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「気づくこと」と「信じること」 [医療記事]

医療紛争の記事を見るたびに、どこか割り切れない思いを感じる。そう、記事の文面から自分が感じ取るのは、「不毛」という感覚だ。そんな不毛な医療紛争が少しでも社会から減ってほしいと思う毎日である。日々のツイッターでのつぶやきは、私のそんな思いが込められている。メディアに対してきつい言い回しになるのは、そんな自分の思いとは裏腹な現実に対する自分のフラストレーションの結果としてなんだろうと思う。

そんな私が大切に思っていることがある。

それは、「気づくこと」と「信じること」だ。

これは、どちらも相手に求めることでなく、自分で自分に求めることであるという特徴がある。つまり、どれだけ自分が自分と向き合えるかというのが大きなポイントなのだろうと思う。

今日は、そういう「気づくこと」と「信じること」の大切さを伝えてくれるような話を紹介してみたいと思う。

●「気づくこと」について考えさせられるお話

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、紀元前5世紀頃の人で、仏教を開いた人としてあまりにも有名である。その後、仏教は広く世界に広まっていく。5世紀前半には、ブッダゴーサという仏教徒がスリランカに登場する。ブッダゴーサは、広く経典に精通し、仏教伝道のために尽くしたという。そのブッタゴーサの著作として伝えられる「ダンマパダ・アッタカター」の中にある説話、キサー・ゴータミーの話を紹介する。ある論文(キサーゴータミー説話の系譜   赤松孝章 高松大学紀要34、2000年)を参考とし、少し自分の手を加えた形でここに紹介してみたい。

キサー・ゴータミーの説話
インドのコーサラという大きな国の都サーヴァッティーという町にゴータミーという名前の若い女性が住んでいました。
彼女は、貧窮した家柄の娘で、疲れきった体から「キサー・ゴータミー」と呼ばれていました。

そんなゴータミーでしたが、ある時、裕福な男性と縁があって結婚しました。二人はしばらく幸せな時を過ごし、めでたくゴータミーは、一人のかわいい男の子を授かりました。

しかし、その子がやっと両足で歩けるようになった頃、突然病気にかかり死んでしまったのです。

ゴーターミーは、深い深い悲しみにみまわれました。
ゴータミーは、それまで死というものを一度も見たことがなかったのです。

周りの人は、子供をを火葬するように言いましたが、ゴータミーは拒み、こう言いました。
「私はこの子の薬を探してきます」

そして、死んだ子の亡骸を両手にかかえて、家から家と尋ね歩きました。
「私のこの子にあげる良い薬を知っている人はいませんか」と。

そんなゴータミーに人々は言いました。
「娘さん、あなたは正気を失っている。死んだ子供の薬をたずね歩いている」と。

それでも、ゴータミーは全く聞き入れませんでした。
「必ず、薬を知っている人を見つけ出します」
と言い続けました。

ゴータミーは、子供の死を受け入れることができなったのです。

そんな様子を見かねた町の長老が、ゴータミーにある提案をしました。
「娘さん、私はそんな薬は知らないが、もしかしたら薬のことを知っているかもしれない人を知っている」

そうして、長老は、この辺りで唯一悟りを開いたとされるお釈迦様の元を尋ねるように、ゴータミーにアドバイスしました。

ゴータミーは、期待に胸を膨らませて、町のはずれに住むお釈迦様の元を訪れ、一礼しながらこう尋ねました。
「先生は、この子の薬のことをご存知なんですね」

「ええ、知っていますよ」
「一掴みの芥子の実があればいいのです。ただし、誰も未だ死者を出したことのない家から出た芥子の実でなければなりません。それさえ、あれば私がその子を治す薬を作りましょう」
とお釈迦様は、ゴータミーに優しく答えました。

「わかりました。ありがとうございます」
とお釈迦様にお礼を言った後、ゴータミーは町へ戻り、再び家から家と尋ね歩きました。

ゴータミーは、最初の家の戸口に立って尋ねました。
「ごめんください。この家には、芥子の実はありますか?」

「ええ、ありますけど。それが?」と主人が答えました。

ゴータミーは続けました。
「お宅の家から、今までに誰か死人が出たことはありますか?」

主人は、その質問に少しびっくりしながら答えました。
「何を言うのですか!ええ、たくさん出てますよ。昨年は親が死にました。そして、一ヶ月前に、娘を亡くしたばかりです」

ゴータミーは、この家から芥子の実をもらうのは諦め、次の家に向かいました。そして、同じことを尋ねました。また同じ返事でした。その後、尋ねる家、どの家もどの家も、死人を出したことのない家など一つもありませんでした。

日も暮れようとしてきたとき、ようやく、ゴータミーはお釈迦様が自分に何を教えようとしているのかがわかりました。

その結果、半狂乱な気持ちも消え去り、すがすがしい気持ちにさえなっていました。
子供は生き返りはしなかったにもかかわらず・・・・。

ゴータミーは胸に込みあげてくるものを押さえながら、町はずれの墓地へ行って、子の亡骸を優しく抱いてこう言いました。

「愛する我が子よ、私は今まで、あなた一人だけが、死んでしまったとばかり思っていた。でも、生まれてきた者は、皆いつかは死ぬんだよね」

ようやく、子供の死を自分で受け入れることができたのです。そして、再びお釈迦様の元を訪れました。

お釈迦様は、尋ねました。
「ゴータミーよ、芥子の実は見つかったかね?」

ゴータミーは答えました。
「もう芥子の実はいりません。たくさんの家々を訪ねるうちに、死なない人などいないということをお釈迦様に教えていただきました。私をあなたの弟子にしてください」と。

その後、ゴータミーは、修行を続け、お釈迦様にも認められる立派な尼僧となったとのことです。

人生には、自分の死、愛する人の死という受け入れ難い現実に直面させられることがある。その現実は、時に、あまりに非情でさえもある。しかし、その現実は、どんなに非情であっても、あくまで自分の人生の一部であって、他人の人生ではない。だから、それをどう乗り越えるかを決めるのは、最終的には自分しかいないのである。いくら、他人に死の責任や賠償を求め続けても、自分の心と自分自身が自分自身で向き合おうとしない限り、自分の心の中に納得の境地は決して訪れることはないであろう。この境地は他人から与えてもらうものではなく、自分で見つけ出すものだという自覚が必要なのだと私は思う。この説話は、そういう心のあり様に目覚め、そして生死を超える道を求めるところに、私たちの苦しみや悲しみの根本的な解決があることを教えているのだろうと思う。なぜ、釈迦の教えが、時間を越え、空間を越え、人の心に響き続けるのか?その理由が何となく分かるような気がする説話である。こういう説話を通して人の生死、自分の生死、家族の生死を考えてみることも、不毛な医療紛争を減らす何かのきっかけとはなりえないだろうか。私はそう願い、私は自分を信じ、自分也の医療を実践している。

ちなみに、この話は自分でフラッシュファイル化したものをすでに公開している→ ゴータミーの話をフラッシュに

●「信じること」について考えさせられるお話

小林多喜二(1903-1933)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。有名な代表作に、「蟹工船」がある。ここで紹介するのは、その小林多喜二の母、小林セキ(1873-1961)のエピソードである。作家の三浦綾子が、「母」という作品の中でこの小林セキを描いているが、東洋思想家である境野勝悟氏の著作の一つである「日本のこころの教育」(英知出版社 2001年)のP102~P109には、小林セキの多く人の心に響くであろうエピソードが書かれている。元々、この著作は、境野氏が高校生に対して行った講演の内容を書籍化したものであるから、本来は高校生へのメッセージということになるが、私は、これを読んで、「信じる」ということについて随分と考えさせられるエピソードだなと思った。そこで、境野氏の原文を私なりの要約した形でここに紹介してみたい。

五分間の面接ために駆けつけた小林多喜二の母親、小林セキの話
蟹工船を書いた小林多喜二の時代は、不幸な時代でした。多喜二は、その社会活動のために、憲兵に逮捕され刑務所に入れられてしまいます。刑務所の中では憲兵の鞭が毎日のように飛んでくるつらい日々が続きます。そんな刑務所でしたが、北海道の小樽に住む多喜二の母、セキにだけは面会が許可されました。刑務所からセキへ宛てた手紙にはこう書いてありました。

「三日後の十一時から五分間の面会を許す。五分でよかったら東京の築地署まで出頭しなさい」

セキはこの手紙をみてこう言ったそうです。
「五分もいらない。一秒でも二秒でもいいから、生きているうちに息子に会いたい」

ただ、セキは貧乏のどん底で旅費もままならない状況でした。それでも、なんとか近所から借金して東京まで往復する汽車賃だけは借りることができました。冬の小樽は雪がたくさんあります。汽車もすぐに止まってしまいます。次の駅に汽車が止まっていると聞くと、駅員に止められても、何キロでも雪の中を歩いてその汽車に乗り換えました。

「こんなところで一晩待っていたら多喜二に会う時間に間に合わない」
セキは、そんな気持ちだったのです。

そんな努力が実り、セキは、当日の午前十時半に東京の築地署に着きました。憲兵が見ると、あまりに寒そうな様子だったので、火鉢をそばに持って行くと、セキはその火鉢を端っこに置きながら、憲兵にこう言いました。
「多喜二は火にあたってないんだから、私もいいです」

今度は、別の憲兵がうどんを温めて差し出しました。また、セキは言います。
「いや、多喜二は食べてないから、私もいいです」

十一時ぴったりになりました。
多喜二が二人の憲兵に連れられて、セキの目の前に座りました。多喜二は母の顔を見られませんでした。ひたすらにコンクリートの床に顔をつけて、「お母さん、ごめんなさい」と言っています。憲兵がその顔を持ち上げました。多喜二の顔は、目は腫れ、顔は痩せ細り、頭は剃られて、自分の息子かどうかもわからない有様でした。

セキは、絞り上げるような声で言います。
「多喜二か、多喜二か?]

多喜二は答えます。
「はい、多喜二です。お母さん、ごめんなさい」

二人とも泣き声で叫んだきり声が出ません。そして、何もしゃべらず、ただ手を取り合っているだけでした。たった五分の面会時間が、一分、二分と過ぎていきます。見かねた憲兵がセキに声をかけます。
「お母さん、しっかりしてください。あと二分ですよ。何か言ってやってください」と。

それにハッと気づいたセキは繰り返し多喜二にこう言いました。
「多喜二!お前の書いたものは何一つ間違っておらんぞ!お母ちゃんはね、お前を信じとるよ!」

そうして、たった五分の短い面会は終わり、セキは雪の小樽へ、一人帰って行きました。
多喜二は、その後一度釈放されるのですが、すぐまた逮捕され、死刑を待たずに、憲兵の激しい拷問により獄中で死にます。その死に際の話です。

憲兵が鞭を振り上げると、多喜二がしきりに何か言ってます。しかし、口は動かしても、もう声にならない。コップに水を一杯やり、「何か言いたいことがあったら言え」と言うと、多喜二は絞り出すような声でこう言いました。
「待ってください、待ってください。私はもうあなたの鞭をもらわなくても死にます。この数ヶ月間、あなた方はみんなで寄ってたかって、私を地獄へ落とそうとしましたが、遺憾ながら私は地獄へは落ちません。なぜならば、母が、おまえの書いた小説は一つも間違っていないと、私を信じてくれた。むかしから母親に信じてもらった人間は必ず天国へ行くという言い伝えがあります。母は私の太陽です。その母が、この私を信じてくれました。だから、私は、必ず、天国へ行きます」
そう言い切って、多喜二は、にっこり笑ってこの世を去ったというのです。

セキは、漢字が一つも読めなったのです。片仮名がほんの少し書ける程度だったのです。だから、息子の書いた難しい小説は一行も読んでいないのです。にもかかわらず、「おまえの書いたものは間違っていない。お母さんはお前を信じておる」と声を張り上げて言ったのです。

私は、このエピソードを読んで、人間関係の中での「信じる」ということの重みを感じた。人は、社会生活を営む中で、いろんな人との間に何らかの関係性を構築していかなければならないことを考えると、その重みは、何も母子関係の間に限るものではないと思う。例えば、私たち医療者は、患者から「信じてもらえた」と自分が感じるときに、自分の心の安らぎと安心を覚えるものである。それは、ひいては、患者への責任という自覚に変わっていき、より誠実な医療を行う強力なインセンティブになる。

多喜二が医者、セキがその患者、そして憲兵が今の医療批判社会全般と当てはめたらどうなるだろうか?

私は、ふっとそんなことを思ってしまった。とすれば、私はその憲兵に物を言おうとしているのかもしれない。同時に、セキのような患者が増えてくれることを望んでいるのだと思う。そして、私が、多喜二のように、笑って天国へ行けるかどうかは、私自身のこれからの医療者としての課題であり続けるのだろうと思う。

「不信」も「信用」も、その気持ちを抱く人の心の中にしかないという意味においては同じである。違うのは、その気持ちを向けられた人の反応である。「不信」の気持ちを向けられた人の心の中には、向けてきた人に対して、新たな「不信」と新たな「対立」を生み出すことであろう。これは、不毛な医療紛争の背後にある多くの当事者たちの潜在的な心の状態ではないかと推定している。一方、「信用」の気持ちを向けられた人の心の中には、このエピソードに見るように、新たな「信用」と新たな「自己肯定感」を生み出すだろう。私たち一人ひとりは、このような「不信」と「信用」という自分の心の状態が、他者の心にどんな影響を与えるかも知った上で、自分の感情は自分で選択しなければならない。自分がどんな心の状態を選択するかは、あくまで自分の責任であり、それが自分の人生の今後を決めていくことになるのだという自覚を強くもつことは、医療紛争の緩和において、ひいては人生一般において、とても大切なことだと思う。


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とあるソーシャルワーカー

以前コメントさせていただいたことのあるものです。
職業はソーシャルワーカーです。

今回のお話、どちらも深く心に響きました。
自分のありかた、ひとへのかかわりかた、自己と他者を尊重することを改めて深く考えさせられました。
当事者が自ら気づきを得られるように働きかけることは、その人がどういうプロセスを辿れば気づくことができるのかを知ろうとするということでしょうし、その人の気づく力を信じるということですよね。
小林多喜二のご母堂とのエピソードも、周りがどう言おうと母に信じてもらったことで心の平安を得られたということもさりながら、多喜二の高潔な悟りの境地にひたすら感じ入りました。
自分ならどうか…これからじっくり自分の人間性というものを練り上げなければと思います。
by とあるソーシャルワーカー (2010-10-25 10:16) 

北のしがない内科医

どちらのエピソードにも,深く感動しました。
多喜二とお母さまのお話には,不覚にも涙が止まりませんでした。

私も「信じる」とはどういうことか,今一度よく考えてみたいです。

とても良いブログと思います。
これからも良き発信を続けていただければと存じます。
by 北のしがない内科医 (2010-10-30 12:55) 

none_2217

正しい治療をして死んだなら、あきらめもつきますが、死亡率が高いやり方でやられて死んだら、それこそ、あきらめもつかないと思います

80%近いやけどを負った患者が運び込まれた
この場合、若手の医師は苦痛の少ないもので火傷の部位をふさぎ、全身を管理するが、この日は運が悪いことにベテランの医者しかいなかった
そのベテランの医者は今まで教えられてきたとおりガーゼで火傷をふさいだ
その後、患者は治療の甲斐なく死亡した
論文などを調べてみるとガーゼでふさがない方法の方が痛みが少なく、死亡率が低いと出てきた(それでも死人が出ることには変わりがない)
おまけに若手の医者は苦痛が少ない方法をとっているが、ベテランの医者はいまだに古いやり方に固執している

もっとも、治療方法を知っているのは医者ぐらいしかおらず、ほとんどの遺族はマスコミにたきつけられない限り訴える可能性は低いと思いますが…

by none_2217 (2011-06-13 02:25) 

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