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五輪旗で医療崩壊を語る(その1) [雑感]

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もうすぐ、北京オリンピックです。いろんな政治的問題はあろうと思うが、是非成功してほしいものですね。もちろん、日本にも頑張ってもらいたいです。今回は、あまり五輪と脈絡はないのですが、あえて医療問題を皆様方に印象深く感じていただくために、こじつけは承知の上で五輪旗とからめて、医療崩壊問題を5つの視点から眺めてみることにします。

私は、医療問題を語るときに、人の心の問題は、絶対に切り離せない問題であり極めて重要な視点であるという認識を持っています。ですので、これからの話は、当然そこに力点が込められたものになろうかと思います。

まずは、私が作成した五輪旗:医療崩壊版をご覧下さい。 まあ、こんな感じです。 とりあえず、印象的に眺めてもらったら、それだけで結構です。
図1.jpg

いかがでしょう? ぶっちゃけていえばただの目次です。 番号順にこれから私見を述べていく予定です。その前に図の右下にある相互関係性のところから説明をしておきたいと思います。

私は、医療崩壊の根底には、患者側(1の円)と医師側(5の円)、それぞれの心の問題が大きく関与していると思っています。 その関係性は、原因と結果という直線的な関係性ではなく、相互関係という認識です。ですので、1と5を結ぶ矢印は、⇔としているわけです。 医者が・・・だからとか、患者・・・・だからとかいう直線的な因果律は、全くナンセンスだと思っています。

で、他の円(2,3,4)は、それはそれぞれ重要だけれども、それでも私の見方は脇役という位置づけです。 だから、1と5の相互関係に影響する因子という意味で、図に示すような関係性で表してみたわけです。

では、1、5、2、3、4の順番で、それぞれの各論に入っていきたいと思います。

「1」:心の問題(患者側)について

(1)死生観・死との直面
医療は、生と死を扱います。言い換えると、人間の知に基づいた操作です。その操作は、生命のもつ本能により、「死を回避し、生を維持する」という方向を目指します。それが医療です。しかしながら、この方向性は、(長いタイムスパンとしてみれば)最終的には100%失敗するというのが、万人が認めざるを得ないところの真実です。だからこそ、人間は、ずっと「死」を考え続け、その体系として、多くの哲学や宗教ができあがってきたのではないのでしょうか? 幸か不幸か、人間は、20世紀に入り、多くの技術を獲得し、確かに人間の平均寿命を大きく伸ばしました。もちろん、世界レベルで見れば、大きなばらつきがあるでしょう。ここでは日本という狭い中で考えてみます。20世紀の医学の発展により、多くの日本人は、身近に死と直面しなくても、社会生活が普通に営める時代になってしまってはいないでしょうか?だから、死生観について自己洞察する必要性をなんら感じていない人が多数派なのではないでしょうか?

そんな背景で、いきなり自分の死を直面しないといけなくなったり、家族の死と直面しないといけなくなったとき、普通の人は混乱します。そしてそのとき、人の心にはどんな感情が生じるのでしょうか? 平素の死生観がなければ、なおのことその混乱が大きくなり、感情も激しくなりそうです。では、そのような人たちに生じる感情は、どのような変化をしていくのでしょうか?

それは、死とどう向き合うか アルフォンス・デーケン NHKライブラリー P37~に、 多くの人に共通するという「悲嘆のプロセス」としての12の段階があると記載されています。
①精神的打撃と麻痺状態②否認③パニック④怒りと不当惑⑤敵意とうらみ⑥罪意識⑦空想形成・幻想⑧孤独感と抑うつ⑨精神的混乱と無関心⑩あきらめ-受容⑪新しい希望⑫立ち直り

さて、悲嘆のプロセスに、こういった感情の変化があるとして、今の社会において、このプロセスがつつがなく進みうることを考えての体制の整備がなされているでしょうか? 私はなされていないと考えます。むしろ、それどころか、④怒りと不当惑⑤敵意とうらみのステップあたりで、報道(2の円)や法体系(3の円)が医師と患者側の間に入ってしまうことで、ますます患者側の感情がこじれてしまい、結果として医師への不信を大きく増加させてしまっている現状はないでしょうか?そして、それが訴訟や報道という形で、他の医療者の心にまで影響を及ぼし、その複合的な結果として、今の医療崩壊という現象の一面が説明できるのではないでしょうか?

だから、医療者や政策決定立案者をはじめとする様々な分野の関係者が、こういう心理過程に対して無知・無関心である限り、医療崩壊問題の根底は解決し得ないと私は考えます。

死生観についてですが、私が今、勉強中のものが、荘子です。 物事の対立を否定し、万物を「一」とみなすスタンスをとります(万物斉同)。死生観もそれに根ざしており、死と生に対立はありません。(参考エントリー:生と死は対立ではない ) 難しいかもしれませんが、多くの日本人一人一人がこんな荘子の境地にたてれば、医療崩壊問題はおのずと解決するのかもしれません。

時に安んじ、順に処(お)れば、哀楽も入ること能わず。古者(いにしえ)は、帝の県解(けんかい)と謂えりと。 (荘子 内篇・養生主第三)   

訳:巡りあわせた時のままに身をまかせて自然の道理に従っていくというなら、生まれたからといって喜ぶこともなく、死んだからといって悲しむこともなく、喜びや悲しみの感情の入り込む余地はない。こうした境地を、昔の人は、絶対者からの束縛からの解放と呼んだのだ。        (荘子 第一冊 金谷 治 訳注 P100)

生と死は、自然という感覚が納得できれば、荘子のこの境地もわからないはないですが、人間は、感情の動物であり不安定です(これは、荘子も認めている)。 だから、悩んで良いのです。苦しんで良いんです。悲しんで良いんです。 そして、そうしながら、周りの援助を受けながら先にあげた12のステップを通過していけばいいのです。 ただ、その不安定さが少しでも安定に近づくために、先人達の境地を一度は自分で勉強しておくとよいのかもしれません。いざというときの自分の心の平穏のために。私は、そう思います。

こういう心の視点から、社会的な医療崩壊問題を語る人が、一人くらいいてもいいのではないかと思い、私がこうして主張しています。


(2)ゼロリスク希求  参考エントリー リスクを認め付き合うこと 

死や疾患、あるいは医療上の合併症や副作用などを、リスクという捕らえ方をした場合、そのリスクをどの程度社会の中で許容するかという視点は重要です。その視点が欠落すると医療という公共の社会資源を永続維持していくことが困難になるからです。そのことを、大学入試センター試験(800点満点)を引き合いに出して考えてみます。つまり、800点をリスク0と考えます。そして、テストで高得点をめざす学習行為そのものを医療安全行為とします。 さて、ある時の医療安全体制で、センター結果試験の結果は、300点でした。まだまだですよね。そこで、努力をしました。そしたら、比較的容易に500点になりました。 しかし、世間はまだまだ許しません。ゆるぎない安全を求め続けます。そこで、医療業界は努力しました。今度の試験では、なんと650点まで挙がりました。すごい努力です。多くの人がその安全の恩恵を受けられるようになりました。それでもリスク発生は0にはなりません。だから、世間はまだまだ許しません。医療業界は、総力をあげて努力を続けました。中には過労死をする人も出始めました。それでも努力しました。そして次の試験では、なんと720点まで取りました。すごい努力です。でもやはり、リスク発生は0になりません。 さて、このまま、世間がリスク発生0を求め続けたら、医療システムはどうなると思いますか? つまり、720点からあと80点上げるために、どれくらいの勉強が必要ですか? そう考えると、それは300点を600点にするよりもはるかに現実不可能な要求であることがわかりますよね。というか、そんなこと本気でやったら受験勉強だけで一生が終わっちゃいますよねきっと。つまり、私がいいたいゼロリスク希求とは、現状の状況(現在の点数)を見つめたうえで、その妥協点を考慮することなく、ただ、ただ800点満点を求め続けるバランス感覚の乏しい要求のことです。こういう感覚が患者側に幾分かはあるのではないかと私はなんとなく感じています。 これぐらいでいいという妥協意見が、患者側から全く聞こえてこないからです。もし、この感覚が世の主流だとしたら、他の要因をどんなにいじろうとも、医療崩壊は必然だと思いませんか?

(3)不寛容性  参考エントリー 医師-患者関係を考える<前半>
ここに示した参考エントリーが、この不寛容性について語ったエントリーです。キモはこれです。

他者に対して過度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがある

病的なまでに医療者に対して、過度に不寛容な人たちは、医療現場のスタッフのモチベーションを地の底まで突き落とします。それは、退職や転職や配置転換などの目に見えるかたちで表出することもありますし、自分の内面のみで苦しんでしまい、外部からはその被害がなかなか見えづらい場合もあります。いずれにしても、過度に不寛容な人たちは、医療者の心を蝕み、医療者の時間を過度に浪費させ、マクロな視点で眺めれば、医療システムを機能不全に陥らせてしまうということにつながるわけです。

(4)無関心  参考エントリー 「真実を知りたい」に対する私見
さて、社会の中で、医療と関わりをもつ人はどれくらいでしょう。高齢者になればなるほどその比率は上昇するでしょうが、全年齢で見れば、普段は医療とは無縁の方が圧倒的多数ではないでしょうか? そして、その人たちの多くは、医療崩壊に無関心なのではないでしょうか? この多数派層である無関心層が動かないと、日本のシステムは変わりません。それが民主主義の政治だからです。今、医療者は、一生懸命現場から、SOSを発しています。 そのひとつの良い形が、先月の12日行われた「医療現場の危機打開と再建をめざすシンポジウム」ではなかったのしょうか?しかし、その参加者は、圧倒的に医療関係者で占められていました。やはり世間は、医療崩壊問題に無関心なのだなあと思いました。無関心層には、おそらく先にあげた(1)~(3)の視点をもつ人たちが相当数いるだろうと私は思います。その無関心層に医療崩壊の問題をどう認識してもらうかは、おそらく政治家の先生方の手腕が大きく関与するのだろうと思います。だから、私達医療者は、自分達の声を、まずは政治家の先生方に確実に伝え、私たちの思いをわかってもらう努力が必要なのだろうと思います。

(5)不信  

患者側に潜む医療に対する不信・・・・・。この心の問題は、医療問題を考えるに当たり、最大の難課題だと思います。死別の混乱した感情の中で、(1)に示したような心理プロセスの中の一過性といえる不信感は、そう大きな問題ではありません。もちろん、それをこじらせなければの話ですが・・・・。 世の中いろんな人がいて、一生ある人を恨み続け、恨んで恨んでそれでも恨みきらずに一生を終えていく人もいます。つまり、恨むことがその人の人生の中心に来てしまうわけです。それと同じで、医療に対して、固定した不信を一生抱き続けていく人たちも存在するわけです。ネットの中を渡り歩いていると、患者側の立場の人たちが作成したブログやホームページに時々出会います。中には、医療に対する不信と怨念の強さと深さを感じざるを得ないものもあります。 このように医療に対していただき続ける不信感は、その人の心の中に、(3)に述べたような不寛容性をつくりあげてしまうでしょう。そして、それは、医療というシステムを機能不全にさえ陥らせる潜在的なパワーがあるといえるでしょう。そこだけをみると、医療者とは対立しかありえないことになります。ただ、難しいかもしれませんが、そのパワーがうまく違う方向に向くように変わってくれれば、医療者の良きパートナーとなりえる可能性もあるかもしれません。こういう人たちは、絶対数から言えば、圧倒的に少数派です。このように声の大きい方々のすっかり固定してしまった医療不信という視点を変えることができるのは、医療を信頼してくれている患者の方々の声なき声かもしれません。だから、国民の代表である政治家の先生方には、そのような声なき声を、形ある一つの声にすることを考えてほしいです。それが、私の希望です。

今回は、これくらにしてます。 その2へ続きます。


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コメント 3

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DYP

こんにちは。
『五輪の輪』はとても分かりやすい資料??ですね。
ありがとうございます。
by DYP (2008-05-06 16:30) 

元医療機器サービスエンジニア

身内が病院or在宅で闘病生活してるところを子供の頃に見てたので、
祖母や父が亡くなった時は、割と(亡くなった事を)素直に受け入れることができました。
父の時はチョッと納得がいかないことがあったので、近くの開業医に状況を聞きに行きましたけど。

“苦しんでるところを見せたくない”ってこともあるんでしょうけど、
そういうことに触れる機会が減ってるのではないのでしょうか?


それから、どんなものでもリスクがゼロなんてありえません。
by 元医療機器サービスエンジニア (2008-05-06 21:33) 

なんちゃって救急医

>DYP 様

ありがとうございました。その2もどうぞご覧ください。

>元医療機器サービスエンジニア 様

体験談のコメントありがとうございます。やっぱり実経験は受容に大きく関係しますよね。リスクゼロがありえないにも関わらず、リスクを容認しようとしない報道に辟易とすること多々あります。

by なんちゃって救急医 (2008-05-07 23:15) 

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