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わすれられないおくりもの [雑感]

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今日は、ある看護学生さんの話をします。ここでは、Kさんとしておきます。

もうずいぶんと前のことです。 あるとき、Kさんの祖父が私達の病院に入院してきました。重症肺炎でした。この患者さんを受け持ったのが私でした。数日間、ICUでがんばりましたが、残念ながら、病状は厳しいものでした。多臓器不全の兆候もおさまるどころか、どんどんと進んでいる状況でした。

私は、当時の指導医の先生と相談の上、方針を変更しました。

ギアチェンジだな・・・・」 

これが方針変更を意味する言葉です。
つまり、「生」という結果を諦めるという意味です。

私達の判断を患者さんの長女さんに説明しました。ICUの片隅にある患者家族用の待機室で、私は説明しました。

どんな説明をしたかは、記憶に定かではありません。ただ、なるべく医学用語を使わないようにと、努力した記憶はあります。とにかく、集中治療を施しても、病状が好転するどころか悪くなる一方であること、このまま、ここで戦い続けると、最後の別れのための時間を家族が静かにもつことができないことなどを伝えたように思います。

私:「どうしましょうか? ここ(ICU)でがんばってみますか?」
長女:「いえ、もうけっこうです。ありがとうございました。」

私:「そうですか。では、個室を探してみましょうか?」
長女:「お願いします」

昼間にこのようなやり取りをして、集中治療から撤退の準備として、種々の点滴ラインなどを整理し、一般病棟の個室に移る段取りとなりました。ICUから個室へあがる直前、今度は、患者の孫娘がやってきました。昼間説明した長女さんの娘です。その方が、Kさんでした。

「私にも説明してください!」

今の私だったら、もうご家族には説明済みといってこの申し出を却下したかもしれません。当時の私は、ある意味バカだったのかもしれませんが、もう一度、Kさんにも同じ説明をしました。その時、Kさんが、看護学生であることを知りました。

その話の中で、Kさんがこんな申し出をしたのです。

「私、臨終に立ち会ったことがないんです。」
「祖父が亡くなったら、死後の処置を見学させてもらえませんか」

私はそれを聞いて、是非とも、臨終の場をKさんに経験してほしいと思いました。当然、死後の処置にも参加させてあげたいと思いました。

「そうですか・・・。私の権限ではなんともいえませんが、Kさんのお気持ちを、病棟師長にはきちんと伝えておきます。」

と答えました。

夕方、患者さんは、看取りを主目的として、一般病棟の個室に移動していきました。
そして、日が変わること翌未明の1時43分、患者さんは、親族に囲まれて静かに逝きました。 

当時の私は、病院の直ぐそばに住んでいましたので、夜間にかけつけ、この患者さんの死亡宣告をしました。

そして、Kさんは、死後の処置に、学生としてではありましたが、一緒に参加することができました。病棟看護師長の計らいでした。

1週間後、この患者さんの長女さんが私を訪ねてきました。Kさんの手紙を私に手渡すためでした。その一部を紹介します。

○○先生

祖父○○○○の入院中は大変お世話になりました。親族が揃って臨終に立ち会えて良かったし、私自身も初めて遭遇した臨終が身近な死だったということで、今後臨床に出るための良い経験となりました。お別れのための個室を探してくれたことや病状説明を2回もしてくれたことや死後の処置に参加させてくれた、すごく嬉かったです。
・・・・(略)・・・・・・
本当にありがとうございました。

患者さん自身あるいはご家族からの心のこもったお手紙は、私達医療者にとって、「わすれられないおくりもの」です。

一人の人が死を迎えるとき、残された人への「わすれられないおくりもの」になり得るものが何か必ずあるはずだと私は思います。この例では、患者さんは、まさに自分の死をもって、Kさんにとっての初めての看取りという一生忘れることのない思い出、つまり「わすれられないおくりもの」を残してくれたのであろうと思います。

スーザン・バーレイ作 わすれられないおくりものという有名な絵本があります。アナグマの友達達が、アナグマの死を、悲しみながらも、やがてはそれを楽しい思い出としてそれぞれの心に刻んでいくお話です。とてもいいお話だと思います。その中に、こんな文章があります。

みんなだれにも、なにかしら、アナグマのおもいでがありました。アナグマは、ひとりひとりにわかれたあとでも、ちえやくふうをのこしてくれていたのです。

さいごのゆきがきえたころ、アナグマがのこしてくれたもののゆたかさで、さいごのかなしみもきえていました。アナグマのはなしがでるたびに、だれかがいつも、たのしいおもいでを、はなすことができるようになったのです。

図1.jpg

死の現場に遭遇することが日常の医療者は、日ごろ接する患者さんご自身やそのご家族にとっての「わすれられないおくりもの」って何だろう?という視点をもってみると、また違った医療を提供できるのではないかと思います。例えば、患者さんが、自分自身で、自分をアナグマだと気づけるように援助すれば、今現在の自分の生き方において、どんなものを自分の周りにのこしておきたいか、ということを自らでお気づきになるかもしれません。

医療という視点から見た場合でも、この絵本はなかなか深いな~と思います。

このような視点を気づかせる医療のあり方が、患者さん自身の生き方の援助、遺族への死の受容プロセスの援助となればとも思います。

「死」という結果に、何かと責任追及を要求しがちな今の社会において、このような視点がもっと社会の中で強調されれば良いのになあ~と私は思います。


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遺族の納得はどうしたら得られるのか? [雑感]

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割り箸訴訟と医療の不確実性 のエントリーでのコメント欄で、大変有意義な議論が続いているようです。私自身は、そこに、一つの結論を出す必要はないというスタンスで、静観させていただいています。

より多くの方々の目に留まることを期待して、ここでのやりとりをひとつのエントリーとして立ててみました。そして、ここで議論の続きができればと改めて場を設定しなおしました。

議論のきっかけは、rio様のコメントです。ありがとうございます。

議論のテーマは、
『医療の中で生じた予期せぬ死(と遺族が感じる)の事例において、遺族の納得はどうしたら得られるのでしょうか?』
と言えると思います。

rio様(非医療者の方)は、医師の役割の大きさを指摘しました。それに対し、僻地外科医様(医師)は、納得のプロセスには教育、宗教の問題が大きいことを指摘しました。さらに、一般ピーポー様のコメントからは、医師に対して、医療行為以外の人間性(?)を求めておられるようだと私には感じられました。

そして、おそらく医療者側の方々からだと思いますが、cannt様、chkt様からのコメントが続きました。どちらかといえば、遺族のケアに医療者側が積極的に介入することを懸念するご意見です。

そして、沼地様の『やっぱり何かものすごい溝を感じます。』というコメントが重く響いているように私には思えました。kein様は、医療者の立場でありながら、ご遺族の立場になりかかったときのご自身の心情をコメントしてくださいました。「気づき」の体験を語られております。

今、国で進められている診療関連死法案やADRの構築なども、遺族の納得が当然目標にあるわけですが、本当にに難しい問題だと思います。そもそも、これは目標とすべきものかという考え方もあって当然だとは思います。そして、どんな結論を出したとしても、万人の納得を得ることは不可能でしょう。だから、落としどころ(妥協点)をどこに持っていくのかが、これからの課題だろうと思います。

もう一つ、決して社会システムではどうしようもない部分があるということを、万人が認知しておくことも大切ではないかと私は考えます。それは、個人個人の心の中に存在する気持ちや感情です。

では、その個人の気持ちや感情に寄与するものは何か? 宗教はその一つだと思うし、教育(学校、家庭)も大きな因子だと思います。当然、文化も大きく関係することでしょう。

私達医療者は、遺族の気持ちを完全にわかりきることはできないのだろうと思います。しかし、わかる努力を続ける姿勢そのものは大事だと考えます。そうすることは、自分が遺族の立場に回ったとき、自分の人生に有意義なものをもたらしてくれるかもしれません。

遺族の方々は、医療者の気持ちを完全にわかりきることはできないのだろうと思います。しかし、わかる努力を続ける姿勢そのものは大事だと考えます。そうすることは、「死の受容」へつながる自らの気づきを得る機会となるかもしれないと私は考えるからです。また、そうすることは、納得できない⇒復讐感情 への転換を抑制することにもなるのではないかとも私は考えるからです。

以下に、コメントのやり取りを記します。 勝手にコメントを抜粋している部分があることは、どうかご容赦ください。

rio様のコメント(抜粋)

ここからやっと本題ですが、医者、マスコミ、一般人の区別無く、いま私たちが真摯に考えるべきは「どのように死を受容するか」という点だと思います。

医者のように専門知識をもって死と日常的に向かい合っている層はごくわずかです。専門知識のない人間に我が子の突然死という災厄が降りかかった場合、「死」を知らない現代では、親のとる行動は、自分を責めるか、他人を責めるか。この2つしかないだろうと思います。

その際に、「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断し、
遺族に納得させられるのは医者だけです。言い換えれば、それも含めて医者の仕事なのだと思います。

僻地外科様のコメント

本質的な間違いがありますので一言

>その際に、「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断し、遺族に納得させられるのは医者だけです。言い換えれば、それも含めて医者の仕事なのだと思います。

 これは医師の仕事ではありません。
あえて誰かの仕事であると言うならば教育と日本では廃れてしまった宗教の仕事です。時間があるなしにかかわらず医師の仕事ではありません。

一般ピーポー様のコメント(抜粋)

しかしこれが僻地外科医さんの本音だとすれば、私(達?)一患者としましては非常に恐怖です。
(途中略)
患者の多くは治療の成否と同等か、或いは
それ以上に先生の人間性の豊かさを求めています。お医者様とは論理と情緒、この二つの相反する人間性を持ってこその"先生"だと思うのですが…。

僻地外科医様のコメントを元にして述べた自分自身の考え

<遺族に納得していただくというプロセスは、医師だけの仕事ではありません。いや、皆様に医師だけの仕事とは考えてほしくないのです。つまり、多くの方が関わる共同の作業であることに気がついてほしいのです。例えば、どういう仕事があるかと言うならば、教育と宗教がかかわるという仕事が挙げられるのではないでしょうか?納得のプロセスは、医師が行う医学的解釈以外に、その人也の人生観、倫理観、宗教観がどうしても影響してくるからです。だから、たとえ医師に十分に時間があったにしても、遺族の納得のプロセスは、医師だけの仕事ではないということです。>

僻地外科医様のコメント(抜粋)

もちろん我々は真摯に考え得る状況、死に至る機転等を丁寧に説明しますが、それは「納得」という言葉を得るには程遠いものなのです。これを情緒面で解決出来るのは日頃の死に対する教育であり、あるいは宗教です。一般ピーポーさんは誤解されているようですがこれはinformed concentとはまるで別のものです。

私がこの問題が本来医師の仕事ではないといったのはそういう意味です。


 Rio氏のもっとも本質的な誤りは

>その際に、「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断し、遺族に納得させられるのは医者だけです。

 この一文に現れています。

「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断するのは医師の仕事です。また、そう説明するのも医師の仕事です。
 しかし、遺族を納得させるのは医師の仕事ではありません。

 この2つを混同して語っているのが彼の最も大きな間違いです。
なお、もちろん人によっては医師の説明のみで納得される方もいますし、どちらかと言えばその方が多数派かも知れませんが、「納得するかどうか」という一点に絞って言えば、これはその人の受けてきた教育や宗教観が決定するものだと思います。医師がどう説明したかという問題はごく副次的な問題に過ぎないと思います。

一般ピーポー様のコメント(抜粋)

しかし、死は死。そういった現実が動かせない事実である以上、遺族としてはその絶望をほんの少しでも良いので今際に立ち会った専門家に和らげて欲しいと考えるのでは。

しかし実際にそのフォローを医師の方がされることで、後にではあってもいくらかの遺族には医師の人間性が伝わり、そうした積み重ねがやがてその医師の方の評判となり、結果様々な実利は生まれるのではないでしょうか。

私は以上の点で「それは医師の仕事ではない」としてしまうのは、
どうしても冷たさを感じ哀しくもあり、また一方で勿体なく思えてしまうのです。

僻地外科医先生のコメント(抜粋)

私が言っているのは【現実面として】患者さんのご家族を【納得】させることが医師の仕事ではないと言うことで、ご家族に対する説明の努力を怠れといっているわけではありません。

 そして
>しかし実際にそのフォローを医師の方がされることで、後にではあってもいくらかの遺族には医師の人間性が伝わり、そうした積み重ねがやがてその医師の方の評判となり、結果様々な実利は生まれるのではないでしょうか。

 これに対する典型的な反証を示します。
http://lohasmedical .jp/blog/2007/12/pos t_991.php#more

 果たして加藤医師の誠実な態度がご遺族に伝わったでしょうか?あるいは加藤医師は誠実な態度でご家族に接していなかったでしょうか?

 
もはや、ケアを与える側(不遜な言い方ですが)だけではこの問題は解決出来ないと思うのです。

cannt様のコメント

遺族のケアに挑戦するとしても、失敗したら刑事被告人で、無罪になっても10年後れの医者になってしまうとすれば、何故そのようなボランティアをしなければならないのか、自分の家族に説明できません。

小児や妊婦を診ることなど出来ません。

chkt様のコメント

私は、死因を説明することを超えて遺族を納得させるという行為は、悪しきパターナリズムそのものであり、行われるべきではないと思います。遺族から暴言が吐かれたり、はなはだしくは暴力が振るわれても遺族ケアの名の下に、なあなあに済まされてきました。しかし、医師は患者の両親でも友人でもありません。感情の垂れ流しを甘受するいわれはありません。

DVにおいても被害者が我慢することは事態を悪くします。遺族ケアなどと小手先の対応を繰り返したために、患者の自立を阻害し、パターナリズムから抜け出せなくなっていると考えます。

沼地様のコメント(抜粋)

やっぱり何かものすごい溝を感じます。
先天的に異常があったのかもし れないと説明したことがご遺族の不信感のもとになった可能性....
CTで割り箸自体が見えてない、頸静脈孔経由で刺さっていて頭蓋骨に損傷が無い。
そうすると自分でも小児の突然の脳出血ならば、動静脈奇形が存在した可能性を一番に考えると思います。
でもそれが、基礎疾患があったせいにしようとした、いいかげんなことを言ったって受け取られるとは説明したほうは夢にも思ってなかったろうなってこと。
すべてが誤解というか理解の難しさから来ている気がします。
遺族に納得してもらうのが医師の仕事か周囲の人の仕事か、はたまた宗教家の出番かは判りませんが、少なくとも裁判に持ち込むのは無しにして欲しかったというか。

kein様のコメント(抜粋)

1年ほど前に自分の子供が食べ物による気道閉塞で死にかけた内科医です。その時に心に去来した内容は参考になるでしょうか。エピソードは自宅で起こったのですが,運よく助けられました。

またどのような年齢層にも突発する不可避な死があり,大袈裟かもしれませんが失うかもという気持ちを内在させつつ現在生きていることの価値をかみ締める必要があることに気が付けました。 それからは何か清清しい気持ちで今を精一杯と考え生活できています。危なく医療従事者側ではなく遺族側に立った体験をする可能性のあったものの気持ちを書いて見ました。


ここでの議論は、何か結論を出すことを目的としたものではなく、自由な意見の中から、皆様が、それぞれにおいて何かの気づきのなる機会になればいいなというのがブログ主の意図するところです。

ブログ主があまりにひどいと思えるコメント等は、ブログ主のみの判断において投稿コメント削除をするというブログ管理方針であることは、あらかじめ伝えておきます。

上記にご納得いただける方は、ご自由にコメントしていただいてかまいません。よろしくおねがいします。


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医師-患者関係を考える<後半> [雑感]

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医師-患者関係を考える<前半>では、主に患者側の側面からのべてみました。
<後半>は医師側です。

では<後半>です。
良好な「医師-患者関係」構築のために、医師が考えることについて述べてみたいとおもいます。内容は、医療現場のコミュニケーション 医学書院  箕輪良行 佐藤純一 著 を参考にしています。

医師患者関係の在り様を日常診療の中でざっと俯瞰するのに便利な記憶法を紹介するのが<後半>のエントリーの主旨です。この記憶法は、医師患者関係の構築において、医師側がなすべきことをコンパクトに俯瞰してあります。

この本のP75から引用します。ネクタイをチェックするイメージを持ちましょう。CHEC-TIEと覚えます。checkではなくchecとなっていますことにご注意を。

  • C=communication(言語的、非言語的コミュニケーション)
    言葉づかい、傾聴、視線、姿勢、表情など
  • H=humanistic attitude (ヒューマニスティックな態度)
    自律性、正義、信頼、人間への興味、地域参加、費用便益など
  • E= empathy (共感)
    患者への共感、気持ちの反映
  • C=counter-transferance (逆転移)
    患者に対して無意識のうちに抱く怒り、親愛感など
  • T= techinical context (技術的水準)
    病気の診断、治療、予後、合併症など
  • I=insight (自己洞察)
    自分の性格、使命感、責任、動機など
  • E=enviromental factor (環境要件)
    診察場所、同室者、いす・机の配置、服装、受診回数・期間など


P75には次のような解説が書かれています。

7つのいずれが重要かは各々の症例によります。共感(E)、逆転移(C)、自己洞察(I)は意識しないうちに大きく作用します。一方のコミュニケーション(C)やヒューマニスティックな態度(H)、技術的水準(T)や環境要因(E)は、意識して対応することが比較的やさしい部分です。

いかがでしょうか? 私がこれを気に入ったのは、自分を見つめる部分がきちんと含まれているからです。良好なコミュニケーションを構築しようと思ったら、相手にだけそれを求めていてはいけないというのは、皆様方にも同意していただけるのではないかと思います。

コミュニケーション(C)やヒューマニスティックな態度(H)などは、ある意味ありきたりですよね。しいていうと、非言語的なC(表情、目線、腕組みなど・・・)に注意を払いましょうとはいえるかもしれません。
技術的水準(T)というのは、医療の核心そのもので、これをきちんとやることが我々に求められるのは言うまでもありません。Tをさし置いて、他のことばかりを一生懸命やるのは、本末転倒だということを言おうとしているのだと思います。環境要因(E)は、意外と医療者側が気を使っていないかもしれません。まあハード面において、改善不可能な側面もありますが・・・。プライベートな質問には、少し患者と距離をつめて声を小さくして尋ねることで、壁が薄く隔てられた隣のブースに声が筒抜けにならないように配慮することなんて、Eを意識した具体的な配慮の一つかもしれません。

ふだんあまり意識しない部分共感(E)、逆転移(C)、自己洞察(I)-については、もう少し話を進めてみたいと思います。

共感(E)とはなんでしょうか? 

よく聞く表現ですよね。少なくとも同情とは違います。ネット検索では、こんな説明もあります。同情との違いを書いてありますが、難しいですね。 共感は二心異体、同情は一心同体という違いでしょうか? 共感は、自分の境界をしっかりもっているが、同情には、それがないというニュアンスと私は解しています。 平たく言ってしまえば、共感の気持ちをもって発せられる言葉や態度は、それが自然と相手の立場にたった心のこもったものになるということでしょうか。少なくとも、「大変でしたね」と「つらいですね」と単にマニュアル的に発せられても、そこに共感はないだろうと私は思います。背伸びせずとも自然に患者さんに共感できるようになれること自体が、医師としての自分自身の成長の証かもしれないとも思います。

逆転移(C)とはなんでしょうか? 

そもそも、「転移」「逆転移」が、聞きなれない表現ですよね。私も専門的なことにまで立ち入って説明するのは、自分の能力を超えるかなと思います。 そんな私ですが、あえて言いますと、「医師-患者関係」という治療構造の中で、患者が医師に対して抱く感情を「転移」、その逆に、医師が患者に対して抱く感情を「逆転移」と簡単に考えてしまえばわかりやすいのかもしれせん。(専門家から見れば、誤解がある表現かもしれません。) とにかく大切なことは次のことです。

自分(医師)が患者に対して抱く感情(=逆転移)を意識しましょう。 

無意識下におこってしまうことを、あえて意識下におきます。そうすることによってはじめて、医師は対策を考えることが可能になるからです。つまり、逆転移を意識しようという姿勢そのものが重要なわけです。だから、逆転移があえてこの記憶法のなかに挙げられているんだろうなと私は解しています。

逆転移の一例を挙げましょう。
夜間を狙っていつもインスリンをもらいにくる糖尿病の患者さんがいます。Aさんとしましょう。一方、今日の時間外の医師は、ルールを守ることを大変重視するW医師でした。 そんなW医師とは対照的に、W医師の父親は、いいかげんでルールを破ってばかりいました。W医師は、小さいときからそれを見続け大人になりました。W医師は、その反動を糧に、ルールを守ることを自分自身にずっと強く課してきました。そんな自分だからこそ、今の自分があるという強い自負があるわけです。

W医師は、Aさんを診察しました。そのうちに、猛烈に腹が立ってきました。
なんてやつだ! ゆるせない、こいつ! きちんと時間内に来いよ!
こんな気持ちでした。こんな陰性の感情でした。

これがいわゆる逆転移です。

もし、W医師が、この逆転移を意識しないまま、患者の診察を続けるとどうでしょう。W医師のAさんに対する悪い感情(陰性感情)が、Aさんにも何かの形で伝わってしまい、よけいなクレーム事例にまで拡大してしまうかもしれません。また、W医師自身の内面にも、確実にストレスが蓄積されていくでしょう。時には、冷静な医療判断ができなったゆえの地雷疾患の見落としにもつながるかもしれません。

では、W医師が、自分の逆転移に気がつき、少し診察の間をおき、深呼吸の一つや二つでもして、仕切りなおしすることができれば、患者との無用のトラブルの予防にもなるかもしれませんし、自分のストレス蓄積予防にもなるかもしれません。冷静な医療判断ができる状況に立ち戻ることができるかもしれません。

今回紹介した本P41には次のように書いてあります。

逆転移を自覚することは、長期にわたって患者と関係を築いていく医師にとっては大きなメリットがあります。

自己洞察(I)は、その言葉の意味を説明するまでもないと思います。自分の性格をふだんからよく知っておくことは、臨床の現場の中で自分が求められている責任をはたす時に、今自分が何をなすべきかかが見えやすくなります。性格を意識し、責任を考え、医師としての社会的役割を適正に果たすこと、そんなことを普段から考えておくことが、ここでいう自己洞察に該当するのだと思います。

洞察にゴールはないと思います。結局は、自己洞察を続けることは、自分の人生をどう過ごすのかというところまで到達してしまいそうな気がします。 そういう意味では、医師の自己洞察力が高ければ高いほど、患者もそれに影響を受けて、よりよい患者に成長できそうな気がします。 

そういう意味においても、記憶法の中に自己洞察(I)が入っているのは、すばらしいなと感じた次第です。

私は、CHEC-TIEを思い描きながらいつも診療しています。それでも、関係が上手くいかないこともあります。でも時に、上手く関係ができる場合は、本当に診療行為はおもしろいものだと感じます。


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医師-患者関係を考える<前半> [雑感]

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適切な医療には、良好な医師-患者関係が必要不可欠であることは言うまでもないことです。良好な関係を構築するためには、どちらか一方だけが努力するというわけではなく、両者がそれぞれの立場において、努力することが大事だと私は思います。今回のエントリー構成です。<前半>と<後半>に分けて書きます。

<前半>
良好な「医師-患者関係」構築を阻害する要因を、主に「患者側≒社会風潮」の視点から考えます
<後半>
良好な「医師-患者関係」を構築するために、医師側が検討すべき項目を、ある記憶法とからめて紹介します

それでは、前半です。
<前半>
最近の世の風潮を考えると、患者側(≒社会風潮)の変容ということも指摘せざるを得ません。
例えばこんな記事。下流志向の著者である内田氏の書いた文を見つけました。私は、この方の日ごろの主張をよく知るわけではありませんが、下記の記事については、なかなかおもしろいことを言ってるなあと思ったので紹介することにしました。

常識指南 内田樹 限度超えたクレーマー 2007.08.08 朝刊 文化 (全1,416字) 

利益と不利益 慎重に吟味を

 「モンスター親」という見慣れない言葉をメディアで見かけた。無理難題というほかはない苦情や抗議を執拗(しつよう)に繰り返す保護者や住民のことだそうである。「仲のいい子と必ず同じ学級にしろ」「うちの子の写真の位置がおかしい」「チャイムがやかましい。慰謝料を出せ」「子供のけんかの責任を取れ」…。担任交代要求まであるという。

親が怒りの電話

教育の現場に身を置いていると「クレーマー親」たちの理不尽ぶりに驚かされることが多いのは事実である。先日「はしか」が流行したときに休校措置をとった大学で、受けられなかった教育サービスを大学はどう補填(ほてん)をするつもりかという怒りの電話をしてきた親がいた。感染の危険があるのに予防措置を怠ったというのであれば大学が管理責任を問われるのは当然のことだが、予防措置にともなう「受益者の不便」について補償を求められては学校も立つ瀬があるまい。感染を回避できたという「利益」と受講機会を逃したという「不利益」はトレードオフされると私は考えるが、そういうふうには計算してくれないようである。

だが、
自己利益の確保をあまり急ぐと、むしろより大きな不利益を呼び込む場合があることを忘れてはいけないと思う。

学校の管理責任や教師の教育力不足をきびしく批判する親たちの指摘には根拠があることを私は認める。だが、その批判が学校を子供にとって快適な場所にし、教師の能力向上に資するか、その逆の効果をもたらすかは熟慮すべきであろう。

医療事故も同様である。医療事故をきびしく告発することによって医療の質が向上すれば患者は利益を得る。
だが、訴訟を嫌う医師たちがトラブルの多い診療科勤務を避ければ、患者たちは受診機会を失うという不利益をこうむることになる

自己利益追求のために人々があまりに要求をつり上げ、他者に対して過度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがあるクレームによって確保される利益と不寛容がもたらす不利益のどちらがより大であるかについては、慎重な吟味が必要だろう。

安易な犯人探し

これまでメディアは何か事件が起こるたびに「責任者出て来い」と怒号する「被害者」にほぼ無条件に同調してきた。
クレーマーの増加はメディアのこの安易な「正義主義」と無関係ではない

これまで教師を叩(たた)いてきた人々が今度は手のひらを返すように「モンスター親」を加害者として告発する。だが、大切なのは被害者、加害者の白黒をつけることではない。
自分のしようとしている社会的行動のもたらす利益と不利益を冷静に考量する習慣を市民一人一人が身につけることである。

「100%の正義」が「100%の不正」を告発するという単純な図式こそが、私たちの社会システムの円滑な機能を妨げているという事実に私たちはそろそろ気づくべきだろう。

私は「モンスター親」などというものは存在しないと思う(「モンスター教師」や「モンスター医師」が存在しないのと同じように)。いるのは「いささか常識を欠いた方」たちだけである。被害者と加害者、正義と不正の単純な対立図式であらゆる社会問題を扱う態度こそ「いささか常識を欠いてはいないか」と私は危ぶむのである。(神戸女学院大教授)

おもわず、赤線が多くなってしまいました。それだけ最もだなあと思う主張です。
やはり、私が特に共感するのはこの一文。

他者に対して過度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがある

医療の中において、福島大野病院の産婦人科医師加藤先生の刑事裁判が、まさにこの主張に沿う最も典型的な現実の出来事だと思います。加藤先生を逮捕までして厳しく告発したものの、その結果、(地域の産科)医療が良くなるどころか悪くなる一方になってしまったという結果は、すでに白日の下に晒されています。

今、診療関連死法案が、立法化されようとしていますが、この原案は、まさに、医療に対して不寛容だと思います。診療死を厳しく取り締まろうとし、ことあれば医師を罰してやろうとする姿勢が我々には鋭く感じ取られる原案。まさに、この原案は、医療に対して過度に不寛容であり、この原案通りに医療を運用すれば、日本の医療システムが、まず間違いなく機能不全に陥るものと私は思っています。参考エントリー:診療関連死の理念に異を唱える

次に、社会という巨視的視点においてではなく、一対一という個の「医師-患者関係」の中において、垣間見える患者側の問題を、過去の関連エントリーを再掲する形で、考えてみます。

例えば、次のような事例。ある怒りの電話 というエントリー。エントリーの中では指摘しなかったが、医師が出した薬が効かないということに対する不寛容な人が起こした騒ぎという指摘もできるとも言えます。

この事例はどうでしょうか?苦情対応力って必要? というエントリー。 この場合は、良好な「医師-患者関係」構築は、不可能と判断し、毅然とした対応のほうが功を奏すると思われた事例です。自分の側は、やるべきことをやっているという自負心がないとなかなか毅然とした対応に切り替えるのは難しいものです。そういう意味においても、良好な関係構築のために自分は何をすべきかを知っていることは重要と考えています。これについては<後半>で触れます。

私は、昨年夏に、こんなエントリーを入れました。これも今回のエントリー内容と似通っていますので、ここで参考エントリーとして掲げておきます。ああ、モンスターペイシェント というエントリー。

日ごろ、患者さんと診療を通して接しているわけですが、大多数は、普通にコミュニケーションがとれる患者さんたちです。だれもがモンスター化したとは全然思いません。しかし、メディア関係者が真に反省し、メディア報道の中に浸透する「不寛容性」「他罰性」を改めていかなければ、良好な関係を築きにくい患者さんたちが、ますます今後も増幅してしまうばかりにならないでしょうか? そんな危惧の念はずっと持ち続けています。

メディアと社会は、鶏と卵のようなもので、どちらが先(原因)で、どちらが後(結果)であるとは言い難いとは思います。今の社会変容をメディアに以外に原因を求めるとすれば、それは、戦後の高度経済成長と宗教観の欠如なのかもしれません。

(2月6日 追記)
いかに、メディア報道が世間に向けて、「不寛容性」「他罰性」を煽っているか・・
その具体的事例が、doctor-d-2007先生のブログに挙げられています。
http://ameblo.jp/doctor-d-2007/entry-10070596455.html
見出しに「国に殺された・・・」とあります。見出しとしてこの表現を採択した整理部記者さんの心の中をのぞいてみたいものです。いったいどうなってるんでしょうね?

<後半>へ続きます。


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リスクを認め付き合うこと [雑感]

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今、ギョーザ問題が、マスコミで花盛りだ。まあ、それはそれでいい。被害に遭われた方々も、まったくの災難である。お見舞いの言葉を申し上げるしかない。もし、今回の件が、意図的な有機リンの混入であるならば、それはそれで悪質な事件であり、しかるべき対応が求められることはいうまでもない。

ただ、この事件の報道を通して、私が素直に思うこと

「食品は、絶対に安全にあるべきだ」

という「絶対~べきだ」という思考回路にどっぷりと社会全体が染まってしまってはないかという危惧である。

この思考回路は、認知行動療法の著書で有名なデビット・D・バーンズが、認知の歪の一つとして挙げている。

認知の歪みの10パターン より引用
(※ リンク切れのためこちらのブログをご参考ください→ http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 )

<「べき」思考> 

「~すべきだ」あるいは「~すべきでない」という基準で行動しようとし、そうしないと処罰されるように感じる。 その結果、罪の意識が高まる。
他人に「べき言葉」を乱発している時には、 怒り、欲求不満、恨みを感じているのだ。

記事を引用してみる。記事の端々から、業者を責め、非難する論調を感じ取れる。私は、その裏にメディア側の「べき」思考を感じてしまうのだ。

http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20080130-567-OYT1T00832.html   魚拓
JT「農薬とは思い至らなかった」…ギョーザ食中毒で会見
2008年1月30日(水)23:43

 ジェイティフーズの親会社のJTと、商品を販売した日本生活協同組合連合会(生協)は30日夕、東京都内で記者会見を開いた。冒頭、JTの岩井睦雄取締役が「多大なご迷惑をかけておわび申し上げます」と述べて陳謝。岩井取締役によると、国内に届いた商品のサンプルについて、細菌検査と試食は行っていたものの、農薬について調べる薬品検査は行っていないといい、中断をはさんで4時間以上に及んだ会見で、「農薬とは思い至らなかった」と
弁明に終始した。ギョーザの原材料を対象にした薬品検査は中国の工場側が年に1、2回行っていたという。兵庫県の食中毒事故の後、回収措置を取れなかったのかと問われると、岩井取締役は5秒ほど沈黙して「(事案の概要を)調べるだけにとどまってしまった」と表情をこわばらせた。今後の対応についても「どういう形で防げるかをきちんと検討したい」と答えるにとどまった

ギョーザ問題で、メディアは、JTを叩いている。

「対応が遅いのではないか!」
「1回目と2回目で、きちとしていれば、3回目は回避できなかったのではないか!」

報道陣がこんな質問を投げかけていた光景がTVでも報じられていたように思う。

私は、違和感を感じた。

食品業者の立場に立てば、今回の出来事を予見できて、すぐに対応できただろうか?

と思ったからだ。だから、私はこの取締り役のコメントは無理もないと素直に感じる。

普通、食品生産ラインに、有機リンが安全限度の10倍以上も混入するなんて、考えるはずもないからだ。

たとえ話をしてみよう。

普段便利な水道水。 そこに、水銀が混入した事例が発生した。それは、化学工場の地下を通る水道管に、だれかが悪意をもって、水銀の工業廃液が通る管を意図的に接続した。その結果、ある地域に水銀中毒患者が発生した。こんな事件が明るみに出た・・・

今、こんな事件起きてませんよねえ。 でも、皆さん、起きる可能性は「ゼロ」じゃないですよね。 じゃあ、その可能性を考えて、今から日本全国すべての水道管を調べるであろうか?普通、ことが起きない限り、水道管を特別に調べることはないと思う。だから、リスクとしてそれは存在し続けているわけである。
ただ、メディアが騒いでいないだけのことだ。
でも、実際このことが現実におきれば
メディアは、「水道管点検 杜撰 怠慢 もっときちんと点検しておくべきだった!」とか言って、叩くであろうし、その批判に耐え切れずに、日本全国、水道の一斉点検が本当に始まってしまうだろう。 

私には、そういう風に報道が見える。 だから、取締役のコメントは無理もないと思う。

では、私は食品業者に同情の気持ちを抱くのは、そのことだけだろうか?

そういう自分を見つめてみた。どうもそれだけではなさそうだ・・・・・

わかった。

メディアが、食品会社を責め立てる論理や姿勢は、まさに、医療問題のなかで、我々が彼らメディアから受けている仕打ちと全く同じものだからではないのか?

我々は、医療の現場では、予見が困難であるかという事例であったにも関わらず、メディア報道や司法判定で、
「・・・すべきであったのにできてないじゃないか! だから、お前が悪い」
と言われ続けている。それは、現場の医師の心に、確実にものすごい影響を及ぼし、心折れた医師から順次現場撤退という形の行動化が静かに起こり始め、そして今では、はっきりと世間に目に見える形でそれが表出している。しかも、その動きは、未だとどまるところを知らないというのが今現在の状況である。

社会が「べき」思考で犯された結果、医療が崩壊に向かっている

と私は考えるわけである。

こういう視点でみると、食品業者が叩かれている構図は、医療者が叩かれる構図と似てると思えないだろうか?

そのような冒頭に述べた「べき」思考を文章化すると次の2文。

「食品は、絶対に安全でなければならない!」
「医療は、絶対に安全でなければならない!」

この思考に支配された人(社会)に、何かか「こと」が起こると、こんな反応になる。

「食品会社の責任だ!」
「医療者の責任だ!」

一方で、私達は、食品会社の努力のおかげで、日ごろは、安全で便利な食を提供していただいている。それはそれで、大変ありがたいことだと、私達は感謝したい。その感謝の表明は、残念ながら報道を通して何も伝わってこない・・・・ 当たり前のことには、感謝の意を表明しないというのが今の社会風潮だからだ。

こういう風に考えると、医療業界も食品業界も同じということがわかると思う。

当たり前のことに、人は感謝の気持ちを忘れてしまう・・・

そのことに気がつかせるのもメディアの一つの社会的役割ではないだろうか??
メディアは、それをすっかり忘れているのか、それとも射程にすらないのか・・・・???

では、「べき」思考に犯されないとすれば、どんな風に考える? という疑問が当然出る。

「食品は、安全を目指すけれども、ときに安全でない」
「医療は、安全を目指すけれども、ときに安全でない」

ということではなかろうか?

そう考え直すと、今回起きてしまったことには、ある意味仕方がないとあきらめることも必要ではないか?
もちろん、再発予防の努力が必要なのは言うまでもないが・・・・。
もちろん、犯罪ならば、断罪されてしかるべきであるが・・・・・・・。
しかし、起きてしまった過去のことを責めたてるだけでは、誰もハッピーになれない・・・と私は思う。

世の中、生きていくには、何らかのリスクがあり、それとどこかで遭遇してしまうかもしれない。それは、その人の運命でしかない。時に、その人が、自分自身かもしれないし、自分の家族かもしれない。それでも、やはり運命である。

リスクは避けるべき、努力はする。できる努力はするが限界もある。
そして、リスクが現実化して起きてしまったときは、もう仕方がないと諦める・・・・

いつなんどきでも、思わぬリスクに遭遇して、自分の命を失ってしまうかもしれない。大事な家族の命を失ってしまうかもしれない。それでも、いざとなればそのことを諦めることができるように、「自分の今」を「大事なもの」、「ありがたいもの」として生きておくことが大事だと思う。 自分の死や家族の死を、このような形で普段から自分の心の中にあらかじめ予見しておき、その相対として「今」を生きることともいえるのかもしれない。

そう考えることができる人は、自然と無理のない結果として、豊かな人生を送れると私は思う。

一方、そう考えることができない人は・・・・(どうかこれは、読者自身でお考え下さい)

以上、ギョーザ事件から私が思うことでした・・・・


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昨今の救急報道に関する私見 [雑感]

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今回のエントリーは、昨今の救急報道に関する個人的な視点を述べてみます。ご批判はお受けしますが、コメント上で、議論を戦わすつもりはございませんので、あらかじめご承知おきください。

http://www1.ntv.co.jp/action/theme/02/  

「医療崩壊」過酷な勤務医をサポートせよ
小児科や産科のたらいまわし救急医療など、今、日本中で起きている”命の格差”問題を徹底取材。あるべき「医療体制」の提案を!
というタイトルのブログがあります。報道関係者がおつくりになったブログのようです。コメントも書き込めるようで、医療関係者から多くのコメントが入っています。テレビ関係者は、どうしても、わかりやすく印象的にというところに力点を置くためでしょうか?すでに、サブタイトルに、「たらいまわし」という用語を使用しています。

メディアがこの言葉を使うことによって、メディアリテラシーがまだ十分に育っていない声なき多くの方々に、潜在的な医療不信の根を植え付ける・・・・そして、それが、現場の医師患者関係の構築に支障をきたすということが、どうもおわかりにならないようです。

それは、現場にいらっしゃらないので、無理もないかもしれません。 私も自分のこのブログ上で、「たらいまわし」という用語をメディアが使用することに関して、抗議の意を表明し続けてきましたが、そろそろ、諦めの心境になってきました。

次の報道でも、キャスターさんの原稿に、しっかり「たらいまわし」とあります。

http://www.news24.jp/101208.html   魚拓

06年救急搬送 20か所以上要請104件 <1/16 0:36>

大阪市消防局は15日、救急搬送の際の「患者のたらい回し」問題で、患者の搬送先を探す際、延べ20か所以上の病院に受け入れ要請をしたケースが、06年の1年間に、大阪市だけで104件あったことを公表した。3~4日に1回の割合で起きていたことになる。

これは、動画もみれます(いつまでリンクがあるのかはわかりませんが?)。

救急の受け入れが難しいという医療の現場の状況は、今に始まったことではなく、昔からあることが、今大騒ぎになっているだけという感が、個人的には強いのですが、この昨今の報道により、いい意味で世論が変わってくれることに期待します。そこには政治の力も重要でしょう。医療機関だけが悪くないという認識も増えてきたようには思います。ですが、やはり、こんな事例があるのも事実です。メディア報道が生んだクレームだと私は考えています。

82歳 女性 来院時心肺停止(CPAOA) (症例には、いつもの如く脚色入れています。相当変えました。)

ある当直帯のこと。
当院の救急外来の体制:看護師2名、医師2名(内科系、外科系一名ずつ)、臨床初期研修医1名。 

そんな体制で、午前3時に、ホットラインが鳴った。心肺停止患者(CPA患者)でした。 

このとき、歩いてきた患者さんが外来に2名ほどいましたが、二人とも声をかけて、一端診療が中断する旨を告げました。お二人ともそれは快く理解していただきました。分別のある患者さんたちでした。そして、5名全員で、心肺停止患者に備えて待機しました。 

懸命に、心肺蘇生処置をがんばりました。

約20分後、心拍再開しました。しかし、不安定でした。

まだまだ、その患者さんに外来スタッフがかかりきりにならざるを得ませんでした。

その途中に、ホットラインで新たな受け入れ要請がありました。呼吸困難の高齢男性だったそうです。事務の方に、医療スタッフは、対応不能と返答するように、電話対応をお願いしました。

蘇生をがんばった患者さんは、午前5時ごろにようやくバイタルも低空飛行ながらキープできて、なんとか病棟に上がれるめどが見えてきました。原因は、確定できませんでしたが、誤嚥・窒息を考えました。

そのころです。対応不能とお断りしたはずの呼吸困難の高齢男性の家族から、突然電話が入ってきました。

お宅は、どうしてたらいまわしするのか! すぐ診てほしかったのに。
 今からでもいいから、そっちに救急車で行くから!」

というクレームでした。搬送された別の病院から家族(50台くらいの男性)が電話をかけてきたのです。まさに、旬のクレームです。昨今の報道はこういう人を作ってしまうのです。だから、昨今のたらい回し報道に、現場ははっきり言って迷惑しています。

この家族は、県知事と後日会う予定だから、本日のことを知事に言うといいました。
(本当に知事に言ったかどうかは、確認できていません)

結局、搬送された病院の医師も家族対応に困り、先ほど蘇生処置を終えたばかりのへとへとの内科医師が電話対応し、この高齢男性の患者さんを引き受けました。

午前7時に転送されてきました。

内科医師は、この患者さんと家族に謝罪をしました

そして、心不全増悪の診断にて当院で入院となりました。そして、へとへとの内科医師は、翌朝そのまま、定期外来の診察に入ったのです。

関係者は、クレーム対応として、報告書を作成しました

もちろん、この患者さんもご家族を愛する余り、必死の行動だったのだと思います。

皆が生きるために必死なんだと思います。
病気、死に対する社会全体の認知が、個人個人の行動にきっと影響しているのでしょう

私の思う社会全体の認知とは、「病気・死とは避けるもの、戦うもの」です。
参考エントリー:日本人の「死生観」と私の思い

少なくとも、この家族は、そういう認知が、根にあるからこそ、これだけ必死になるんだと私は思いました。もちろん、それがいけないとは言いません。

しかし、上記のような救急医療現場は、医師が健全にかつ長く働き続けられうる環境でしょうか?政治家の方々に、私の声が届くことを願っています。

ただ、皆の認知が、「病気・死とは避けるもの、戦うもの」であると、医療という社会システムがおっつかない現状もあります。

難しいですね。個人個人の価値観レベルと社会システムを同じ土俵で述べていいのかという危惧も在ります。同じ土俵で述べることが許されるならば、社会システムがおっつくように個人個人の価値観を意図的に誘導するという戦略を日本国がとればよいことになります。それは、それでなんか変だなあとも思います。

私は、病気・死は、戦うものではなく付き合い受け入れるものだと個人的には思っています。
そして、そのような受容感が社会風潮として浸透していくことを願ってやまないとも思っています。

それが、医師も患者も、ハッピーになりうる一つの道だと思います。

私の考えは、個人の価値観と社会システムを同じ土俵で述べたものであり、それは批判を受けても仕方がないと思っています。でも、私には、医師患者関係が、win-winの関係になるための他の手を思いつかないのです。

少なくとも、今の上記引用のメディアが報じた視点(医師不足、訴訟リスク)だけでは、医療崩壊の窮状を脱するのは難しいと私は思います。


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診療関連死の理念に異を唱える [雑感]

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平成19 年10 月、診療行為に関連した死亡の死因究明等の在り方に関する試案― 第二次試案 ―が厚生労働省から発表されました。それをうけて、自民党でも意見をまとめ、今年のうちに、医療安全調査委員会を新設するという議員立法を通すつもりのようです。(詳細はこちら http://doctor2007.com/iken1.html

自民党案は、厚労省のこの第二次試案がその母体となっております。第二次試案と自民党案は、ほぼ同じようなものです。そこで、本エントリーでは、この厚労省の第二次試案の冒頭の理念の部分に対して、私見を述べてみたいと思います。

要は、厚労省がいう理念には、現場の医師の一人として、到底賛成できるものではないということです。

この第二次試案反対の私の考えに、ご賛同いただける方は、是非、こちらの方へ、http://doctor2007.com/ko1.htmlへ署名をお願いします。

冒頭にある6つの理念(以下、引用青字で示した部分)に対して、私は以下のように異を唱えます。

(1)医療とは、患者・家族と医療従事者が協力して行う病との闘いである。したがって、医療が安全・安心で良質なものであるとともに納得のいくものであることは、医療に関わる全ての人の共通の願いである。

最近のエントリーで、私が主張しているのは、病気・死は、各個人が受け容れるものであるということです。医療者は、その受容のプロセスを援助する一支援者に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないというのが、私のスタンスです。上記理念には、「闘い」とあります。この時点で、厚生労働省のお役人たちの頭の中には、『病気=悪 ∴闘うもの』というイメージしか描けていないのだろうなあと私は思います。

安全と安心が並列的に記載されています。 大きな矛盾です。安全は、人の心の外にあるものです。一方、安心は、人の心の中にあるものです。人の心は、千差万別です。悟りを開くような達観した心の持ち主から、「モンスター○○」などと称され常識を逸脱した物の考え方をする心の持ち主まで、世の中には確実に分布しているわけです。当然、その人たちの間では、感じ方が全く異なるであろうし、たとえ同じ人でも、置かれている状況次第で、安心できたり不安になったり、感じ方は様々でしょう。従って、「医療が安心できるものかどうか」というものは、その人自身の感じ方の問題であり、社会目標にはなりえないと私は考えます。安全・安心を理念の中にさりげなく併記することは、読み手を変に勘違いさせる不適切な表現だと私は思います。社会としては、「医療安全」だけを目指すのが筋と考えます。理念の中に、「安心」は不要というのが私の主張です。

(2)医療従事者には、その願いに応えるよう、最大限の努力を講ずることが求められる。一方で、診療行為には、一定の危険性が伴うものであり、場合によっては、死亡等の不幸な帰結につながる場合があり得る。

これも『ちょっと待てっ!』と言いたい。大前提が抜けてますよ! もしかして、意図的に抜かしているのでしょうか?ならば、世の人々を欺こうとする意味で、国は相当悪質だといわざるを得ません。 診療行為はもちろんですが、その前に、
傷病(疾病・外傷)は、どんなに軽症と思えていても、医療が介入する前に、すでに一定の危険が伴った状態であり、その傷病のためだけに死亡という不幸な転帰がありえる

ということを、医療者はもちろんのこと、医療を受ける方々が、これを当然のものとして、理解してもらわねばなりません。国は、医療におけるこの大事な前提を全く国民に啓蒙することなく、現場の医師に押し付けようとしていませんか?この大事な大前提は、理念の中に明文化し、広く国民に伝える責任を国は有していると私は主張します。

(3)不幸にも診療行為に関連した予期しない死亡(以下「診療関連死」という。)が発生した場合に、遺族の願いは、反省・謝罪、責任の追及、再発防止であると言われる。これらの全ての基礎になるものが、原因究明であり、遺族にはまず真相を明らかにしてほしいとの願いがある。しかし、死因の調査や臨床経過の評価・分析等については、これまで行政における対応が必ずしも十分ではなく、結果として民事手続や刑事手続にその解決が期待されている現状にあり、死因の調査等について、これを専門的に行う機関を設け、分析・評価を行う体制を整える必要がある。

診療関連死という定義があいまいであり、問題であるというのは、すでに多くの方が指摘されている通りで、私もそれに異論はありません。ここでは、次の二箇所を指摘しておきたいと思います。

>遺族にはまず真相を明らかにしてほしいとの願いがある

遺族のいう「真相」とは、何でしょうか?これは、遺族の悲嘆のお気持ちの一表現形にすぎないのではないでしょうか?つまり、『私達の心の痛みを癒してくれ!≒真相を知りたい!』 ということではないでしょうか。言い換えると、遺族の真相究明という発言の裏にある「心の痛み」に注目し、社会システムとして対応を考えることが、真の意味での遺族の願いではないでしょうか?だから、心理的ケアに重点を置いた「喪のプロセス」を充実させるシステムに時間と費用と人間を投入するほうが、「真相究明を!」という遺族のお気持ちを和らげることになるでしょう。私は、そう考えます。

>責任の追及

あの~、責任の追及って何でしょうか? 上記に掲げた大前提にたてば、疾病は、生体に生じた自然現象であり、誰の責任でもなく、その人自身のいわば運命ですし、外傷は、その外的エネルギーを生じせしめたものに責任があるのではないでしょうか?ここをあえて明示せず、家族の気持ちのやり場を、医療者に向かうように巧みに仕向けていませんか?国は、やり方があまりに汚いと思います。

そもそも、「死亡という悪しき結果が、診療行為と関係がない」ということを証明するのは、「・・・でない」ということを証明するいわゆる悪魔の証明と同列の論証ですから、ほぼ不可能です。すると、こういう調査機関が、出す結果は、次のような文句になることが、もう調べる前から予想できませんか?

「・・・・という診療行為が、死亡に影響したという可能性は否定は出来ない」

で、その報告を聞いた遺族はどのように感じるでしょうか?
「その行為が、患者を死亡させたんですね。医療者が憎い、謝罪しろ、賠償しろ」
になりませんか?

厚労省の提示するこの第二次試案が、そのまま、世に入ったら、今以上に厳しい訴訟社会の中に、医療は置かれることになるでしょう。 

4)また、遺族にとって、同様の事態の再発防止は重要な願いの一つであり、再発防止を図り、我が国の医療全体の質・安全の向上につなげていく仕組みを構築していく必要がある。

システムエラーに基づく医療過誤を再発防止の観点から、考察していくことには、私も同意します。ですが、この理念を書いた人たちの頭の中は、遺族だけしか見えていないように思います。 事故が起きた場合には、遺族だけでなく、医療者だって心が痛むのですよ。そのことが、その人たちにはわかってないようです。

(5)さらに、このような新しい仕組みにより、医療の透明性を確保し、国民からの医療に対する信頼を取り戻すとともに、医療従事者が萎縮することなく医療を行える環境を整えていかなければならない。

この文面から、国は、次のことを前提としてはっきりと認めていることがわかります。
A)国民は、今の医療を信用していない
B)今の医療環境は、医療従事者が萎縮してまう環境である

さて、国が認めるこの2点は、私も概ね認めます。では、この2点の解決法は、何でしょうか?
この第二次試案でいうところの死因究明でしょうか? それが主でしょうか? 私は違うと思います。

A)のようになってしまったのは、だれの責任でしょうか? 私はマスメディアの責任だと強く思います。だから、A)に対しては、マスメディアの統制が重要だと思います。 国が本当に医療の信頼回復を望むなら、マスメディアを何とかしてほしい。私そう思います。医療報道統制法でもできればいいなあと夢想しています。ほんと、個人夢想のレベルですが・・・。

B)に対しては、なんと言っても訴訟問題です。 ところが、今回の試案では、訴訟問題に対して、何の具体的対策も講じられていない。むしろ、上に書きましたように、調査報告書が、さらに訴訟問題を悪化させることになることは、私は間違いないであろうと推察します。

(6)これらを踏まえ、診療関連死の原因究明や不幸な事例の再発防止、ひいては我が国の医療の質・安全の向上に資する観点から、平成19年3月、厚生労働省では、「診療行為に関連した死亡の死因究明等のあり方に関する課題と検討の方向性」を作成し、パブリックコメントを募集した。また、4月からは有識者による「診療行為に関連した死- 2 -亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」を開催し、8月まで様々な御議論・御指摘をいただいたところである

たった、9ヶ月ですよ。国民の知らないところで、現場の医師の声が届かないところで、勝手に決めてほしくない。こういうことに国は、もっとメディアを利用してほしい。国民の声を聞くためには、国民に情報を届けないといけないのではないでしょうか? メディアは、殺人事件とかは、大々的に報道するくせに、こういうことは、報道したがりません。それは、メディアの商業論理を考えれば、わからんでもないでけど、国は、彼らと上手く交渉し、国民に伝えさせるべきではないですか? 私は、今の試案が、そのまま、制度化されるのは、時期早々と考えます。

一勤務医の心の叫びが、議員の方々の良心に、少しでも届くことを望んでいます。


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日本人の「死生観」と私の思い [雑感]

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皆様、あけましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願いします。

記念すべき今年の第一エントリーは、日本人の死生観のあり方について、自分自身の今年の思いと皆様方への提言とさせていただきました。いつもの症例提示型エントリーは、おいおいと再開していきたいと思っています。

本エントリーのキーワードは、「気づき」、「逆観」、「日本人の死生観」です。 よろしくお願いします。

昨年末のエントリーで、病気・死は悪か? の中で、私は、次のような提言を行った。

むしろ、「病気・死は悪ではない」というスタンスを国が明確に打ち出したらどうですか? 
日本社会の中での、隠れた前提 「病気は死は悪である」=「回避すべきである」
この社会前提を、

「病気・死は、受け容れて付き合うもの」 という

新たな社会前提に改変すべく事業を立ち上げ、そこに技術開発を中止することで浮いた金、人、ものを投入したらどうですか?

しかしながら、病気・死というものは、他者から、「受け容れろ」といわれて、「はい、わかりました」と簡単に納得できるものではない。個人個人の内面にある価値観や人生観と関係するところが大きいからだ。春野ことり先生のブログ、天国へのビザでのエントリー 患者の皆さん、あきらめてください がとても大きな反響を読んだのも、「死を受け容れろ」という医療者側からの挑発とも受け取られかねない刺激的なタイトルが、読者の心を刺激したためではないかと、私は個人的に思っている。

四苦八苦という言葉がある。まさに、今年これからの医療情勢を表現する言葉として、ぴったりではないだろうか?
これは、仏教に由来した言葉だそうだ。仏教はこの世の苦しみは8つあるとしている。四苦とは、「生」「老」「病」「死」だ。これらは、誰にも避けることの出来ない苦しみと教えている。残りの四苦は、「愛するものと分かれる苦しみ」「憎んでいる人と会わなければならない苦しみ」「欲しいものが手に入らない苦しみ」「思いがこだわりを生む苦しみ」とのことだ。

なんだ、医療は、四苦そのものではないか・・・・・ということに私は気がついた。

医療は、どこかで宗教と切っても切れない何かがあるなあと昔から常々思っていたことが、これで腑に落ちた。

長い人類の歴史において、文化や宗教には様々な死生観が登場する。人間は誰でも死について考えずにはいられないからだろう。だが、「死は何なのか」についての答えを明確にしてくれた人は誰もいないし、これからもいないであろう。だからこそ、死は哲学的であり、宗教の教えとつながるのであろう。昨今の日本人の死生観について、奈良大学の大町教授は、その著書「命の終わり」の中で次のように述べている。

ここ5年をとってもみても、2005年4月にJR福知山脱線事故、2004年には新潟県中越地震、2001年には附属池田小児童殺傷事件などが起きている。突発的な事故、災害、事件である。いずれも遺族は、予想もしていなかった。遺族はこの衝撃的な出来事を受け容れられない。心の傷をいつまでも癒すことができないでいる。いつか癒える日が来るなど考えられそうもない。なぜなのだろう?
 戦後、いつからだろうか、われわれは
共同の「日本人の死生観」とも言うべきものを喪ったからではないか。愛する者の死をどう考えたらよいのか。この悲しみをどう癒せばよいのか。今は、遺族一人一人の、いつ終わるとも知れない、長く孤独な作業にゆだねられている。
 日本人はなぜ自らの死生観を喪ったのか。未曾有の敗戦が、われわれの親の世代に、それまでの文化的営為に対する自信を失わせたということもあるだろう。我々の戦後世代は欧米の文化に強い憧れをもったということもあるだろう。
大人たちは、子供に死を語らなくなった。戦後、死生観は空洞化していった。それでも生きることはできた。経済的繁栄という目標が日本人の頭の中を占めていたからである。

なるほどだと思う。日本経済繁栄というめぐまれた社会背景の中で、あまり死を考えなくても生きられる時代に生まれ、死の教育をほとんどうけることがないまま成人を迎えた昭和20年~昭和50年代生まれの人たちが、今そしてこれから、自らの親を「老」「病」「死」によってすでに喪いまたはこれから喪っていくことに直面していくのだ。その中で、その死を癒すことができなかった極一部の人達が、訴訟・責任追及という形で、医療者の前に現れてくるんだと私は思う。それがその人たち自身の苦しみや痛みの一表現であることは認めたいとは思うが、医療者がこういう一部の人達のために、モチベーションを失い、辞めていくのは、現在進行中の医療崩壊の一部の形であることだけは間違いないと思う。決して、私は訴訟を起こす人を批判しているわけではない。ただ、起こされる側の気持ちを表出しているだけである。それだけは、誤解のないように言っておく。私自身も訴訟されるぎりぎりのところまでなら数回経験しているが、それでも、自分の心にのしかかるプレッシャーは相当なものだった。もし、自分が訴えられたら、私は、とうていもう医療を続ける気にはならないだろうと思う。私のこの感覚は、ごく普通の医療者の感覚の平均像ではないだろか? 医療者の責任追及!責任追及!と主張される方々には、ぜひ今一度、自分の内面をよく見つめて考えてみてほしいものだと思う。責任追求以外にもっと他の考え方はないでしょうか?と。もっと違う考え方をすれば、あなた自身の苦しみや痛みの感じ方が変わってきませんか?と。

もちろん、私は、死や病気を受け容れるべきだという考えを一方的に押し付ける気持ちはない。個人個人が、自ら考え、自ら納得することが重要だと思っているからだ。 そして、医療者のあり方としては、医療者からの押し付けではなく、個人個人が自らの気づきを促せるようなアプローチができることが理想だと、私は考えるようになった。それは、次の書物との出会いが大きい。患者の気づきの援助という視点において、関西医大の中井教授は、その著書「いのちの医療」の中で次のように述べている。

患者さんなら患者さんの病にも、必ず意味があるんです。僕はどの患者さんにも、あることを必ず聞くんですね。それは聞き方は聞くタイミングが非常に難しいんですけど、「病気になってよかったことはどんなことですか」って聞くんです。
 そうするとはっとされるんですね。病気によって自分がどう変わったか。一生懸命考えられて、なかなか答えがでないこともあります。こういうことを「逆観」というんです。仏教の言葉です。-逆の見方をしてもらう。病気イコール悪と考えないと言いましたね。
「病気になってよかった」というのは逆観です。
                         ・・・・(中略)・・・・・・・
 「失明してよかったことは・・・・」-患者さんもすぐそういう答えを言われるんですか。やっぱり、ものすごく腹がたつということをまず言われますね。僕みたいな答えを言う人はほとんどいないんです。でもそこで僕の考えは言わないで「そういう考えもあるでしょうけど、もっと違う考え方はないですか」と言いながら、
自分のこころの中に入っていってもらって、気づいてもらうんです。

病気や死を逆観すれば、さまざまな気づきがあると思う。中井先生のこの本から、私はそういうことを教えていただいたような気がする。 私は、地雷疾患は避けるべきものだとばかり思っていた。しかし、逆観してみれば、「(地雷疾患で)突然だったけど、苦しまずに逝けてよかったね」ともいえるわけである。ときには、そういうことを残された御家族に気づいてもらう援助を私達がお手伝いさせてもらうことがあってもいいのではないだろうか?

私は、最近、佐江衆一の「黄落(こうらく)」を読んだ。これは、父92歳、母87歳の高齢の老親を介護する夫婦の苦悩を描いた小説である。 自ら食断ちをして死のうとする母、それを認める子・・・・・・。このスタンスには、賛否両論があるだろう・・・・。難しい問題だ。

私が、内科病棟で勤務していたときのこと、一人の90代の高齢女性を看取った。自力歩行は厳しく、認知症もありコミュニケーションは困難な方だった。そんな高齢女性が、脱水と発熱で当院の時間外に緊急入院になったのだ。すでに患者さんの子供達は全員他界し、30代の孫娘が一人で世話をしているという家族背景だった。自分の子供達に全て先に逝かれ、さぞつらかったことだろう。そんな患者の思いは、孫娘に伝わっていたようだ。

私    「もうだいぶ弱っておられます。自分の口でお食事を食べるのは難しそうですね。
        どうされますか?」
孫娘 「自然の経過にお任せします。
       昔、お婆ちゃんは、早く息子や娘達のところに行きたいとよく言ってましたから」

私は、それでも、胃ろうや経管栄養、IVHなどの選択肢があることを説明した。
孫娘は、末梢点滴だけを望んだ。固い決意だった。私もそれを受け入れた。

その10日後、患者さんは静かに息を引き取った。臨終の際の孫娘の涙をみて、私は、きっとこの方の人生は幸せだったんだろうなと思った。孫娘さんも、きっとこの死を通して、今後自分の人生にプラスになる何かを感じ取ってくれたことと思う。

黄落と似たような状況である。誰も言葉にこそ出さないが、でも確実に、医療の中で「死」を目標にしていたのである。

今、診療関連死が、十分な議論を経ることなく、その定義もあいまいなまま、医師の処罰だけはしっかり明確化されただけのある法案が国会に出されようとしている。死に行く人や残された家族やそれに関わった医療者の心は置き去りにしたままに・・・・・。当然、日本人の「死生観」の配慮なんか、どこにもない。これを作った人たちの心の中には、死は避けるべきものという絶対前提しかないんだろうか?と私は感じてしまうのだ。

私は、この法案には、断固反対の立場をとる。我々も対案を出しつつ、もっと熟慮する必要があると考えるからだ。

私のこの体験だって、取り様によっては、診療関連死にできてしまうのだ。一人でも心情的に納得できない家族が入れば・・・・。 そんな状況になってしまえば、我々は、どうやって医療を提供すればいいのだろうか?

人が死ななくなった(死ねなくなった)今の社会・・・・。社会システムとしては、想定外の高齢社会となってしまっている故に、医療費、年金、住居、介護・・・・にしわ寄せが来ているように思う。政府を批判するのは簡単だ。しかし、批判はできても解決は難しいというのは、心の中で誰もが認めていることではないだろうか?そんな中で、様々な葛藤がある。医療者は、望むと望まざるに関わらず、その渦中に入り、なんらかの社会的役割を要求される。

共同の「日本人の死生観」が欠如していては、私達医療者もどう立ち振る舞っていいのか、ただ戸惑うしかない。個人個人の死生観に関する信念は、それを「モノクロトーン」で例えて言えば、「真っ白のトーン」から「真っ黒のトーン」まですべてにわたって分布していると考えられる。だから、医師だけの「トーン」で、患者のためによかれと思い行動しても、家族との「トーン」との違いから、対立が生じてしまうことが多々あると思われる。そして、そこに不信感があれば、もう目も当てられない惨状となる。

喪われた共同の「日本人の死生観」を復興させる私なりの提言をする。まず、医療者自らが、自らの内面を見つめ、まず自分でそれを考え、考え続けること。そして、次に、私達医療者が、その専門性に関係なく、患者に積極的にこのような気づきのアプローチをしていくこと。それらが、私達医療者が出来うる現実的なささやかな第一歩なのかもしれない。そして、それらが「個」から「社会」レベルへと上手く拡充していくとき、ようやく初めて、新たなる共同の「日本人の死生観」なるものが構築されていくのだろうと思う。少なくとも、私は、そう考えて、自らを見つめなおすとともに、今年、これから出会うであろう患者には、このような気づきのアプローチで接していきたいと思っている。

誰かに死生観を決めてもらおうというスタンスでは、いけないと、私は個人的には思う。とにかくまず自分で考える。その上で、他人との違いは違いとして認め、共通の落としどころを模索することを容認する・・・・。そういう個人レベルの人間的成熟がないと、当面の医療は社会システムとして上手く回らないであろう。私はそう思う。しかし、言うは易し、行うは難しである。だからこそ、宗教の存在が社会に不可欠なのだろう。それは、ある意味、自分の死生観を決めてもらうことになるのだから。


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死の意味を考える [雑感]

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前エントリーで、病気・死は悪か?という問いかけをしました。 ハッスル様、HDs様、じゅん様、 フィッシュ様のコメントを拝見させていただきましたが、それぞれに貴重なご意見だと思いました。その中で、一点引用をさせていただきます。

フィッシュ様のコメントより

生きること、病むこと、老いること、そして死ぬことはどういうことなのか考えを深めていくことで、必要な医療とは何かの答えがみえてくるのでしょうか。

得てして、人は、自分が不治の病にかかったとわかったときに初めて、このことを考える人が多いのではないでしょうか? そして、このときに、多くの人は痛みを感じます。 医師は、その痛みを感じている患者と接する以上、それにどんなものがあるのか知っておくことは大切かと思います。

突然の病気や事故に対して、 患者自身があるいは遺族が・・・・・
「なぜ、自分だけが・・・・」 「どうしてあの人がこんなことに・・・・・」

これは、患者や遺族の痛みです。spiritual painといわれるものです。 医師の中でも、それに対応するのは看護師の仕事で、自分は自分の専門があるからそれに邁進すべきだと考える人もきっといることでしょう。 チーム医療としてうまくいくときはそれでもいいのかもしれない・・・・・。だけど、私達、医師の言葉や態度は、私達が考えている以上に、患者側は重く受け取ってしまう場合も多々ありそうです。ならば、私達医療者は、自分達の発言と行動を深く自己洞察できる自己管理能力が要求されるのだと思います。患者が感じるspiritual painを全て理解することは出来なくても、それを理解しようと努力する姿勢は、自分の自己洞察にもつながり、どの科の医師にとっても有益なことではないかと思います

フィッシュ様のコメントにあるようなことを、医療者側も患者側も、普段の日常時に、時々考えてみることは、いざというときに役に立つのかもしれません。言い換えれば、上手くspiritual painを乗り越えられることになるのかもしれません。

さて、このブログでは、地雷疾患が主テーマです。地雷疾患は常に死と紙一重ですから、医療者側が感じる患者の死の受け取り方についても書いてみたいと思います。 医療者側からと言うものの、あくまで、私個人の経験ベースであり、私の言うことが、どこまで医療者一般に拡張してよいものか・・・・それは私にはわからない ということだけは断っておきます。

早速症例に入ります。 「左肩痛」という地雷 ですでに紹介した事例を再掲します。

62歳 男性  主訴 胸痛

高血圧で、循環器内科かかりつけ。昨晩、呼吸苦、胸の痛みが出現したため、朝になるのを待って、循環器内科外来を受診にきたとのこと。担当した外来医師は、心電図、血液、レントゲン、エコーなど一通りのオーダを出し、患者に各部署を回ってもらうようにした。患者が胸のレントゲンを取り終えて、レントゲン室から循環器外来までの同一フロアー平坦の約70mぐらいの道のりを戻る途中、あと外来まで20mくらいを残すところで突然倒れた

第1発見者は、通りがかりの男性医師
「どうしましたか!とうしましたか!」
反応がない・・・

続いて、通りがかりの女医さん
「ERへつれていきましょーーー!!!」
「ストレッチャー、だれかもってきてえええ!!!」

救急部は、比較的おだかやかあったところ、その二人が、ガラガラとストレッチャーの大きな音をたてながら、「急変!急変!」と救急外来に突然なだれ込んできたのだ。

すぐに救急部の医師たちも患者を観察

「あえぎ呼吸、脈触れない」「心臓マッサージ!」「モニタ!」「除細動器!」

あっという間に、蘇生チーム部隊ができあがり、処置開始。「PEA」「挿管」「確認」「ポータブル胸写」淡々と型どおり蘇生は続く。

写真ができた。最近の一枚、先ほど急変直前にとった一枚、そして急変後に今とった一枚3枚を並べてみた。(下の写真の通り)

皆が息を呑んだ。
TAA(胸部大動脈瘤)のラプチャー(破裂)だ・・・・・・。
だめだ、無理だ・・・

私が、奥さんに別室で病状説明をした。救命は無理だと。

奥さん
「わたしはね、救急車を呼ぼうかといったんですよ。夜中に。でも、朝まで待つって本人がどうしてもいうものだから・・・、それと昨日も肩が痛いって言って、整形外科で痛み止めの注射してもらってたんですよね。」


「え、き・昨日・・・、左肩・・・ですか」
おそらく、前日の左肩痛は、大動脈瘤の拡大との関連から来ていたものであろうと思いはしたが、その場では何もそれ以上言えなかった。

救急外来に運ばれてきて、30分後、死亡確認を行った。

(以上が、再掲の事例)

大動脈瘤破裂のように、突然に患者を失うということは、医療者側にとっても、純粋に心が痛むものです。 その心の痛みは、「あのとき・・・・すれば、助けられたのではないか」という自責の念が中心となると思います。 自分でそう思えたとき、私達は、次の診療では、ここをこういうふうに・・・してみよう とか前向きになれるのです。 ところが、昨今では、同じ思いを、他者から、「あのとき・・・・すれば、助けられたはずだ」と私達は、強制されるようになりました。 これでは、私達は前向きになれません。むしろ、後ろ向きになります。

私達は、患者を失ったときの痛みがあるからこそ、次の診療でファインプレーができるのです。私はそう思います。

最近の自験例を紹介します。

56歳 男性  胸痛  

肥満、糖尿病、高血圧などに加え、胸部大動脈瘤(50mm)がすでに指摘されて、慎重なフォローがされている患者。 軽度の胸痛を認めたため、独歩で当院救急外来を受診。胸痛は、左側胸部で、持続は5分くらい?、冷汗なし、嘔気、嘔吐なし、移動する痛みなし、あごや左肩への放散なし。 来院時、症状ほぼ消失。意識清明 見た目に元気。血圧130/65 脈121 KT35.7 RR 16 SpO2 98 心電図は、洞性頻拍であるが、他特記すべきことなし。

患者カルテをみた。胸部大動脈瘤あり、フォロー中。60mmになれば手術紹介予定でムンテラ済みなどがわかった。 予診表には、胸痛と一言だけ。
私は、この時点で、この患者には、何があろうとCTが必要と考えた。患者をまったく見てない段階での判断だった。 それは、先に掲載した破裂事例のことが私の心に浮かんだからである。 患者急変の落差を身をもって知っているからこそ、決断できるジャッジである。 

患者のところに行く時点で、そう決めているから、話は早い。 患者は、一番隅のベッドサイドで、Nsがバイタルをとり予診し、心電図をとっているところだった。 
「それが、終わり次第、すぐに処置室へ行こう。そこで診察する」と私は告げた。
「はい!」と患者が、いきなり臥位から座位の姿勢をとろうとした。 私は、冷えた・・・。
「ちょっとまてえ・・・・。静かに行きましょう。静かに・・・・」と患者を制した。

そして、奥さんに告げた。
「お元気そうですね。もし、今日の症状が、瘤と関係しているものかどうかは、まだわかりません。ですが、もしそうだとすると、今すぐここで破裂して即死するかもしれません。だから、私達は、いまから、そういう最悪の状況を想定して、診察を進めます。ですので、診察場をここではなく、一番急変に対応できる場で、診察をすることにします。」

それから、問診をした。心エコーをした。 う~ん??という感じである。 肥満体系でエコーの条件も悪く、胸水貯留や心のうえき貯留はないように思えた。病歴を整理しても、もともと狭心症がありそうな感じで、今回のエピソードも、急性冠症候群というには、ちと弱い病歴だった。 患者が、右足も痛いというし、休んだらすぐ直るというし、いわゆる閉塞性動脈硬化症(ASO)のような症状のこともいう・・・・。 胸のレントゲンも著変はない。ただ、なんで頻拍なのだろうというのが引っかかる点だった。

それでも、この患者は、瘤の変化がないということを100%つかんでおかないと返すわけはいかないと最初から決めていたので、なんの躊躇もなく、CTの段取りへ進んだ。

程なく、CT室から、一人の研修医が血相を変えて、走ってきた。
「先生~~! やばいです。切迫破裂です」
「ええ~、まじ」 と私。

なんと、左胸腔内と心のう液に血液と思われる像(黄の矢印)がしっかりとCTに写っている。過去のCTと比べると、大動脈弓部に存在する瘤のサイズが心持ち大きくなっているような印象はるが、さほどはっきりはしない。しかし、血液が血管外に漏れているのは100%間違いがない。これで、頻拍の理由も納得だ。

奥さんに告げた
「まさかのことが、現実になりました。大至急、心臓血管外科のある病院を紹介します。その途中で、破裂したら救命できません。最善の注意を払って対応します」

処置室へ移していたことが功を奏した。急変に備えてすぐに循環器の医師の応援も頼み、私は、その間、転送交渉を開始した。循環器の医師が、厳密な血圧コントロール(厳格な降圧)を率先して始めてくれた。 なんとか、転送先も決定した。 私は、急変のセット一式をもって、救急車に同乗して、転送先までついていった。

間一髪の症例でした。 胸部大動脈瘤の既往歴が、情報として入ってこなければ、まずすぐにCTをとることはない病歴だったし、破裂の恐ろしさを実体験したことがない医師ならば、患者の見た目の元気さに引っ張られて、まあ、あるのはわかってるけど、こんな症状なら、大丈夫でしょう・・・と判断してもぜんぜんおかしくないケースだったと私は思います。

まさに、この症例は、私の中での患者の死が、次の患者の救命につながった事例だと思う。言い換えると、62歳男性の死が、私という医療者を介して、56歳の男性を救ったと考えることができると思います。

医療で患者を失ってしまったとき、皆様が、そのご遺族の立場に立ったとき、様々痛みが生じることとは思いますが、医師も痛いのです。 私は、だから、遺族の方にお願いがあります。医師の痛みも考えてほしいのです。 そして、私の二つの事例のように、次に患者の死がその医師の中で次の生へと結びつくかもしれない と考えてほしいのです。併せてそう考えることで、患者の死の意味を前向きに捕らえることができないでしょうか?

どれほど、医師が患者の死に心を痛めるのか、それが、他者からの強制ではなくて、自らの気持ちであるのか。それを端緒に示す事例は、福島大野病院の加藤先生ではないでしょうか? 私は涙がでました。 こんな先生を逮捕する日本は、狂っているとしか言いようがありません。 紹介します。ロハスメディカルブログより。
http://lohasmedical.jp/blog/2007/12/post_991.php

弁護人 遺族へ謝罪には行かれましたか。
加藤医師 はい12月26日に伺ったと記憶しています。
弁護人 誰と行きましたか。
加藤医師 院長、事務長、H先生と私です。
弁護人 次に遺族と会ったのはいつですか。
加藤医師 事故調査委員会の結果が出た時、その説明をするからということで病院に来ていただいて説明しました。墓前にも報告して謝罪してくれというので行きました。お墓を教えるから土下座してきてくれと言われたので、してきました。
弁護人 どういう気持ちでしたか。
加藤医師 亡くならせてしまったという気持ちが強くて本当に謝罪したいと自然に土下座しました
弁護人 その後もお墓参りに行っていますね。
加藤医師 はい、逮捕前までは、月命日の前後の休日に行かせていただいていました。逮捕後は年1回命日に行っています。
弁護人 まさに命日が過ぎたばかりですが今年も行きましたね。
加藤医師 はい。
(略)
弁護人 最後にAさんとご家族に対して、どう思っていますか。
加藤医師 私を信頼して受診してくださっていたのに、亡くなってしまう悪い結果になって本当に申し訳なく思っております。当時、突然亡くなられて私もかなりショックでした。亡くなられてから一日中、初めて受診した日からお見送りした日までの色々な場面が頭に浮かんで離れませんでした。ご家族の方に分かっていただきたいとは思っておりますが、なかなか受け入れていただくのは難しいのかなと考えております。こういう風にすれば良かったのかなとか、いい方法はなかったかなと思いますが、あの状況で他のそれ以上の良い方法が思い浮かばないでいます。亡くなってしまった現場に私がいて、その現場の責任者が私のわけで、亡くなってしまったという事実があるわけで、その事実に対して責任があると思われるのも当然だと思います。できる限りのことは一生懸命しました。亡くなってしまったという結果はもう変えようのない結果ですし、私も非常に重い事実として受け止めております。申し訳ありませんでした。最後になりましたが、Aさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

1時間ほどで弁護側質問が終わり、検察側の質問。
相変わらずS検事が口調は穏やかだが
何を聞きたいのか分からないような事でネチネチ食い下がる。
加藤医師は弁護側に答える時はゆっくりしっかり話していたのだが
検察側の質問には声が小さくなり言い淀む場面が増える。
もっと胸を張って堂々と話せば良いのにと思って、ふと気づいた。
まるで「いじめっこ」の前に出た「いじめられっこ」のようなのだ。
素人がこんなことを軽々しく言うべきではないのだが
加藤医師は検察によるPTSD状態ではないか。

たとえ無罪判決が出ても
リスクのある周産期医療の現場はもちろん
臨床現場に復帰できないかもしれない、そんな気がした。
警察を招き入れることになった県の調査報告書の罪
そういう報告書を出さざるを得なかった役所の論理の罪に
強い怒りを覚えた。

加藤先生がこの裁判に巻き込まれている限り、どこかで、本来は加藤先生に救われる人が、その恩恵を受けられていないということを、私達はもっと気がつくべきである。このケースは、患者の死が、次の生にまったく生かされていない・・・。いったい、日本社会は何をしたいのだ!私は強く言いたい。死の受容感の欠如、医師の心の痛みへの無理解・・・・・、今の日本社会に根付く心の病理が、福島大野病院の逮捕・刑事裁判事例から垣間見える気がしてならない。これを繰り返せば、私を含め、確実に日本から医師がいなくなることでしょう。


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病気・死は悪か? [雑感]

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人間誰しも、自分は健康でいたい。だから、健康を脅かすもの・・・病気・死・・・・ それは、避けるべきもの、回避すべきもの  と人は思う。 科学が発展し、人は、その思いを形にし続けるべく、先人達は努力してきた。 そして、その結果として、今の高度に専門分化した医療体系が存在する。 発展にゴールはない。 今でも、各分野で、さらなる努力が続けられているだろう。 しかし、ゴールがない発展の先に待っているのは、果たして何であろうか? 私には、それが見えない。 いや、見たくないだけなのかもしれない。 

極端な例を考えてみよう。 髪の毛一本から、元の人間が完全再生できる技術が現実化したと仮定しみよう。

皆さんは、どうしますか? 
自分が愛する大切な人が、理不尽な交通事故や殺人事件で、失われたとしたら・・・・・。
その状況で、この完全再生術が使えるとしたら・・?

多くの人が、その技術にすがるのではないでしょうか? そして、社会もそれを容認するのではないでしょうか?

では、次の場合はどうでしょう?
自分が愛する大切な人が、突然の脳出血で失われたとしたら・・・・・・・・。
その状況で、この完全再生術が使えるとしたら・・・?

技術にすがる人もいるでしょうが、社会として容認すべきかどうか・・・・? どうでしょう、微妙かもしれませんね。

では、次の場合はどうでしょう?
自分の愛する大切な人が、末期のがんで、余命いくばくもないとき・・・・
家族が、もういちどその肉体をよみがえらせてほしいと
その完全再生術を懇願したとしたとしたら・・・・?

これは、行き過ぎだろうという意見が、社会レベルとしては優位を占めるのではないかと推察します。
(当該者が納得できるかは別問題として)

3つの事例を出しましたが、これらの共通点は、「死」です。
ただ、その死に方のプロセスに違いがあるだけです。

つまり、ここで掲げた命題は、「死」の線引きの問題ということになります。

「死」からの再生の技術が存在してしまうと、人類は、こんな難題と直面化することになります。

もう少し、現実に戻って考えなおすと、
まさに、移植医療の是非は、この「死」の線引きの問題と直結していています。
「尊厳死」の問題、「救急現場における人工呼吸器の停止」の問題も、同じような問題です。

科学が発展すればするほど、そういった難題がこれからも次々と出てくるのではないかと予想されます。

果たして、それでいいのでしょうか?

ここに、素直に命題を提示します。

「病気・死は悪か?」

医療費削減の方針を、国は頑として動かしません。強い、強い決意です。一方では、医療技術を含め多方面の科学技術の発展に力を注ぐことに余念がありません。

私は、どこか矛盾していると思っています。

医療費をどうしても削減したいのならば、技術発展を、もうええやんとそのくらいで・・・大胆にとあきらめ、多くの技術開発をもう中止にしたらどうですか? 金、人、ものが浮きませんか?

むしろ、「病気・死は悪ではない」というスタンスを国が明確に打ち出したらどうですか? 

日本社会の中での、隠れた前提 「病気は死は悪である」=「回避すべきである」

この社会前提を、

「病気・死は、受け入れて付き合うもの」 という

新たな社会前提に改変すべく事業を立ち上げ、そこに技術開発を中止することで浮いた金、人、ものを投入したらどうですか?

本日のエントリーは、一国民としての戯言に過ぎません。 ですので、違う考え方の人もあまり噛み付かないで下さいね。 

もし、国民皆が、こんな心性になってくれたら、ずいぶんと医療もやりやすくなるだろうなあと私は個人的に思います。


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医師新組織に期待 [雑感]

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当ブログでは、地雷疾患にまつわる話題を取り上げ続けている。医師が言うところの地雷疾患とは、いかなるものか? それについては、このエントリーをご参考いただきたい⇒地雷番付表

地雷疾患に当たるということは、患者側にとっては命を失うことに匹敵するし、医師側にとっても、あらゆる意味でダメージが大きい。地雷疾患発生そのものは、患者側に課せられた運命的なものである。だから、たとえそれがどんなに過酷な結果であろうとも、本来、医師側に何の責任もない。とはいうものの、それでも、医師は、患者を助けるべく日々努力をしている。ある意味当たり前だ。

ところが、昨今の事情から私が感じることは、医師側は本来無責のものであるという前提がどこかに追いやられてしまっていないかということである。

私が、地雷疾患に敏感になっているのも、そういう昨今の事情をひしひしと感じるからかもしれない。

医師が地雷疾患に敏感になって診療することで、確かに一部の人は、それで命が助かるであろう。しかし、どんなにがんばっても助からない命もあることは、未来永劫変わりない真実であろう。

医師のほとんどは、ただ目の前の患者に対して、なんとか力になりたい、良き援助者でありたいと思っていると私は信じたい。患者の命を助けるだけが医療の全てではない。死んでいく運命にある患者にどう専門家として援助していくかも重要な医療と私は考えている。

いずれにせよ、医療者が、目の前の患者の援助者でありたいという思うモチベーションを抱き続けることができる社会を、私は切望する。

そのために、なんとかしたいと私が考えている医療問題を、地雷疾患とからめつつ、
まとめてみたのが下図である。

(黄色の円)
地雷疾患を早期発見するには、相当な知力と判断力が必要である。そして、専門治療を受けるためには、専門医の労働環境整備も合わせて必要だ。つまり、早期発見にしろ、専門治療にしろ、医療者が力を発揮できる労働環境の整備が必要である。

(緑の円)
地雷疾患がときに回避不可能なものであるということを患者側にわかってもらうためには、医師-患者間の信頼関係が必須である。マスメディアによる商業報道は、往々にしてその阻害因子となりやすい。医師側からマスメディアに対する的確な医療情報を提供しつつ、メディアに協力を求める必要はあるであろう。同時に、マスコミ情報の受け手である一般の方々には、メディアリテラシ-という考え方を普及させていく必要があるであろう。大淀病院の初期報道のあり方は、断固改善されるべきだと考える。

(青の円)
医師-患者関係が良好であったとしても、やはり医事紛争は亡くならないであろう。利害の対立があれば、紛争は必発であるのが世の常だからだ。ただ、医事紛争によって、医師個人個人が、とほうもないダメージを受けるような社会であれば、医療資源保持の観点からは大きな喪失である。地雷疾患の診断プロセスにおいて、医療確率論の問題(=不確実性の問題)を伴うことが多い。ところが、裁判の現場においては、後知恵バイアスに基づいたとんでもない判断(=医療確率論的には破綻した論理としかいえない判断)が下されることもある。だからこそ、適切な医療判断を提供するという意味において、医事紛争支援は重要な課題と考える。

私には、自分をとりまく医療問題が、このように見えています。

医師新組織が、新たな力となってくれればと、私は期待しています。 1月13日、参加します。

会の名称  1.13全国医師連盟 設立準備委員会 総決起集会
日時       開始 2008 年 01 月 13 日 13 時 00 分
          終了 2008 年 01 月 13 日 17 時 30 分
場所       東京ビックサイト、会議棟7階
東京ビックサイト(東京国際展示場)
http://www.bigsight.jp/general/access/index.html
会議棟703号室
http://www.bigsight.jp/organizer/guide/guide_meeting.html
参加資格 準備委員会会員および新組織設立に賛同される方
          (参加事前登録が必要です。)先着150名

集会内容  1小松秀樹先生による医師への激励挨拶(約20分)
         2本田宏先生による激励講演(約100分)
        3主催者による報告と行動提起

会費        医師 2000円、その他 1000円
主催        全国医師連盟 設立準備委員会
*参加事前登録  非会員の場合は、氏名、住所、職業、所属、年齢、
  連絡先(アドレス)を記入の上、【1.13集会参加希望】 と明記して
  zai@doctor2007.com まで御連絡ください。


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ある悲しい医師の死 [雑感]

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医療は、人の生死に関わる問題を扱う分野である。 生物は、その本能として、生き続けることを目標として行動を選択する。 それは、ホモ・サピエンスとて例外でない。 社会生活を営むホモ・サピエンス達は、したがって、その生への本能を、社会システムの中に組み込もうとする。

よって日本においては、医療は、誰でも公平に受けられるように、つまり、誰もが平等に生への本能を満たすことができるように、そのシステムが組まれているのだ。

そのシステムの中で、医療者は、社会の期待にこたえるべく頑張り続けてきた、
しかし、今、医療者達は、世の期待に答えることがだんだんと難しくなりつつあるのだ。
それは、社会そのものが医療者たちへ向けてきた無限の要求を求め続けた中での、当然の帰結なのかもしれない。それでも、使命感に富む誠実な医療者達は、今尚世間の期待にこたえるべく、自己奉仕を続けているのだ。

果たして、それでいいのだろうか? 今、世間はそれを真剣に考える必要があるのかもしれない。

ある二人の医師の悲しい死が、なな先生のブログで紹介されている。当ブログでも紹介させていただく。
心からご冥福をお祈りします。

タイトル 「犠牲」 http://blog.m3.com/nana/20071120/1

悲しいお話でした。 皆さんは、どのようにお感じになりますか?

最後になな先生は、こう言っておられます。

二度と犠牲者を出したくありません。

どうしたらいいでしょう。

この疑問点に関して、私なりに考えてみた。

医療者という社会集団と、医療を受ける側という社会集団(=一般社会)の関係を、個人対個人の関係に准えて考えてみた。

医療者に社会から突きつけられる要求は、基本的は際限が無い。それは、先に書いたように、ホモ・サピエンスとしての生への本能が根底にあるからだ。

私は、これを、一医師 VS 一境界例の患者の関係に准える。

つまり、境界例の患者に対して、医師が誠実にかつ無批判に患者の要求に答えれば答えるほど、その要求は無制限にエスカレートしていき、まして、一旦そんな関係になった中で、要求に応えられないものなら、それはそれはすごい勢いで今度は攻撃されるのだ。

じゃあ、どうしたらいいのか? 患者との関係に限界設定の枠組みをしっかりと設けることである。

つまり、ここまではできるけれども、これ以上はあなたの要求には答えられませんとNOの基準を作ることなのである。( 参考URL 限界と境界の設定 )

今、医療者は、一般社会に対して、はっきりと、NOと言えているだろうか? 私は言えてないと思う。

先の福島県での救急症例受け入れ困難事例での対応を見てもそれは明らかだ。現場には直接関係しないであろう長老たちが社会に対していい顔をしてるだけではないのかと勘ぐりたくなる。
関連ニュース:「病院は原則受け入れ」福島、搬送遅れ受け決定

こんな労働条件では、私達は、医療はできません

こういう声を挙げていくことが、二度と犠牲者をださないことの具体的な方策である気がしてなりません。

小松先生は、勤務医の団体の設立の必要性をはっきりと言っておられます。日本医師会では役不足だということです。
( 参考URL 日本医師会の大罪 )

新しい勤務医医師会の団体の設立の動きはこちらです。
御参考ください。http://www.docters.jp/?m=pc&a=page_o_sns_privacy

追記です。

患者も知って! 医師の過労・過労死の実態 からの引用です。

「医師の過労は患者にとってのリスク。医療を受ける側は声を上げなければならない。日本はここ10年、世界一厳しい医療費抑制策をとってきたが、見直さなければならない」
と、医師の労働環境改善には患者側からの働きかけも必要であることを強調した

同意です。是非、患者側からの皆様からも声を上げてください。お願いします。


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誤診(?)だけど感謝 [雑感]

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私は、誤診という言葉が嫌いです。なぜならば、診断プロセスは確率に依存している一面があり、我々は同じ医療行為を正しく適切に粛々と行っていも、ある一定の確率で、想定外の結果は確実にあり得るからです。

診断の確率論のエントリーはこちらです ⇒ 診断とは確率にすぎない
繰り返し行う医療行為の確率論のエントリーはこちらです 
⇒ 合併症を算数する  合併症を算数する(続編)

ある想定外の結果が現実のものとなったとき、例えば、最初の診断と異なる診断が事後に判明したとき、つい、「あの医者に誤診された」と感じてしまう人も多いと思います。医師の対応の印象が悪ければ悪いほど、その感は、増大するでしょう。それは、「誤診」という言葉の響きの中に医師患者関係の「不信」というニュアンスが含まれているからだと思います。

少しでも多くの人に、私たち医療者の思考プロセスや、医療の不確実性(確率依存性)の概念を理解してほしいと思います。

一方、我々は、そのような不確実性を現場の中でどのようにわかりやすく患者側に伝えていくかを考えねばなりません。

日ごろ、私はこのような考えで日常診療に当たっているのですが、つい先ごろ、大変うれしいことがありました。今日は、そういう私のささやかな出来事をお伝えしつつ、医療の不確実性にも理解が伝わればと思います。

そういう立場から、今日はあえて、私の嫌いな誤診という言葉を使ってみます。
症例 32歳女性  漫然とした下腹痛

いきなり下腹部からしだいにはじまった腹痛の患者が来院。熱はない。
WBC6800 CRP1.2 妊娠反応(-)。婦人科的病歴(-)

お腹は、マックバーネーに限局する圧痛なし。圧痛点は非特異的。
リバウンド一切なし。腹エコーでもよくわからず。

患者と母親に私が最初にいった台詞
「虫垂炎には、十分気をつけて今診療しています。私の第一印象では、虫垂炎である可能性20%以下です。」

その後、もう少し情報がそろっていった台詞
「よかったですね。私の印象ではさらに低くなりました。10%以下です」
「さあ、どうしましょう。少なくとも慎重に経過をみる余裕はありそうです」
「もちろん、CTという武器を使って今さらに詰めることもできます」

こんな話をした。患者側の選択は、CTは今はとらずに自宅経過観察だった。

「わかりました。注意するポイントは、右下腹部痛に限局する腹痛に変化してきたとき・・・、軽くジャンプしたり、お腹に響くような痛みに変化してきたとき・・・・・云々」とたらたらと説明。続いて、「で、万一該当する症状が出現したときは、夜でも来て下さい。変わりがなくても、明日もう一度かならず診察の必要がありますので、内科へ来て下さい」 こんな説明をした。
翌日、患者はちゃんと内科へ来てくれました。
担当医は悩みました。まだ所見がはっきりしなかったからです。
そして、再び、明日の外来フォローの方針の下、患者を帰宅させてました。

その患者が、その日の時間外、救急外来へやってきました。腹痛が強くなったのです。このとき初めて、腹膜刺激症状が明確になっていました。 今度はCTをとりました。虫垂炎でした。緊急手術となりました。

その患者が退院しました。その折、なんと初診の救急外来まで来て、私達へお礼の挨拶をしてくれました。 それは、私たちにとって大変珍しいことでした。

救急外来や時間外外来では、患者と時間的継続性をもって診療することが少ない診療の場です。
一期一会の場みたいなものです。だから、患者からお礼の言葉をいただく機会が少ない場なのです。
それだけに、余計にうれしく感じるものです。私と一緒に、この患者を診たY研修医も大変喜んでいました。

私は、虫垂炎はまずちがうだろうと思っていたが、見事に外れました。自虐的に言えば、誤診です。
ある意味、これが医療の不確実性、確率的分散だと思います。
しかし、患者は私達の初療を評価してくれていました。そうだからこそ、わざわざお礼に来てくれんだと思います。

やはり、こういう出来事を通して、私が改めて思うことは、医療というものは、「その結果」だけなく、良好なコミュニケーションを通して作られる「プロセス」が重要なんだということです。

良好なコミュニケーションは、医療者側だけがんばっても成立しえません。患者側にも良好なコミュニケーションができる素地が必要です。その両者がうまくかみあったときに、「結果」に依存しない「良い医療」が可能になるんだろうなあと思います。

この患者さんは、医療者をうれしくさせることができる方で、いわゆる「患者上手」な人なんだろうと思います。

患者さん側が、今の医療崩壊の進む厳しい医療情勢の中で、できること。

小さな感謝の気持ちを勇気を出して表明すること

かもしれません。 ネットからの参考記事を引用して、本日のエントリーを終わります。
http://tanba.jp/modules/bulletin6/article.php?storyid=252 より一部引用

ちょっとしたけがや病気で昼夜を問わず病院で受診する 「コンビニ受診」 を控え、 医師の負担を減らすことで地域医療を守ろうと活動する県立柏原病院の小児科を守る会(丹生裕子代表) が8月29日、 医師への感謝の気持ちを目に見える形で表そうと、 「ありがとう」 のメッセージを寄せ書きにし、 同病院に持参した。 同会は近く、 同病院の許可を得て小児科の待合に 「ありがとうポスト」を設置する。 「感謝の輪」 が広がることに期待している。 (足立智和)

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裁判官の方の講演(救急医学会にて) [雑感]

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本日、大阪で開催中の日本救急医学会に参加してきました。 救急医療と刑事訴追というシンポジウムでは、なんと裁判官の方がシンポジストの一人としていらしゃってました。年間400件くらいの判決文を書いているので、私達も多忙であることをわかってほしい、医療の現場はぜひ見てみたい・・・、だけど時間が・・・ というようなことをおっしゃっておりました。私達法律の素人に、刑事裁判と民事裁判の違いなども講演してくれました。 裁判官達の間では、刑事裁判は、外科のようなもので、民事裁判は内科のようなものであると言われているそうです。 

特に、私にとって印象深かったのは、民事裁判は、まず金の配分を考えて、そして、現行の法体制に合わせて(つまり、このときに医師の過失を考えることになる)、判決文を書くといっていたことです。
(スライドメモ参照)

民事裁判と医療訴訟

1)民事での医療訴訟は
の構図ではない
2)医療上の損害を
金銭に換算するための線引きをするのが民事裁判
3)民事裁判はまず結論を仮定してするもので演繹的なものでない



先に金の配分を決める(=先ず結論を仮定) とは・・・・・

診療のロジックでは到底容認できないような判決文はこうしてできるのだなあととても新鮮であり驚きでもありました。

裁判の勝負には、医療の診療上の不確実性のロジックだけでは戦えないということがよくわかります。

こういう話を聞いていると、裁判の土俵に登ってしまう前に、紛争の火消しをするかという所に訴訟回避の力点を置き、いざ訴訟となったら、発想を変えて戦いに挑むしかないということでしょうね。

この裁判官の方も、「自己責任」という言葉を使っておられました。
(スライドメモ参照)

裁判における自己責任
1)裁判官が「
真実」を発見してくれるわけではない
2)主張も証拠も
自己責任
  争わなかったら、そのまま事実認定される可能性も高い
  自己に有利な証拠を探し出し、自己責任で主張すべき。


戦いも自己責任ということですね。弁護士の先生と力を合わせて自己主張しなさいということです。

そして、報道でよく言われる表現 

「裁判の場で真実を明らかにする」

裁判官の方も、はっきりとこれを否定されておられます。

真実を知りたいという思いから、裁判を起こすのはやめましょう。

医師の学会に裁判官が呼ばれて講演する・・・・・・
このこと事態が普通でないと思いませんか?
普段健康な大多数の方々に、今の医療の危機感が少しでも伝われば幸いです。


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「たらい回し」というバイアス [雑感]

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このブログは、7/1にm3ブログから今のso-netブログに引越してきてきました。前のm3ブログでは3.5ヶ月で約20万アクセス、so-netブログに引っ越してからは、本日で10万アクセスを突破しました。まことにありがとうございます。

昨年秋は、高校の卒業単位不足の問題で、マスコミが賑わった。一つの記事がでると、でるわ、でるわ・・・次から、そんな感じの報道でしたね。 冬場は、タミフル、異常行動ばかりでしたね。 最近、聞きませんね、どうしたのかなあ???、タミフル。その後の検証報道はどうしたのでしょう? マスコミって、騒ぐだけ騒いでおいで、後知らないって感じがしませんか、皆さん。

つまり、マスコミ報道は、発信するか発信しないかという一番最初の段階で必ず「選択」という恣意が入るのわけですから、すべての報道において、バイアスがかかったものと見なければなりません

ところで、ここ最近は、「たらい回し」が流行のようです。マスコミさんの間では・・・・・。
本当に困ったものですね。

奈良の死産の事例をきっかけに、また、でるわ、でるわ という感じですね。 千葉、北海道など・・・・。
マスコミさん、意図的に、記事にしようと思って捜してませんか? 捜してるでしょうね・・・。
だけど捏造はいけませんよ。お願いしますわ、そこのとこは。

私は、こういう報道の結果、社会の中での救急医療の信頼にひびがはいってしまうのでないかと危惧しています。

世の中、決してたらい回しが増えたわけではないんです。報道が増えただけなんです。そこのところをどうか勘違いのないようにお願いします。

そんなわけで、救急要請を引き受けて、救急初療を行なう私としては、はっきり言って迷惑な報道です。

しかし、私は、報道に惑わされることなく、 自分の力、その時点での場の力、自分の所属する病院の力 などを救急要請がある度毎に、一例一例真摯に判断して、要請を受けるときは受けるし、お断りするときはお断りする という自分の姿勢を貫き通し続けたいと思います。

どこぞやのお医者さんのブログで、奈良の死産事例に関して、奈良の先生のご苦労を察する配慮もなく、ただの精神論的な意見をのべて、炎上させてしまったようです。 何でも診るぞ! 決して断らないぞ! という精神は、医療者として大切なものだとは私は思います。しかし、その価値観は、決して他人に強要するものであってはならないと思います。職場の中で、上司が部下に強要するものであれば、もはやそれは、パワーハラスメントではないでしょうか?

もし、みなさんが、良い医療を受けられたと思ったとき、どうかそのことを声に出してください。お願いします。 人は、negative feed backだけは、モチベーションが続きません。
今の社会は、私達の医療に対して、あまりにnegative feed backすぎませんか?
闇に埋もれてしまっている良い医療は、実は当たり前すぎて、気がついていないだけかもしれません。
どうか、皆様の積極的な我々に対するpositive feed backをお待ちしております。


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産業医基礎研修会 [雑感]

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7月31日(月)から8月5日(日)までの6日間、北九州の産業医大で、日本全国より490名の受講生が一同に会し、平成19年度日本医師会認定産業医基礎研修会 夏季集中講座が行なわれ、本日無事終了しました。

私は、昨年の10月に受講申し込みをして、それでも受講生番号が300台でしたから、490名のうち半分近くの受講生は一年以上待たされての受講であったかもしれません。申し込みは通年で行なっているので、来年度受講に興味がある方は、早めの申し込みをされたほうがいいでしょうね。

だいだいの概要は、昨年の受講された方が情報をアップされておりますので、それを紹介しておきます。
大変よくまとまっています。私も今回の受講前に参考にさせていただいていました。

平成18年度夏季集中講座受講記録

今年もほぼ同じような感じでありました。 (ホテルに関する今年の情報は、私にはわかりません)

<感想を思いつくままに・・・・>
・テキストは、受講日一日目にもらうが、けっこう分厚くて重い!! 
・500人がいっせいに移動するので、帰りのはんこの受付だけで長蛇の列ができてしまう・・・。
  (写真のようなネームホルダをもらいそれに毎日、初めと終わりに押印してもらうのです)


・座席は後方を選択するのをお奨め。、はんこを速く押してもらったり、トイレにすぐ行けたりする。
 (左方後方が一番出口に近い。帰りを急ぐ人はここの席をゲットするのがいいでしょう。)
・毎朝8時に開場となるが、その時点ですでに長蛇の列である。 
・折尾駅から大学まで、徒歩でも十分に行ける。(約20分) 臨時バスが出てるが混みこみ!
・折尾駅名物のかしわめし弁当はけっこうおいしかった。
・話のおもしろい先生とまったくおもしくない先生とどちらもいる。とにかく長時間で疲れる!
途中台風がきて、たとえそれに関連する遅刻や早退でも、6日間すべての単位を認めない というのが、運営側のスタンスであった。(ある受講生から質問が出たときに、このように回答していた。)
   →遠方からJRで毎日来ていた私にとって台風の翌朝のダイヤが正常かどうかものすごく心配しました。

産業医のことをまったく知らない私でしたが、さすがに6日間、缶詰状態で、いろんな話を聞けたので、おぼろげながら、産業医のイメージがついたような気がします。 産業医は、法律で守られている と複数の講師の方がおっしゃっておられたのがとても印象に残りました。 普段は、勤務医や開業医は国の奴隷と例えられる昨今の厳しい医療事情ばかりが耳に入ってきてるからかもしれませんね。

このブログの主旨は、時間外診療におけるリスクマネージメントのためという側面から「地雷疾患」を扱い続けているのですが、 産業医の分野も、リスクマネージメントの側面が大変強いことが、今回の講習を通して知ることができました。

そういう共通点からも、産業医の分野は、けっこう私向きかなあと感じた一週間でした・・・

講習中は、ブログを更新する気力が出ませんでした・・・・・・・
まあ、ぼちぼちと、再開していきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。

写真は、会場のラマツイーニホール

 


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