケートを実施。一年生百二十人のうち九十人と三年生の三十四人全員が不快な思いをしたと答えた。同日、学校から相談を受けた学校医が、大学病院の医局を通じて男性医師から事情を聴取。その結果《1》乳房の下部に位置する心尖(しんせん)部の心音を聴くため、ブラジャーを外したり乳房を持ち上げたりした《2》短時間で行うため、聴診しながら同時に胸郭のゆがみを調べる触診もした-と判断。これらは正当な医療行為で、他の医師より丁寧に診察したことが誤解を招いたと結論付けた。検診では胸郭の異常を調べることなどが定められており、また、この医師は他校の検診で問題になったことはないという。検診の二日後、臨時全校集会で校長が「校内において不安で不愉快な思いをさせ申し訳ない」と謝罪した上で、「(医師は)大学病院勤務で学校検診は不慣れだった」などと説明した。さらに、女子生徒の保護者に家庭訪問などで説明したほか、ショックを受けた女子生徒には専門家によるカウンセリングも行った。学校は二十七日に検診を再開したが、学校行事の関係で二年生三百十二人の検診が七月中旬にずれ込むこととなった。同校の教頭は、六月末の期限に間に合わなかったことは「申し訳ない」とした上で、「今後は女子生徒の感情に配慮するよう学校医から協力医に事前に話してもらう」と話している。また、学校医が「学校のアンケートが混乱を大きくした。正当な医療行為だと生徒や保護者に説明することが先だった」と学校の対応を批判。六月十五日に辞表を提出している。
*学校側対応は妥当
 道教委学校安全・健康課の佐藤憲次課長の話 期限までに健康診断が終えられなかったことは残念だが、学校側の対応はおおむね妥当と考える。内科検診の内容や必要性について、思春期の女子生徒やその保護者にはさらに丁寧に説明して理解を得るよう努力してほしい。
*聴診は重要で常識
 札幌市学校医協議会の長谷直樹会長(はせ小児科クリニック院長)の話 後天的な心臓病を発見するため(乳房の下の)心尖部の聴診は重要な場所であり、ブラジャーを外させ、乳房が大きい場合は持ち上げて聴診器を当てるのは医師として常識。胸郭の異常も思春期の女子に多く触診は必要。病気が内科検診後に見つかり「学校医は病気を見逃した」と親から抗議が来ることもある。入念に診ることを批判されたら検診は成り立たない。学校が事前に検診の内容や意義を十分生徒に周知する必要がある。 北海道新聞社

報道は、社会現象のほんの一部を切り取って拡大している虫眼鏡のようなものです。ですかから、そんな性質の報道を意図的に二つだけ抜き出して対比することは、ばからしいことかもしれません。私は、自分でそんな馬鹿なことをしてるんだなあと自虐的に思います。

でも、たとえそんな報道でも、それらを目にするたびに、暮らしにくい社会だなあ・・・・、医療がやりにくい社会だなあ・・・と私はしみじみ感じます。。


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診療関連死法案 舛添大臣の答弁 [医療記事]

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各コメンテーターの個々の方々においてブログ主より個別にお伝えしたいことがございます。

こちらをご覧ください⇒ 謎の両肩痛 の冒頭部分です。 連絡お待ちしております。



本日、衆議院議員の橋本岳先生が、国会において診療関連死法案に関する種々の質問を、約30分の時間をかけて、枡添大臣および厚労省医政局長の方にされました。 



その光景は、衆議院TVを通してネット上で見ることができますので、本日は、それを紹介します。



<動画へのアクセス方法>

http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.cfm?ex=VLの検索画面において、発言者名に「橋本岳」と書いて検索ボタンを押すと9件ほどヒットしますが、その中から平成20年2月28日 予算委員会第五分科会をクリックします。


医療関係者の方々は必見だと思います。 特に山場の部分と思われるところは、言語化してみました。(一部省略などあり)。 橋本議員の的確なご質問のおかげで、極めて重要な発言を大臣から引き出せたと思います。 数字は、動画での経過時間


橋本議員 12:08~

死亡という結果になってしまったことが重大な過失につながるのか?



医政局長 14:01~

ここでいう重大な過失とは、
死亡という結果の重大性に着目したものではなく、標準的な医療から著しく逸脱した医療行為であると医療安全調査委員会が認めるものと想定しております。



橋本議員 17:20~

結論というものは、明らかにでるものではないと思う。
意見が割れるということは十分にあると思う。亀田病院とか割り箸事件とかの鑑定などをみても意見が割れている。そういうときに、まず、調査委員会の報告書として、原因がわかりませんと、あるいは両論併記しかできなかった、 まとまりませんでした 



そういう結論をだすということは想定されているのですか?

そうした結論がでたときに、捜査機関へ通知するのですか?




医政局長 18:50~

専門的な調査を行った結果としても、なお、原因は不明という結論や委員の間で医学的に見解が異なり、少数意見を付記した結論というような場合も
ありえると考えています。そして、仮に、原因は不明という結論に至った場合には、原則として捜査機関への通知の対象にはならないのではないかと考えております。



橋本議員 20:10~

今の点は相当重要だと思いますが、大臣、見解を



舛添大臣 20:25~

両論併記とか原因不明の場合に、今の法律体系を考えれば、法務省的な立場で見ても、
捜査機関への通知はやらない、できない・・・できないというか・・しないという方針でいいと思います。

ただ、忘れてならないのは、片方に患者さんがいるんです。患者さんの家族がいるんです。



「なぜ、警察もうごいてくれないんだ」

「どう考えても医者のミスじゃないのか」

「不明ですませるのか」



という声が出てくるんです。



で、これに対してはね、刑事では訴追しないけれども民事で訴追することは可能です。ですから、常に我々がやっぱり国民の代表として考えておかねばならないのは、一つのテーマについてやると関係当事者の意見ばっかりが
きてるんです。じゃあ、
同じだけのメールが国民からきてますか?一通も来てません。お医者さんからしか来てません。そうすると、私達はそこも考えなければいけないので、立法の責任者としては、そういう意味で、私は、お医者さんの意見だけなく、国民
の声を聞くのが、国民の代表としての国会議員の仕事だろうということもありますので、両論併記とか不明のときには、捜査機関に通知はしない、委員かとしては、それででいいんだだと思いますけど、しかし、
それに対する不満が患者さんから出てきたときにどうするかということも我々は考えておかねばいけないので、それについては、民事訴訟という手は残ってますというお答えをとりあえずはしておきたいと思います。

橋本議員は、医師の冷静な意見を、国民の代表として、的確にご質問してくださったように私は感じました。

患者側の立場も考える舛添大臣のご意見もまっとうなものだと思いました。舛添大臣は、この質疑応答の冒頭にて、医師と患者の信頼関係が大切だ と力説しておられました。にも関わらず、この最後の方で、刑事がダメなら民事もあるよという医師ー患者間の敵対関係を煽るようなことをおっしゃてしまったのはちょっと残念でした。 



少なくも、このような方向で国がきちんと動いてくれ、もう二度と大野病院や割り箸事件のような刑事訴訟が起きないことを切に願います。



「死」という結果に対する患者の不満をなくしていくには、舛添大臣のお答えは不十分すぎると思います。



今おかれている日本全体の死生観の変容をめざすという国家的視点がなければ、根本解決にはならんだろうなというのが私の見解です。



一般の方々からのメールを待っているという舛添大臣のお言葉です。ぜひ、一般の方々におかれましても、メールで大臣の元へ届けてみてください。

舛添大臣の公式HPはこちらです。⇒ お問い合わせ



医師の心が折れて、現場から去っていかないように、是非とも一般の方々からの声も必要です。



私が、一般の方々に声をあげてほしいと思うことは、次の2点です。

1)調停機関(ADR)の充実・・・特に「死」の受容プロセスへの援助(スピリチュアルケアの制度化)

2)メディア報道の抑制・・・ 公的に歯止めをかけないと、取り返しのつかない風評被害が広がります。


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2年前の今日を思う [医療記事]

 

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2年前の今日、2006年2月18日、世界的にも類をみない出来事がありました。 患者のために通常の医療行為をしていた医師が逮捕されたという出来事です。そして、福島地検は、不起訴にはせず起訴しました。そのため、現在も刑事裁判が続けられています。

その逮捕に先立つこと約8ヶ月前の報道記事を挙げておきます。

医師、減給1カ月 帝王切開でミス、患者死亡 県立大野病院 /福島県
2005.06.17 東京地方版/福島 27頁 福島中会 (全557字) 

 県立大野病院(大熊町)で昨年12月に帝王切開手術を受けた20代の女性患者が、医療ミスにより死亡した事故で、県は16日、手術を担当した産婦人科医(30代)に減給(10分の1)1カ月、監督責任のある院長(60代)に戒告の懲戒処分を行った。県の減給処分は程度によって1カ月~3カ月ある。1カ月にとどめた理由について、県は「他県などで起きた同種の医療事故の処分から横並びで判断した。患者が亡くなるという重大な結果を招いたが、医学的にも難しいケースだったことを考慮した」(安齋博実・病院局理事)と説明している。遺族に対しては、損害賠償などにも誠実に応対したい、としている。
事故調査委員会(委員長=宗像正寛・県立三春病院診療部長=肩書は当時)の報告によると、事故が起きたのは12月17日。帝王切開で胎児を取り出したあと、胎盤が子宮から離れなかったため、「医師が手術用はさみで切り離した」ことが大量出血につながった。輸血しながら子宮ごと摘出する手術に切り替えたが、患者は死亡した。報告書は、子宮の筋肉が付着した胎盤をはさみで切り離そうとした医師の判断ミスとあわせて、「輸血対応の遅れ」「対応する医師の不足」などを挙げ、医療ミスを認めている。大野病院に勤務していた医師は当時12人。産婦人科医は、この手術を担当した医師1人だった。
朝日新聞社

当時、この報告書を元に、警察に逮捕されました。加藤先生の上司である佐藤教授は、そのことについて、日経メディカル誌の取材時に述べています。 その日経メディカルの記事を一部引用します。

患者の死亡後、県の医療事故調査委員会が設置され、当大学出身者以外も含め、3人の医師による報告書が2005年3月にまとめられた。今回の逮捕・起訴の発端が、この報告書だ。県の意向が反映されたと推測されるが、「○○すればよかった」など、「ミスがあった」と受け取られかねない記載があった。私はこれを見たとき、訂正を求めたが、県からは「こう書かないと賠償金は出ない」との答えだった裁判に発展するのを嫌ったのか、示談で済ませたいという意向がうかがえた。私は、争うなら争い、法廷の場で真実を明らかにすべきだと訴えたが、受け入れられなかった。さすがにこの時、「逮捕」という言葉は頭になかったが、強く主張していれば、今のような事態にならなかったかもしれないと悔やんでいる。加藤医師は、報告書がまとまった後に、県による行政処分(減給処分)を受けた。

 警察は、この報告書を見て動き出したわけだ。最近、医療事故では患者側から積極的に警察に働きかけるケースもあると聞いているが、私が聞いた範囲では患者側が特段働きかけたわけでもないようだ。警察による捜査のやり方には問題を感じている。例えば、当該患者の子宮組織を大学から持ち出し、改めて病理検査を行っているが、その組織も検査結果もわれわれにフィードバックされないままだ。捜査の過程で鑑定も行っているが、担当したのは実際に癒着胎盤の症例を多く取り扱った経験のある医師ではない。

 加藤医師は数回、警察から事情を聞かれ、その都度、私は報告は受けていた。最後に彼が警察に出向いたのが昨年2月で、そのときにそのまま逮捕されてしまった。弁護士を付けずに、1人で行かせたことを後悔している。翌3月に、業務上過失致死罪と異状死の届け出義務違反で起訴された。

私のブログ上で、何度も何度も言ってる「後知恵バイアス」の認知の問題が、しっかりこの報告書の中にもあるようです。この部分です。

「○○すればよかった」など、「ミスがあった」と受け取られかねない記載があった。

日本全国の多くの医師の心をおったこの出来事は、今の医療が抱える問題の一部には、確実に影響していることでしょう。

加藤先生の無罪を心から信じています。


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割り箸訴訟と医療の不確実性 [医療記事]

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2月12日、話題の割り箸死亡事故の賠償訴訟の民事判決がありました。結果は、医師側勝訴でした。刑事事件の無罪判決に引き続き、民事でも、医師無責という裁判官の判断です。

一部のメディアは、相変わらず、こんな遺族寄りの報道をしています。 

TBSの報道をごらんいただきたい。こちらです。(魚拓
割り箸死亡事故・賠償訴訟、遺族敗訴

両親の思いは届きませんでした。東京・杉並区で喉に割り箸が刺さり、死亡した男の子の両親が、「診察が不十分だった」などとして病院側に損害賠償を求めた裁判で、東京地裁は両親の訴えを退けました。杉野隼三ちゃん(当時3)。9年前、夏祭りで買ったわたあめの割りばしをくわえたまま転倒、刺さった割り箸は脳に達しました。ところが、隼三ちゃんが運ばれた杏林大病院の担当医師は、消毒薬を塗るなどしただけで帰宅させました。その後、容体が急変。隼三ちゃんは、4歳9か月の短い命を閉じました。担当医師は起訴されました。刑事裁判の一審判決では「診察や検査が十分ではなかった」と医師の過失が認められましたが、死亡との因果関係は認められず、無罪が言い渡されました。「事故の直前の七夕の時に『正義の味方になって悪と戦いたい』と(短冊に)書いて欲しいと言われ、それが私たちに託された願いだと思っているんです」(隼三ちゃんの母・杉野文栄さん)事故から1年余り、両親は「不十分な診察で死亡させた」などとして、病院側と担当医師を相手取り、およそ9000万円を求める民事訴訟を起こしました。そして判決で東京地裁は、両親の訴えを退けました。「当時の医療水準やけがの状態などから医師の過失は認められず、診察と死亡に因果関係は認められない」という理由でした。無罪だったものの医師の過失は認めた刑事裁判から後退したとも言える判断。「隼三にかける言葉さえ思い浮かびませんでした」(母・杉野文栄さん)両親は控訴を決めました。病院側は「主張が認められ、ほっとしています。しかし、改めてご冥福をお祈り致します」とコメントしています。(12日20:46)

 注)  青字 事実関係  赤字 遺族側  緑字 病院側

なぜ、一部のメディアは、こんな遺族側に一方的に寄り添った感情的な報道をいまだに垂れ流すのでしょうか? 確かに商業主義があるのかもしれません。それだけでしょうか?

小松秀樹先生の、医療の限界より一文を引用します。(P34~36)

不確実性をめぐる専門家と非専門家の齟齬は、医療に限らず、多くの分野で認められます。慶応大学商学部教授の権丈善一氏によると、例えば年金問題でも、不確実なものを不確実として受け入れない人たちが適切な議論の妨げになっているということです。
(中略)
人は不確実なものを不確実なまま引き受ける際に不安を感じます。
この不安に耐えられないことが、攻撃行動の原因になっているのではないでしょうか。

報道を作成する人たちの多くは、今働き盛りの健康な人たちでしょう。自分達の親も子どもも元気でいらしている方がきっと多いことでしょう。そんな中、自分達の日常生活においては、医療とは無縁の人が多いのではないでしょうか?

便利な日常生活、高収入、そして、自分達が世間を動かせるという万能感・・・・ 
メディア業界の中で、ある程度の権限を有する立場の人は、こんな感じかな?と私はイメージします。

つまり、彼らは、物事の不確実性を経験し、自覚する機会に乏しい環境にあるのではないかということです。

だから、自分達の生活の中に不確実なものがあるという認識の違いにおいて、私達医療者と一部の報道関係者との間には、天と地ほどの大きな開きがあるのでしょうね。

それは、物事の不確実性を世間に訴えようとする報道に私達は殆んど出会わないという事実からも推定できることです。

こういう背景にある人たちであるからこそ、上記のような報道が自然と出来上がってしまうのであろうと私は思います。

私は、このブログを通して、「報道が伝えないこと」を伝えたいという思いがあります。

この割り箸訴訟を通して、皆さん方に、改めて、「医療の不確実性」というものを、一人一人に自ら考えてほしいと思います。

医療の不確実性を考えるに当たり、

「私達の医療は、天気予報のようなもの、台風の進路を予測したり、雨の確率を考えたり・・・・

とイメージしてみたらどうでしょうか? 私が日常診療でよく言っている台詞です。

さらに、具体的に考えやすくするために症例を提示しましょう。 まったくのフィクションであり、自分の経験症例ではありません

症例 6歳 男児 

夏休みにある避暑地へ家族旅行した。そばの湖で水泳をして楽しんだという。その4日後、この子は頭痛と発熱を訴えた。「風邪と疲れでしょう」といって小児科開業医は様子をみるように親に言った。この子は、その後昏睡状態となり死亡した。 発症からわずか一週間後の出来事であった。 両親は、小児科医の初期対応が悪かったのではないかと思い、不信で不信でどうしようもなくなり、弁護士事務所を訪れるに至った。

さあ、皆さんは、どんなことを考えますか?
医者は医者の立場から、一般の方は、一般の立場から、それぞれの立場で考えてみてください。
病名を考えるだけじゃないんです。もし、これが現実だったら、自分はあきらめられるかな?とかそんなことでもいいのです。
(2月16日 記)

(2月17日 追記)
たくさんのコメントをありがとうございます。ブログ主が予期せぬところで、コメント欄がにぎわっています。ありがとうございます。 

物事には、常に多面性があります。ですが、それを文字にして語るときは、どうしてもその多面性のどこかを切り取って、ある一面を語らざるを得ません。それは、マスコミも私もコメンテーターも皆一緒です。

私の主張もそのような一面を語っているにすぎないということを十分ご理解のうえ、私のブログとお付き合いください。よろしくお願いします。

私の方はといいますと、あらかじめ想定していた話を粛々と続けることにします。

では、症例の続きです。 誤解していただきたくないことは、今回の症例はフィクションであり、事実解は存在しないということです。私が考えていた疾患がこれだということであるだけです。

今回の想定症例は、原発性アメーバ性髄膜脳炎(primary amebic menigoencephalitis)でした。超超超レアケースの感染症だと思います。

医学書と報道記事を引用しておきます。

図説 人体寄生虫学 第4版 南山堂 P24から引用

Naegleria fowleri Carter, 1970 
1965年オーストラリアで人体感染第1例が発見されて以来、ニュージーランド、米国、チェコスロバキア、英国、ベルギー、アフリカ、台湾などで見出され、現在、約150例を数える。本例の特徴は、湖沼で水泳などをしたとき、このアメーバが人の鼻粘膜に進入し、嗅神経に沿って直接、
脳に入り急性経過をとって死亡する。本症を原発性アメーバ性髄膜脳炎(primary amebic menigoencephalitis)と称し、若い男女に多い

日本での第1例の新聞報道はこちら。

脳にアメーバ侵入し死亡--福岡・久留米大、日本初の症例確認
2000.03.01 西部朝刊 社会 (全521字) 

福岡県久留米市の久留米大医学部寄生虫学教室が、
川や湖などに住むアメーバ「ネグレリアフォーレリ」が脳内に入って増殖し、髄膜脳炎を起こして死亡した日本初の症例を確認していたことが29日、分かった。福間利英教授(寄生虫学)は「初期症状が通常の髄膜脳炎と区別しにくいので多くの症例が見逃されてきたと思われるが、早期の治療で治った例もあるので検査などで注意が必要」と話している。確認したのは1996年11月に死亡した佐賀県鳥栖市の女性(当時25歳)。当初インフルエンザと診断されたが、意識が混濁したため久留米大付属病院へ運ばれ、髄液からアメーバを確認した。家族などから話を聞いたが感染経路は不明だった。患者の存命中にアメーバを採取できた例は世界的に珍しく、同教室は診断方法の確立に向けて研究を進めている。ネグレリアフォーレリは主に水中で生活し、関東や九州の川などで存在が確認されている。鼻の奥に水が入ると、粘膜から脳内に侵入して感染。約1週間の潜伏期のあと発熱や頭痛などを発症し、約10日で死亡する。福間教授は「めったに感染することはなく、不安がることはない」と話している。【太路秀紀】毎日新聞


starpoint様が、コメントでご指摘になっておりました。URLの紹介ありがとうございます。

とびきり珍しい地雷疾患なら、アメーバ性髄膜脳炎かな。
http://homepage2.ni fty.com/treknz/amoeb a_2.html
検索して発見しましたが、この疾患の存在は全く知りませんでした

公正中立な立場なら、この疾患を的確に診断できなくても、他のやるべきことをきちんとやっていれば、適正な医療レベルとおそらく判断されるでしょう。でも、ご遺族側は、納得できるでしょうか? 私には、分かりません。 まさに、子供の死という悲しい結果に、ご遺族という立場の多面性が如実に現れるでしょう。皆様のコメントを拝見しながら、私はそう思いました。今後何らかの形で設立されるであろう第三者機関が、遺族の気持を十分に受け止めてくれる機関であってくれるといいなあと私は思っています。

私がもし遺族の立場にたったら、とにかく悲しむんだろうなと思います。悲しみとは怒りとのどちらかというと負の感情は、無理して我慢する(抑圧)より、適切に表出したほうがいいという自分の考えがあるからです。そして、「受容しろよ、おまえさんよお」・・・と語りかけるもう一人の自分と悲しみにくれる自分とが、自分の中でごちゃごちゃになるんだろうなあとは想像します。

そうして、やっぱりその時その立場になってみないと本当はわからないなあと思う自分に気がつきます。

では、私がこれまでに、ブログで主張してきたことはどうなるのでしょうね?

例えば、「死の受容」なんて・・・・・・・。

まあ、自分に100点満点は、ありえないので、あまり深く考えなくてもいいのかなあということぐらいにとどめておきたいと思います。 自分の心の健康のために。


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