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病気・死は悪か? [雑感]

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人間誰しも、自分は健康でいたい。だから、健康を脅かすもの・・・病気・死・・・・ それは、避けるべきもの、回避すべきもの  と人は思う。 科学が発展し、人は、その思いを形にし続けるべく、先人達は努力してきた。 そして、その結果として、今の高度に専門分化した医療体系が存在する。 発展にゴールはない。 今でも、各分野で、さらなる努力が続けられているだろう。 しかし、ゴールがない発展の先に待っているのは、果たして何であろうか? 私には、それが見えない。 いや、見たくないだけなのかもしれない。 

極端な例を考えてみよう。 髪の毛一本から、元の人間が完全再生できる技術が現実化したと仮定しみよう。

皆さんは、どうしますか? 
自分が愛する大切な人が、理不尽な交通事故や殺人事件で、失われたとしたら・・・・・。
その状況で、この完全再生術が使えるとしたら・・?

多くの人が、その技術にすがるのではないでしょうか? そして、社会もそれを容認するのではないでしょうか?

では、次の場合はどうでしょう?
自分が愛する大切な人が、突然の脳出血で失われたとしたら・・・・・・・・。
その状況で、この完全再生術が使えるとしたら・・・?

技術にすがる人もいるでしょうが、社会として容認すべきかどうか・・・・? どうでしょう、微妙かもしれませんね。

では、次の場合はどうでしょう?
自分の愛する大切な人が、末期のがんで、余命いくばくもないとき・・・・
家族が、もういちどその肉体をよみがえらせてほしいと
その完全再生術を懇願したとしたとしたら・・・・?

これは、行き過ぎだろうという意見が、社会レベルとしては優位を占めるのではないかと推察します。
(当該者が納得できるかは別問題として)

3つの事例を出しましたが、これらの共通点は、「死」です。
ただ、その死に方のプロセスに違いがあるだけです。

つまり、ここで掲げた命題は、「死」の線引きの問題ということになります。

「死」からの再生の技術が存在してしまうと、人類は、こんな難題と直面化することになります。

もう少し、現実に戻って考えなおすと、
まさに、移植医療の是非は、この「死」の線引きの問題と直結していています。
「尊厳死」の問題、「救急現場における人工呼吸器の停止」の問題も、同じような問題です。

科学が発展すればするほど、そういった難題がこれからも次々と出てくるのではないかと予想されます。

果たして、それでいいのでしょうか?

ここに、素直に命題を提示します。

「病気・死は悪か?」

医療費削減の方針を、国は頑として動かしません。強い、強い決意です。一方では、医療技術を含め多方面の科学技術の発展に力を注ぐことに余念がありません。

私は、どこか矛盾していると思っています。

医療費をどうしても削減したいのならば、技術発展を、もうええやんとそのくらいで・・・大胆にとあきらめ、多くの技術開発をもう中止にしたらどうですか? 金、人、ものが浮きませんか?

むしろ、「病気・死は悪ではない」というスタンスを国が明確に打ち出したらどうですか? 

日本社会の中での、隠れた前提 「病気は死は悪である」=「回避すべきである」

この社会前提を、

「病気・死は、受け入れて付き合うもの」 という

新たな社会前提に改変すべく事業を立ち上げ、そこに技術開発を中止することで浮いた金、人、ものを投入したらどうですか?

本日のエントリーは、一国民としての戯言に過ぎません。 ですので、違う考え方の人もあまり噛み付かないで下さいね。 

もし、国民皆が、こんな心性になってくれたら、ずいぶんと医療もやりやすくなるだろうなあと私は個人的に思います。


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コメント 13

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ハッスル

毎回勉強に拝見させていただいております。
長文で失礼させていただきます。
初療に携わり、解消できない不安にさいなまれています。

不安定な状態に対して対応しているときは、目の前のことを考えて診療することで、いい意味で不安を感じる余裕もなく手一杯ですし、ある程度明確な病態に対して相応の診療が出来(引継ぎも含めて)れば、よかったと胸をなでおろすことが出来ます。結果としてお亡くなりになられても、家族とともに看取るところまで出来、悲嘆・愛惜の表情も含めて共感できれば受容し、次の仕事に切り替えられます。

しかし、症状に対して明確な病態が把握できないまま安定された状況で引き継ぐことになった場合(帰宅も含めて)、その後の経過についての懸念が頭にこびりつく感じが年々強くなっています。
某雑誌に後顧的には”ERで失神の病態把握は半数以上が正しくない=対症治療と経過観察、その後の精査”とありました。その後の経過観察、精査については他の医師に委ねざるを得ない現実からは、”地雷”に出会うことは患者数に比例するということで、受け入れざるをえないのでしょうね。

独居ではなくても家族が普段見ていない高齢者について、病状の説明と同じくらいの時間を割いて、死の受容について婉曲的に把握しようとしていますが、これもなかなか難しい(そういう家族さんは当然すぐに来て頂けない)です。

医療の進歩と幻想(僕が医学生の頃は遺伝子治療でかなりの病気が治せる、がん撲滅などといっていたような気がします)が擦り込まれた世界とその恩恵であるはずの高齢化が死を遠ざける結果となり(家族が見なくても高齢者を維持できる社会)、死に直面する現場を圧迫死させているのでしょうか。

本当に閉塞感と恐怖感の多い仕事になってしまいました。ご指摘の”死の受容”を共感できる人が増えてくれるといいなあと思います。
脈絡なくてスイマセン。長文失礼しました。
by ハッスル (2007-12-22 11:14) 

HDs

SF作家のアシモフの有名な言葉をあげておきます。

Life is pleasant. Death is peaceful. It's the transition that's troublesome.

Isaac Asimov
by HDs (2007-12-22 11:21) 

じゅん

生きている人は、死ぬのが当たり前ということがわかりにくくなったのは、いつ頃からなのでしょうね。
病院で死ぬ人が多くなり、地域のコミュニティも疎遠になり、核家族化が進んでいる・・・そんなことが背景にあるんでしょうか?
または、幸か不幸か国民皆保険で医療が身近なものになりすぎて、どんな医療を受けても、大してお金がかからないという点で、生と死に対して、より真剣に考える機会を失わさせられているのかもしれません。

医療を受けて社会復帰できる見込みがなくても、医療を続けるのが日本に住む多くの考え方だと感じています。これは、他国では大金持ちの道楽ですよ。

命は地球より重いなどと感情的な発言が一方で受け入れながらも、他方では、交通事故などで人が死んだらその価値を金銭で評価し補償金を受け取る。
合理的に考えれば、交通事故の時に換算された金額以上の金を、一個人の医療費として投入してはいけないのでは?なんて感じることもあります。

技術開発は、やめなくても、特許が切れたものだけを日本の保険医療で使ってよいとすれば、ものすごく安くなりますよ。
世界2位の医薬品市場が崩壊することになるので、無理だと思いますけど。
まあ、科学技術の進歩で地球に住む人間の暮らしはより豊かになっていると個人的には感じます。進歩をやめるという選択は国際的に合意されにくいと感じますけど。
by じゅん (2007-12-22 15:02) 

フィッシュ

「病気・死」とともに「老い」も悪だと思わされている社会かもしれませんね。

以前、とある国の内戦状況の地域に住んでいました。国内難民となった人たちの状況は過酷で、子供たちは感染症で死んでいきました。対反政府ゲリラの名目で、住み慣れた土地を追われたのですが、そのあとには「開発」という名で日本やアメリカ向けの農場や牧場がつくられていました。

同じ時代に生きながら、我と彼の差は何なのだろう。自分が生きていることは、誰かを踏み台にしているのではないだろうか・・・という思いがいつも心にあります。
今自分が働いている周産期医療の分野でも、「生」と「死」についてはここ20年ぐらいの間に、どう判断するのか非常に難しいことが増えました。
また日本の医療全体で、使用する物の量が飛躍的に増えたと思います。
ディスポ製品をあけるたびに、また薬を使うたびに、薬にさえ手が届かない人たちがいることに、胸がチクリとします。貧富の差という問題だけではなく、国内難民にならなければ、食料も薬草も豊かにあった土地に住んでいたのですから。また、医療機関にさえアクセスできないずに、一生を終える人も世界中たくさんいることでしょう。

お金があれば、物があれば・・・という条件で確保された延命や再生医療は、「もっと。もっと」と不安と欲望を増やす可能性があると思います。
医療の進歩に限界を設けるというのは、現実的に難しいことだと思いますが、生きること、病むこと、老いること、そして死ぬことはどういうことなのか考えを深めていくことで、必要な医療とは何かの答えがみえてくるのでしょうか。必要なのは、哲学的思考でしょうか。
by フィッシュ (2007-12-22 15:15) 

僻地外科医

 実際、私が研究に興味が持てず、学位取得のための研究を断ったのも
半ばはなんちゃって救急医先生と同様

「医療費をどうしても削減したいのならば、技術発展を、もうええやんとそのくらいで・・・大胆にとあきらめ、多くの技術開発をもう中止にしたらどうですか? 金、人、ものが浮きませんか?」

 という考えがあったからです。今の経済事情で研究していくら医療技術が
上がっても、それが医療経済に負荷をかけずに日常診療の中に降りてくることは極めて希なケースだと思います。

 遺伝子治療にしても移植医療にしても医療経済的には問題がありすぎると思ってます。実用研究の分野ではその研究によって起きる経済効果を考えて許認可するというシステムが必要じゃないかなと思ってます。

 今のように研究が野放しに近い状態というのは決して良いことじゃないでしょう。資源は無限ではないのですから。
by 僻地外科医 (2007-12-24 16:33) 

Luxmann

田舎の内科勤務医です。

最近、こんな事を考えています。

病気には3種類ある。
治せる病気と
治せない病気、
治さなくていい病気。

分けて考えると 少し気が楽になりました。

もちろん、治せる病気を増やす努力は続けいていますが
患者さんやそのご家族にこういう気持ちでお話しすると
受け入れて下さることが多いような気がします。
by Luxmann (2007-12-25 13:33) 

moto

わたしも似たようなことを昔から思い続けています。

病気には3種類ある。
1.誰が何をやっても(やらなくても)治る病気
2.上手な人だと治せるが、下手な人だと治せない病気
3.誰が何をやっても治らない病気

2をどれだけものにするか、が、とくに若い頃(研修医のころ)には、関心ごとでした。
それから、10年目とか超えることに、1や3も、大切なんだと思うようになってきて、最近(20年目)、結局、医者が社会的に評価される(対価を払うに値される)のは2においてだけなのだなあ、と思っています。
いわゆる地雷というのは、ぎりぎり2と3の間くらいなのだと思います。
by moto (2007-12-25 17:40) 

moto

続き)
「死や病気の受容」っていうのは、大切な理念なのだが、一般人の側からは「医者がそれ語っちゃおしまいだよ」っていうのが、あるように思う。
個別の患者に対しては、語りうると思う。むしろ、いちばん適任なのかもしれない。(ただし、お金にはならない。ボランティアです)
広く一般に対しては、語りにくい。ヘタレ医者と勘違いされやすいですから。医者以外で、死や病気に身近なひと、それこそ、優秀な患者が、ほかの患者たちに対して、語りかけて欲しいと思います。
わたし自身は、そういう意味で「優秀な」患者になれるかどうか、自信がないです。ほとんどの医者は自信無いんじゃないかな?他者である、「患者」に対しては「病気や死の受容」を望んでも、自分自身がそこに直面した時に、それだけ、医者としての経験が精神的に役立つかどうか・・
だから、優れた先達の患者たちが、どうやって病気や死を受け入れて、終末期に臨んだのか・・そこは、わたしもそろそろ勉強をはじめていかなければならないのかもしれません。
医者としてではなく、ただの、ひとりの人間として。
by moto (2007-12-25 19:14) 

moto

関係ないですが、今日、除細動器が届きました。ACLSで使ってると同じ、ハートスタートXLという機種です。(ただし、経皮的ペーシングはオプションなので付いてない。同期カルディオバージョンはできる)
いままでは、手術のとき、ベッドサイドモニターでECG見てたんですが、除細動器にECGモニター付いてるんで、さっそく今日、こちら使って手術してみました。
いいですね(^^)。
何がいいって、守られてる感じが。ただのベッドサイドモニターだと、情報は教えてくれても、いざVFとかになっても、機械自体は、治療の助けしてくれないでしょう?
しかし、除細動器をモニターかわりに使っていると、いざというときには、この機械、役に立ってくれるかもしれない、という心強さがある。

で、思ったのは、たぶん、医者も、一般のひとから見ると、この除細動器みたいなものなんだろうな、ということです。
どっかで、何か、希望を残しておいてくれるとくれないのでは、違い大きいのだろうなあ。
上の上で書いた、3に対する医者、ってのは、そういう意味じゃほんとに難しいだろうと思います。
「病気や死の受容」を、医者以外のだれかが、ひろめてくれて、その上で3に対するお医者さん、ってのが、健全な姿なのだろうと思います。
by moto (2007-12-25 19:29) 

元なんちゃって救急医

>僻地外科医先生

いくら医療技術が上がっても、それが医療経済に負荷をかけずに日常診療の中に降りてくることは極めて希なケースだと思います。

まったくもって同意です。
社会が科学技術にかける熱意は、各々の内面に潜む死との直面化の防衛機制の一端と私は考えています。
by 元なんちゃって救急医 (2007-12-25 22:19) 

元なんちゃって救急医

>Luxmann先生

なるほどですね。説得力あります。私は、最近、各人の人生の中での病気の意味づけを一人ひとりに考えてあげれる機会を医療者がもっと提示できたらいいのかもしれないと思うようになりました。そのうち、そういうエントリーを立ててみたいと思っています。
by 元なんちゃって救急医 (2007-12-25 22:22) 

元なんちゃって救急医

>moto先生

だから、優れた先達の患者たちが、どうやって病気や死を受け入れて、終末期に臨んだのか・・そこは、わたしもそろそろ勉強をはじめていかなければならないのかもしれません。医者としてではなく、ただの、ひとりの人間として。

そうそう、医療者自身が、自分の内面を見つめること、そのことに気がつくことが医療を実践するに当たり、すごく大事なことだと私は考えるようになりました。このエントリーはそういう狙いもあったので、先生がそう感じてくれくれたことは、私にしてみたら、これを書いた甲斐があったとうれしくなります。
by 元なんちゃって救急医 (2007-12-25 22:25) 

moto

わたしは前から繰り返し書いているように(笑)、今48歳なのですが、40歳すぎた頃から、自分自身の死の受容の問題は、真剣に考えるようになりました。
三島由紀夫の「葉隠」の精神で克服できるのではないかと考えて、「朝に死し夕べに死し・・」とぶつぶつ唱えていたころは、本当に死にたくなって困った(^^;。死の問題は、考えすぎると囚われてキケンです。死を克服し、その恐怖に打ち勝つには、自らの意思で死ぬしかない、なんて考えもありうるわけで。とくに仕事で鬱で、逃避したいときには、あまり深く考えすぎないほうがいいみたいです。
あのころ、いろんな本読みましたが・・いま、いちばん真実に近い、と感じるのは、こちらです。
http://www.amazon.com/Sarahs-Song-True-Story-Courage/dp/0446603430/ref=sr_1_5?ie=UTF8&s=books&qid=1198594845&sr=1-5

「サラの歌」。AIDSを夫からうつされて、しかし、夫を愛して看取り、夫が亡くなって、自分自身も末期のAIDSになったとき、「それでも、誰かを愛したい。だれか、新しいboyfriend、伴侶が欲しい」と願う自分が残されていた、という、最後のくだりが印象的でした。
自分自身振り返って、精神の基本的なところは、7つ8つの頃と、どのくらい違っているだろうか?と。ひとは、死の間際になっても、そんなに悟りきれるものではなく、そのひとの本質が浮かび上がって死んでいくだけのことなんだろうな、と、今は思っています。

そういう意味では、生きることに誠実であり、善良であることが、すなわち、死に臨む準備そのものなのかもしれません。
by moto (2007-12-26 00:28) 

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