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裁判官の方の講演(救急医学会にて) [雑感]

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本日、大阪で開催中の日本救急医学会に参加してきました。 救急医療と刑事訴追というシンポジウムでは、なんと裁判官の方がシンポジストの一人としていらしゃってました。年間400件くらいの判決文を書いているので、私達も多忙であることをわかってほしい、医療の現場はぜひ見てみたい・・・、だけど時間が・・・ というようなことをおっしゃっておりました。私達法律の素人に、刑事裁判と民事裁判の違いなども講演してくれました。 裁判官達の間では、刑事裁判は、外科のようなもので、民事裁判は内科のようなものであると言われているそうです。 

特に、私にとって印象深かったのは、民事裁判は、まず金の配分を考えて、そして、現行の法体制に合わせて(つまり、このときに医師の過失を考えることになる)、判決文を書くといっていたことです。
(スライドメモ参照)

民事裁判と医療訴訟

1)民事での医療訴訟は
の構図ではない
2)医療上の損害を
金銭に換算するための線引きをするのが民事裁判
3)民事裁判はまず結論を仮定してするもので演繹的なものでない



先に金の配分を決める(=先ず結論を仮定) とは・・・・・

診療のロジックでは到底容認できないような判決文はこうしてできるのだなあととても新鮮であり驚きでもありました。

裁判の勝負には、医療の診療上の不確実性のロジックだけでは戦えないということがよくわかります。

こういう話を聞いていると、裁判の土俵に登ってしまう前に、紛争の火消しをするかという所に訴訟回避の力点を置き、いざ訴訟となったら、発想を変えて戦いに挑むしかないということでしょうね。

この裁判官の方も、「自己責任」という言葉を使っておられました。
(スライドメモ参照)

裁判における自己責任
1)裁判官が「
真実」を発見してくれるわけではない
2)主張も証拠も
自己責任
  争わなかったら、そのまま事実認定される可能性も高い
  自己に有利な証拠を探し出し、自己責任で主張すべき。


戦いも自己責任ということですね。弁護士の先生と力を合わせて自己主張しなさいということです。

そして、報道でよく言われる表現 

「裁判の場で真実を明らかにする」

裁判官の方も、はっきりとこれを否定されておられます。

真実を知りたいという思いから、裁判を起こすのはやめましょう。

医師の学会に裁判官が呼ばれて講演する・・・・・・
このこと事態が普通でないと思いませんか?
普段健康な大多数の方々に、今の医療の危機感が少しでも伝われば幸いです。


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共通テーマ:日記・雑感

コメント 24

コメントの受付は締め切りました
田舎の一般外科医

なるほど、トンデモ判決が出る仕組み、控訴・上告しても修正がされない仕組みがよくわかりました。要は、先に結論ありきってことですね。ということは、現在の司法は全く信用できないってことです。

はい、逃散、逃散!
by 田舎の一般外科医 (2007-10-17 08:39) 

雪の夜道

はじめまして。お勉強になるブログ楽しく読ませてもらっています。
先に金銭の配分を決めるって、まさに厚労省と同じですね。それなら、難治療、訴訟度の高い手技、手術、疾患には現在の診療の価格にその分の価格を見込んでほしいものです。救急の世界はますます士気低下してしまいますね。
by 雪の夜道 (2007-10-17 13:12) 

田舎の消化器外科医

>年間400件くらいの判決文を書いている

年間400件というと、一日一件以上!!! もちろん、医事紛争のような複雑な案件は少ないのでしょうが(私は、判決文1つ一日で読むだけでもうんざりするのに)、公判を抱えながらの、この仕事量は想像を絶します。しかも、最近はネットで判決文が公表されるから、矛盾している部分を専門家から指摘される可能性が増えているのに。司法試験合格者が増加したら、裁判官も増員すべき、多少能力が落ちても、考える時間が増えたほうが良いように思います。

>裁判官の方も、はっきりとこれを否定されておられます。
真実を知りたいという思いから、裁判を起こすのはやめましょう。

このことは、広く世間に伝える必要がありますね。そうすれば、ADRの必要性が認識されるのではないかと思います。
by 田舎の消化器外科医 (2007-10-17 13:33) 

こんた

非常に興味深いエントリーありがとうございます

http://www.zakzak.co.jp//top/2007_10/t2007101210_all.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071012-00000221-mailo-l29
この様なよく判らない額の判決が出る理由が、なんとなく判るような気がします
by こんた (2007-10-17 13:38) 

doctor-d-2007

医療も内情も世間でよく知られていないのと同じように、
裁判の世界も、知られていないですよね。

本当に関わりあいたくない世界です。
by doctor-d-2007 (2007-10-17 14:01) 

ハッスル

私も同じ場で聞いていました。

最近、どの学会でもこういうシンポが多く、そんな話にしか興味がわかなくなっている自分もいます。暗いですね。
もともと民事については最終的には金銭という意味である意味割り切って考えていますので、さほど驚きはありませんでした。ただ、刑事弁護の方の話は、うすうす感じながら病院職員だけではなんとも出来ない現実をまたぞろ痛感しました。
そして、世論の前に医療従事者に後出し=後ろから刺されないようにする配慮も必要だと感じました。

別のセッションで高名な先生がも含めて”たらいまわし”という言葉を使いながら発表をされていたのもショックでした。
by ハッスル (2007-10-17 20:15) 

はじめまして

私は教育関係ですが、民事訴訟は増えています。
基本的に、民事では被害者救済という立場に立っています。

たとえば、部活中に雷が鳴り出したが、
雨は降っていなかったので、練習を続けていたところ、
落雷にあって死亡したという場合でも、
教員の責任が問われます。

子どもをなくされた親御さんの気持ちを考えると、
どんな場合でも教員が責められて仕方ないのだな、と思います。

それに較べると医療裁判はずっと医者の側に有利な判決になっています。
やっと患者サイドの訴えが認められるようになってきたのかなと思います。
一生懸命やったのに告発されているお医者さまをみると、お気の毒だと思いますが、障害が残ったり、亡くなったりした患者側はもっとお気の毒ですよね。

私は、被害者救済という立場にたった、民事裁判のあり方は、正しいと思います。
民事裁判では医師免許が剥奪されることはないですものね。
教員は多分民事裁判になったら、公務員の信用失墜行為で懲戒処分を受ける可能性が大きいです。
by はじめまして (2007-10-17 21:27) 

psq

「先に金の配分を決める(=先ず結論を仮定)」というのは、判決を書く直前、つまり主張と証拠を出し合ってこれ以上出ない(審理終結)という時点のことだと思いますよ(証拠調べ終了時点)。

何も過失や因果関係がないところに先に結論ありきという意味ではないと思いますが。
by psq (2007-10-17 22:11) 

麻酔科医@UPありがとうございます。

こんにちわ。
某所につぶやいたら、こんなところに、聞きたいシンポの内容がUPされて、ネットって本当にすごいなああと思いました。
シンポジストに佐藤先生がいらっしゃったので、てっきり、産科がらみのお話になるのかと思いきや、訴訟という裁判のお話が、医師の学会で、裁判官からあったというスタンスにちょっと驚いています。抄録だけ読むと、????でしたが、こうして、最低限の司法の常識をまず知ることが大事なんだろうなああと思いました。
そして、会話を続けることも。

でも、裁判官と、医師が、訴訟について話合う必要性があるって、やっぱり異常です。
by 麻酔科医@UPありがとうございます。 (2007-10-17 22:50) 

田舎の一般外科医

> はじめまして様

> 一生懸命やったのに告発されているお医者さまをみると、
> お気の毒だと思いますが、障害が残ったり、亡くなったりした
> 患者側はもっとお気の毒ですよね。

もう、こういうことを書かれると、一般の人と医療従事者の間の相互理解は不可能に思えます。

まず、患者に障害が残ったり、亡くなったりすることは基本的に医師の責任ではありません。これは「医師がいなかったら〜」という仮定を考えてみれば判ることです。医師がいなければ病気なり、外傷なりで亡くなったり、障害が残ったりするだけのことです。ここに介入することで、亡くなったり、障害が残ったりする確率を下げることができる、これが医療です。

単純に患者=被害者と考えて思考を停止することは明日の社会をよくすることにつながりません。子供さんをなくされた親御さんの気持ち、とか、障害が残った患者さんが気の毒だとか、感情を前面として思考を停止しているとしか思えません。
by 田舎の一般外科医 (2007-10-17 23:10) 

元なんちゃって救急医

たくさんのコメントをありがとうございます。一点だけ速レスさせてください。


>はじめまして 様

民事訴訟が被害者救済の立場にたつというのは理解しています。
今、現代社会は、「死」を悪しきものとして、その責任をだれかに求めるというのは、妥当な考えてとして浸透しています。

一方、「死」は100%回避不可能な自然現象です。医療は、元々「死」にむかう人々を相手にするのです。

「亡くなったりした患者側はもっとお気の毒ですよね」

最もなお気持ちです。しかし、なくなるのは医療者のせいでしょうか?
病気や外傷のせいではないでしょうか?
もちろん、個々の事例では、その判断のところで紛争がおき、裁判となるわけでしょうが。

人間には、元々、認知のバイアスなるものが備わっています。
「後医は名医」という認知バイアスです。裁判ですら、そのバイアスに引っ張られていると私には思える判決文に遭遇します。おそらく、現場に第一線に普段でていない大学のえらいさんが書く医療鑑定なども、やはりこのバイアスが入っているでしょう。

現場の第一線の多くの医師たちは、医療裁判の理不尽さ(民事、刑事)に、ほとほと、あきれかえるともに、戦意喪失の気持ちにいることでしょう。
少なくとも私個人は、そういう気持ちです。

医療は、「共通の社会資源」という考え方があります。言ってみれば、牧草です。牛のえさです。一人一人の医師の気持ちが現場徹底になるということは、社会的視点で見れば、牧草の絶対量が減るということです。

牧草を減らさないために、どう医療訴訟を考えていくかという社会的視点で問題を考える必要が有ると思っています。その具体策の一つが、ADRとご理解いたれば幸いです。

医師個人の問題と考えて議論するのか?
牧草、つまり社会の問題と考えて議論するのか?

その前提を明確にしたうえで議論しないと、かみわない話が続出するでしょう? 例)イヤなら辞めろ委員会の人たちの意見
by 元なんちゃって救急医 (2007-10-18 07:05) 

doctor-d-2007

>私は、被害者救済という立場にたった、民事裁判のあり方は、正しいと思います。

私は、損失補償という立場に立った民事裁判のあり方は、間違っていると思います。

「真実の究明」と「損失補償(救済)」という2つの要求のうち、裁判所は後者を優先した機関であると言っています。つまり、現在の制度では裁判所は、救済の為に真実を曲げて医療機関に賠償命令をしていると考えられます。

つまり、医者は正しいと自分が信じた医療を行えない状況になり、懲戒処分、免許剥奪以前の問題として、訴訟を恐れる医師が逃散し、医療が崩壊している訳です。

よって、損失補償という立場に立った裁判は医療が崩壊している一因となっているので、間違っているとしか考えられません。
裁判はもっと公平に主張を争わせ社会正義の規範となる判断がなされる機関として存在するべきで、そのために無過失保障制度の整備が必要だと思います。長々失礼しました。
by doctor-d-2007 (2007-10-18 12:16) 

Dr.サイコ

>はじめまして 様

>子どもをなくされた親御さんの気持ちを考えると、
どんな場合でも教員が責められて仕方ないのだな、と思います。

私は教育関係の方々がそういうお気持ちでいるというほうが不思議な気がします。
子供さんの死を,親御さんが何とか受け入れ,その後の人生を生きていくための方便として,誰かをせめて(逆にいうと自分を責めすぎないように)罪悪感をやり過ごすというのは、共感できなくても,感情として理解できなくもないのですが。
しかし,それが損害賠償や裁判等の具体的で攻撃的な行動に繋がるのは理解できません。
教育でも医療でも,どれだけ完璧な環境でも事故や病気は起こります。自然現象も含めて,人間の責任の取れる範囲って、かなり限られていますよね。そんなことまで誰かが責任取る羽目になるこの国って,やっぱおかしいなと考えています。
自己責任を声高に主張する人も別に構わないのですが,『誰の責任でもない』って考えはないんですかね。
日々不思議です。
by Dr.サイコ (2007-10-18 12:40) 

ぼやきのソーシャルワーカー

今回のテーマは、いろいろな状況が想定できてしまうために、議論がすれ違ってしまうことも多いでしょうね。
なんちゃって救急医先生がおっしゃている訴訟というのは、本来であれば起こりえなかったことが非常識な人為的なミスで起きてしまった事例のことではなく、後から全体を見渡せる状態で分析すれば予兆であったと推測はできるけれど、情報が限られていてわかりえなかったということまで責任を問われる事例のことですよね。(くどくてすみません。また認識違いでしたらご指摘ください)
今までは多くの場合亡くなっていたような事例が、医学の発展とともに幸運あるいは奇跡的にも助かるようになった。今ではその幸運が50%の確率で恵まれるとして、残りの50%全てに幸運に恵まれなかったら医師の責任を追及するようなことは、優秀で献身的な医師の意欲を奪い、それこそ幸運の発生率を下げてしまいますよね。

10も100も枝が分かれている道を、問診や検査、経験や知識、第六感を総動員して生命を守るガイドの役割を務めるのが医師だと例えると、草むらに潜む猛獣の存在を察知し先手を打ってツアー客の命を守ることができれば大手柄ですが、100メートル頭上のがけの上から10日も前から崩れそうだった岩が落ちてくるのを受け止めたり(あ、無理ですね)、避けたりはかなりの幸運が必要です。そういう状況も何もかもひっくるめて話題にするから噛み合わないのではないでしょうか。
すみません。例えが抽象的なうえに不適切かもしれません。

人間が万物に対抗できるという考えがどこかにあるから、過度な医療不信という現象をひき起こしているのでしょうか。本当に心配です。
運命や自然という人間の力が及ばないことに限界を知りつつも可能性を広げるための挑戦をし続けているという前提に立つことができても、これほどミスだとたらいまわしだと言うんでしょうか。その先に大海原が広がっていたら、絶壁だったら、道具や知恵や天候が味方すれば進めるかもしれません。でも自然の前には、どんなにベテランのガイドにだって保障はできないですよね。

個人の哀しみは当然のことですし場合によってはとことん話し合うのもいいでしょう。私の大切な人が病気になったら、どうか経験も知識も第六感も幸運にも恵まれている医師に出会えるようにと願います。(すみません)
でも、例えコネなど人間の力でその出会いを引き寄せようとしても、最終的には運命やタイミングなどの限界があることはどうにもならないことです。

そういうことに目を向けず、関係のない事情をよく知らない人間が煽り、人間や状況を個別化せずになんでも同じ土俵で結び付けてしまうような風潮を憂いてます。扇動にのらない人だってたくさんいるんですが、扇動にのるタイプに限ってさまざまな生活課題を抱えてることって多いんです。そんな風に思わなきゃ、いろいろな道が開けてるのにぃ…と、日頃から頭を抱えっぱなしです。

若輩者が長々と失礼しました。先生たちへエールを送りたくて書き連ねてみました。
by ぼやきのソーシャルワーカー (2007-10-18 14:19) 

はじめまして

お騒がせしています。
こっちの「先生」も大変なんだよ、なんてニュアンスがあったかも。
すみません。
つまらない、足の引っ張り合いをするつもりはありません。
よりよい方向を探っていきましょう。

民事訴訟では「学校責任」を問われるのが常ですから、
賠償の責任は教育委員会にあります。
教員に過失がある場合は、懲戒になります。

池田小学校の事件では、学校の責任が問われましたから、
多額の賠償金を遺族に支払っていると思います。
負傷された先生方の責任も問われましたが、
懲戒にまではいたっていない。

そういうことです。
by はじめまして (2007-10-18 22:02) 

元なんちゃって救急医

>はじめまして様

つまらない、足の引っ張り合いをするつもりはありません。
よりよい方向を探っていきましょう。

的確なご指摘だと思います。ありがとうございます。

教育業界も医療業界も、

業界そのものが、「過剰適応」という一種の社会病理に犯されているのではないかと私は危惧しています。

つまり、こどものため、かんじゃのため
に頑張り続けた。今も頑張り続けている。

その結果、皮肉なことに
その業界に対する要求度が増し、それに到達できない場合は、過失として非難の対象になる。そして、またその非難を乗り越えるために、がんばりつづける・・・・ そして、臨界点に達して、崩壊する・・・・・

個人レベルでは、「過剰適応」で、とても人生をつらく生きている人たちがいます。心療内科では、そういう人たちと出会います。

そんな方々と私はお話をしていて、その個人の問題は、業界という集団に適用してみたのが、上記の考えです。

一見逆説的ですが、医療崩壊を救う一つのキーワードが、
「もう、できない」
というメッセージだと思っています。

まあ、個人的な意見ですが・・・・。 政府は、間接的、迂遠的にそれを我々に問いかけていると思っています。
by 元なんちゃって救急医 (2007-10-18 22:15) 

元なんちゃって救急医

>ぼやきのソーシャルワーカー様

そういうことに目を向けず、関係のない事情をよく知らない人間が煽り、人間や状況を個別化せずになんでも同じ土俵で結び付けてしまうような風潮を憂いてます。

同意です。IT技術の進歩が、大いに関連しているんでしょうね。
数年前までは、こうやって皆様と意見を言い合うことができなかったわけですから。

今の時代に合わせた情報の利用の仕方を、各人が心すべきでしょう。
by 元なんちゃって救急医 (2007-10-18 22:24) 

はじめまして

はじめまして、です。
しつこくてごめんね。
これで最後


「もう、できない」

に加えて、

「なんかあったら、しかたない」

腹くくってますねん。
by はじめまして (2007-10-18 23:33) 

地方の一勤務医

自分も会場にいて口演を聞いていました。
「医療に刑事訴訟はなじまないのでは?」との質問には「医療が特別(刑事訴追はやめよう)という世論ができれば我々は従います。ただし現在の国民の考え方では50年たっても無理でしょうね。法律が変われば我々は従うのみです。」とおっしゃっていました。

 なかなか自分にとっては衝撃的な発言でした。
 確かに「司法が悪い、マスコミが悪いと自分も含めて医療従事者は言います」が、本当は国民に医療従事者がもっと現状を直接伝えて、みんなに納得してもらって選挙を通して法律を変えていかなければいけない、と思いました。
by 地方の一勤務医 (2007-10-19 14:44) 

ぺがさす

 医療訴訟では一般の民事訴訟と違う物差しを使わなければいけない、ということですね。
by ぺがさす (2007-10-20 14:59) 

内科医師

うーむ

>民事訴訟では「学校責任」を問われるのが常ですから、
>賠償の責任は教育委員会にあります。
>教員に過失がある場合は、懲戒になります。
>
>池田小学校の事件では、学校の責任が問われましたから、
>多額の賠償金を遺族に支払っていると思います。
>負傷された先生方の責任も問われましたが、
>懲戒にまではいたっていない。

つまり、
病院が訴えられるのは仕方がない。
医師が訴えられるのはかわいそう。
という理解でよろしいか?
by 内科医師 (2007-10-23 21:19) 

こたつらま

はじめまして。
いつも大変勉強させていただいている勤務医です。
一遅れの質問で申し訳ありませんが、「先に金の配分を決める」ということがよくわかりません。
エントリー内では

>>民事裁判は、まず金の配分を考えて、そして、現行の法体制に合わせて(つまり、このときに医師の過失を考えることになる)、判決文を書く

とありますが、これから最初に私が受けた印象は「医師の過失があろうとなかろうとまず医師に払わせる金額が決まる」というものでした。でも、これはさすがにあり得ない(ないであってほしい)かと。
コメントでpsq様が
>>「先に金の配分を決める(=先ず結論を仮定)」というのは、判決を書く直前、つまり主張と証拠を出し合ってこれ以上出ない(審理終結)という時点のことだと思いますよ(証拠調べ終了時点)。
>>
>>何も過失や因果関係がないところに先に結論ありきという意味ではないと思いますが。

と書かれていますが、この通りであれば先に医師の過失の有無とその関与が判定されていそうです。このあたりについてどなたかご教示いただけないでしょうか
by こたつらま (2007-10-25 17:49) 

元なんちゃって救急医

>こたつらま様

psq先生のおっしゃることは、その通りだと思います。
私が言いたいのは、手続を踏むけれど、そのやり取りの中で、医学的かつ演繹的な厳密性をもって、過失が認定されるのではなく、やはりどこかで、裁判官の心証で金の配分を決めるという意味です。

その後で、判決文を書く際、医療側に金を払わせようとすると、医師の過失にせざるを得ない。そこで、初めて、現場の感覚から大きく解離した後出しじゃんけん的なロジックで過失にされてしまうということです。

つまり、判決文に書かれているロジックは、金の配分を決めてから、書いたもの。 金の配分は、両者の言い分は聞くけど、最終的な自由な心証できまっており、判決文のロジックが先にあってそれから演繹的に金の配分が決まるのではないという意味です。

こう考えることによって、判決文のトンデモロジックの背景が、私にとっては初めて理解できたような気がします。
by 元なんちゃって救急医 (2007-10-25 23:26) 

こたつらま

なんちゃって救急医先生

ありがとうございます。
やっとイメージがつかめました。
確かにそれならトンデモ判決が多い理由が説明できそうです。

でも、そうなると難しいですね。トンデモ判決を下す個々の裁判官の問題ももちろんですが、システム上の問題の方が大きそうです。
by こたつらま (2007-10-26 18:02) 

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