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他人の死から自分の生を学ぶこと [雑感]

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このブログですでに何度か言ったかもしれないが、現代の日本社会は、死と真正面から向き合わない社会だと私は思う。日常の平凡な死は、病院の片隅に追いやられ、多くの人がそこから学べないでいる。一方、一部の非日常的な死(事故・殺人など)は、メディアを通して、毎日のようにセンセーショナルに報じられる。それは自分の生の学習とはなりえない題材ばかりだ。それどころか、変な模倣犯など(例:硫化水素自殺、ナイフ殺人)を増産させているだけではなかろうか?

今の日本、何か、おかしくない?
 
と私は思う。 

それは、国民の心のせいでしょうか? メディアの報道のせいでしょうか?そんなに簡単に割り切れるものではないというのが私個人の考えだ。

とにかく、そんな今の日本のあり方では、他人の死から自分の生を学ぶことの機会をなかなか得にくいのではなかろうか?

そうして、死から学ぶ機会が乏しいまま、身近な人の死に遭遇した場合、多くの人は、戸惑い、受容できないまま、たまたま、その死の近くにいる医療関係者が、ついつい攻撃の対象とされてしまうのではないのだろうか? それが、医療者側からみて理不尽と思える医療訴訟の一因となっているのかもしれない。

そこで、本日は、ある大物先人二名の死に際のエピソードを紹介し、そこから、皆様が、自分の生を考えるきっかけになればと思う。

一人目。 仏教の開祖、釈尊の死である。 いいじゃないか 生きようよ 死のうよ 松原泰道著 P27より引用。

お釈迦様が入滅されたのは八十歳のときでした。(中略) 現代的な言葉で言えば老衰で亡くなったと思っている読者も多いかもしれませんが、じつはそうではありません。じっさいのところは、弟子のチュンダという青年がつくってくれたキノコ料理の毒にあたって亡くなりました。今の言葉で言えば、食中毒死だったのです。(中略) チュンダは強烈な自責の念を感じたでしょうし、他の弟子たちはそのチュンダを非難したにちがいありません。そんな事情を知って、お釈迦様はチュンダや他の弟子たちに、随行していた弟子を通じてこんなことをおっしゃったといいます。まず、チュンダの供養(ご馳走)がどれほどおいしかったと礼を言って、
「わたしは、チュンダの供養(ご馳走)を食べたからと死ぬわけではないのだよ。この世に生を受けたものが必ず死ぬというものは、日ごろから私が説いているとおりだ。たしかに、私の死の縁となったのはチュンダの供養(ご馳走)だったが、命あるものは必ず死ぬものなのだ。それも、偶然ではなくて縁によって死ぬ。咲いた花はいずれ散るが、散らした風雨は縁に過ぎない。花が咲いたということ、それが散るという結果になつながるのだ。たとえ、
わたしがチュンダの供養(ご馳走)を食べなかったとしても、いずれ命は絶える。だから、チュンダよ。案ずることない。ほかの者も決して彼を責めてはいけない。」 (中略) お釈迦様がここでおっしゃっているのは、「人間はなぜ死ぬのか。それは、生まれたからだ。」ということなのです。

いやあ、すばらしい・・・。 見習いたいものだ。今の日本なら、チュンダは訴えられてもぜんぜんおかしくないところだ。私たちは、今、自分の生死に対して、このような捉えかたをする教育をうける機会がいったいどれくらいあるのだろうか? 医療崩壊で、世の中が困った困った・・・というのなら、こういう釈尊の死生観をもっと広める努力を国が行ったらどうなのでしょうか?私は素直にそう思う。

二人目。 老子と並ぶ道教の中心人物、荘子の死である。 荘子全訳 列禦寇(13) より引用。

荘子の臨終のとき、弟子たちは手厚く葬りたいと思っていたが、荘子はこう言った「わしは天と地の間の空間を棺おけとし、太陽と月とを一対の副葬の大玉とみなし、群星を祭壇を飾るさまざまな珠玉と考え、万物を送葬の贈り物と見立てている。わしの葬式の道具はもう充分に整っているでないか。どうしてさらに付け加える必要があろう」。
 弟子たちは言った「私どもはカラスや鳶が先生の体をついばむのを心配するのです」。
 「地上にさらしておけばカラスや鳶の餌食になろうが、地下にうずめればケラや蟻の餌食になる。あちらのものを奪って、こちらに与えるだけだ。どうしてまたえこひいきなことをするのかね」。
 人知と言う不公平な尺度で物事を公平にしたとしても、その公平は真の公平でない。知恵者は外物に使役されるものに過ぎず、霊妙な自然を体得した人こそ物と感応してゆくのである。
 
知恵が自然に及ばない事は昔から決まっているのに、愚か者は自己の見解を頼みとして人間世界の事におぼれこんでいる。その働きはうわべだけのもので、浅はかな事だ。なんと悲しい事でないか。

さすが、無為自然の大家、荘子である。自分の死に際しても実に泰然としたかまえである。常人はこうはいかないだろう。しかし、天と地の間の空間を自分の棺おけとするとは、なんともスケールのでかい話である。いかにも荘子らしいエピソードである。 

「知恵が・・・・おぼれこんでんでいる」の部分は、ずいぶんと考えさせられる・・・・・。
知恵=「医療」、自然=「人の生き死に」、愚か者=「人間」、人間世界のこと=「病気と戦うこと」として置き換えてみよう。

「医療」が「人の生き死に」に及ばない事は昔から決まっているのに、人間は、自己の見解を頼みとして「病気と戦うこと」におぼれこんでいる。その働きはうわべだけのもので、浅はかな事だ。なんと悲しいことではないか。

今の医療崩壊現在進行中の日本社会に、荘子が生きていたとしたら、こんな嘆きをするのかもしれない。

いかがでしょうか?
現代の東洋思想を支える基礎をつくった偉大なる先人達、釈尊、荘子などの死に際から、今、私たちは何か学び、考えさせられるものがあるのではないでしょうか?

医療崩壊の流れを変えるには、所詮人の知恵の枠組でしか過ぎない「法律」をいじるだけでは、不十分だと私は思っています。人の生死は、人の知恵を越える自然なのだから・・・。もっと、一人一人の心の領域に立ち入らないと医療崩壊の流れは変わらないであろう・・・というのが本日の私の主張です。


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コメント 13

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まーしー

最後の荘子の言葉をなんちゃって救急医先生が言葉を置き換えられた一説を読んで、僕はブラックジャックの師である本間丈太郎先生が自身の死の間際に言った言葉を思い出しました。

「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね。」

僕の好きな言葉の一つです。


by まーしー (2008-07-30 22:48) 

なんちゃって救急医

>まーしー先生

ありがとうございます。私も大好きです。その場面。

自分のブログでは、このエントリーで引用しています。
http://case-report-by-erp.blog.so-net.ne.jp/20080405


by なんちゃって救急医 (2008-07-30 23:06) 

修行僧

今日のなな先生もおっしゃってますが、今の日本は間違いを許さない社会になっていますね。間違いというのは人間の常、そこから立ち上がり歩き出せばいいのです。それを、周りが、「絶対に許さない」という姿勢でいるので間違いを起こした当人は落ち込んでしまうのです。人間は病気で死ぬのではなく、運命で死ぬと悟っていれば、すべてを受け入れることができる。そして、それぞれの人がそれぞれ自分の人生を大切に生きれば、後は何も心配せずに天にすべてを任せて生きることができる。今日の、なんちゃって救急医さんのお話はとてもいいお話でした。ありがとうございました。あなたの話を読んで、以下のような話を聞いたことを思い出しました。「人は生まれるときに泣き叫んで生まれてくる。しかし周囲は大喜びである。(悔いのない充実した人生を終えるとき)人は死ぬときに大喜びで死ねる。しかし、周囲は皆泣き悲しんでいる。」

by 修行僧 (2008-07-31 00:24) 

rirufa

う~ん。
死ぬのは仕方ないことなんでしょうが・・・
背後に隠されたメッセージを考慮に入れるとすごく複雑な気持ちになります。

発見が遅れたりして死ぬならまだしも、運悪く生き残って、生活がまともに送れない状態になってしまったら(発見しにくいのも多々ありますが)、責めたくなる気持ちもすごく理解できます。

しんだら、10万ぷらふアルファーの損失で済むけど、生き残って重度の障害をおったら、数1千万以上の損害になってしまう。下手したら、一生苦しい目にあわないといけないのかもしれない。かといって、殺すこともできないし、殺してくれると頼むわけにもいかない。

こういうのも天命だと思って受け入れるしかないんでしょうか。

by rirufa (2008-07-31 06:10) 

doctor-d

私もこのエントリーでBJの本間先生の言葉が。
たしか、その台詞の前には、
「医療とは、人の生き死にの外側にある。」
だったでしょうか?
これは荘子の思想と同じですね。
生死を語るには、ここまで達観すべきでしょうに今の裁判やマスコミときたら・・・。本当に次元の違いに辟易させられます。
by doctor-d (2008-07-31 12:04) 

うなぎ

今は「死」以前の「老い」と向き合う経験も少なくなっていると思います。
身近に老いていく人を見て、その死まで一緒にいられるとかなり自然に「死」を受け入れることが出来ると思います。
私は祖父母と一緒に住んでいたのでそう思います。
いつもしっかりしていた祖父の耳が遠くなりはじめた時とてもショックを受けましたが、徐々に慣れました。
今はあまり身近に「老いていく姿」を見れない人が多いんじゃないかなあ。
はじめて見るのが親だったりして。
それでも、老いる前の「死」は受け入れにくいかな?
by うなぎ (2008-07-31 15:24) 

ひろ

先生がここでそれを引用される趣旨をくみとった上であえて書きます。その台詞は荘子がいうから染みるのでは。
by ひろ (2008-08-01 11:58) 

なみ

はじめまして。
どうしても、教えていただきたい事があってコメントしました。

私の母は、肺梗塞と子宮ガンの検査入院前にトイレで倒れ、その日意識を取り戻し、血を溶かす薬がきいたのか、元気になってました。4日目の週末、ガンの痛みが出だし、鎮静剤をうったところ、呼吸困難になり亡くなりました。

死因は出血性ショック死と書いてありました。

意識がなくなった母にも輸血はされず、最後心臓マッサージをして、やめたあと、息を引き取った母。

私には初めての人の死で、
母はなぜ死んだのか分からず解剖といわれ断るとその日のうちに自宅へ連れて帰るしかなく…あっという間でした

未だに母の死因が分からず自分を責めてしまい過呼吸に苦しんでます。

医者を訴えるとかではなく、事実が知りたい。

母の体に何があったのか…
憶測でもいいです。教えて下さい。
母の死と向き合いたいです
お願いします。
by なみ (2008-08-01 17:22) 

なんちゃって救急医

>修行僧様

同感です。間違いを許さないことの弊害も考える世の中になってほしいものです。

>rirufa様

死にしろ、生にしろ、自分の損得や善悪のものさしで測ろうとせずに、なりゆきにまかせ、そのときそのときの状況を、それがどうであれ受容し認めることができるといいかもしれませんね。難しいかもしれませんが・・・・。先人達は、それに近づくために、ある人は哲学を考え、ある人は宗教を広めたのでしょう。

>doctor-d 様

BJは、ブッダという作品もあることから、荘子と似た死生観を持っていたとしても不思議ではないですね。

>うなぎ様

たしかに、「老い」を身近に感じることも自分の生を考えるいいきっかけになるかもしれませんね。

>ひろ様

そうですね。荘子をしらない人でも、こんなエントリーがきっかけとなり、じかに荘子に触れて、そこから何か感じて盛られるきっかけになればとも思います。

>なみ様

医学という知恵は、所詮、人間の知恵のひとつにすぎません。
一方、人の生死は、人間の知恵をはるかに超えたところに位置する自然です。

現代医学は、わかったふりをしているにすぎません。
だから、お母様の死因は、誰にもわからないものではないのでしょうか?

わたしはそう思います。 まずは、担当医の説明をあなたが信じることをお勧めします。

それが、お母様の死と向き合う援助になればと祈念します。


by なんちゃって救急医 (2008-08-01 21:15) 

通りすがりの勤務医

なみ様

血栓溶解剤の副作用による出血
鎮静剤の副作用による呼吸抑制

こんな理由なら納得いただけますか?

>医者を訴えるとかではなく、事実が知りたい。

医療裁判の原告がよく言うセリフですね

状況がわかりませんので、なんともいえませんが
末期ガンであったのなら寿命と考えるべきではないでしょうか?
肉親の死を受け入れられないからといって医療者を責めるのは止めてください
おそらく、心の中で医者を責めていることと思います
でも、死を受け入れることができなければ心の平穏は得られませんよ
医者の説明不足もあったのかもしれません
保身に走って上手く説明できない医者もいますから

by 通りすがりの勤務医 (2008-08-02 01:00) 

もと救急医

なみ様

心の平穏を得るには相応の時間がかかるのでしょう。
ご自愛くださいませ。

事実を知りたいとのことですが、
そのための手段はいろいろありますが、
なぜ、「解剖といわれ断る」ったのでしょうか。
解剖はお互いの立場のためにもするべきだったのでは。
(実際はトンデモ病理医がわけのわからない
 病理診断をしてくれるおかげで、臨床医が翻弄されることもありますが)



医師の立場からすると、今回は解剖の話を持ちかけたから
良かったものの、もししてなかったら、
家族「事実を教えてください」
医師「カルテなどを開示します」
家族「なぜ、解剖の話をしてくれなかったのですか、
    なにかを隠そうとしているのですか」
医師「・・・」
となりかねません。

前の職場の部長が患者が死んだときは必ず
解剖を薦め、断られたら全身CTを薦めなさい
と教えてくださったことの意味を再確認しました。




通りすがりの勤務医さま

概ね同感なのですが、
もしかしたら、
>医者の説明不足もあったのかもしれません
>保身に走って上手く説明できない医者もいますから
は通用しなくなっているのではないでしょうか。
医師の仕事は
 ・医療行為の全て
から
 ・より専門的な医療行為
 ・患者への説明
 ・チームのリーダー
へシフトしているのだと僕は思っています。

だから、説明が上手くできないとかコメディカルに信頼されないというのは、
全く守備が出来ない野球選手みたいなもので、
超絶にバッティングが上手いとかで無い限り、
評価されないのではないかなぁと思っています。
いかがでしょうか。





by もと救急医 (2008-08-03 08:02) 

なみ

コメントありがとうございます。

私自身、誰かを責める?医者?違います。自分を責めてるのです。

あの時、母の生死と向き合えなかった自分の未熟さを責めてるのです。

医者を責め立てたところで何になるのでしょう?私が同意書サインしたという自分の心根は消えません…。

私は人の死を知って死を知りました。
今は死ぬのが恐いです。
これが生ということなの?

死はみな寿命だったと思いあの時の自分を許していいのだろうか…。

ますます自分勝手で偏屈な感情。

素直に母の死は寿命だったと思える日が早くきてほしい。

突然の死…どうやって向き合ってますか?
by なみ (2008-08-05 02:13) 

通りすがりの勤務医

もと救急医様

>だから、説明が上手くできないとかコメディカルに信頼されないというのは、
>全く守備が出来ない野球選手みたいなもので、
>超絶にバッティングが上手いとかで無い限り、
>評価されないのではないかなぁと思っています。
>いかがでしょうか。

いやぁ、つい最近、近所の大規模病院で
医療事故をナァナァで誤魔化したと伝え聞きました
あとで問題になるだけなのになぁと心配しています
大病院ほど幹部の質が問われますよね
幹部がアホだと、マトモな調査さえしないようですよ
当事者となった主治医は可哀相なものです

なみ様

肉親の死を受け入れることができず、ご自分を責める気持ちはわかります
それを乗り越えていくのが死の受容なのですよ
でもね、「事実を知りたい」って気持ちが理解できません
誰にとっての「事実」なのか?
「真実」と「事実」は違うのですよ
大野病院事件とか大淀病院事件とか、医者は過敏になってますから
それと、「同意書にサインした」って、何の同意書なんでしょうか?
よく分かりませんが、主治医は最善の方法と思って治療方法を説明してたと思います
それを信用するかどうか、ってことですよね?
その時点でサインしてなかったらどうなってたのか、考えてみてください
医者の判断が絶対正しいとは限りません
でも、最善と思った方法を提示してるはずです
それに同意して、結果が悪かったからといって、納得できないのでしょうか?
キツイようですが、はっきり言わせてもらいます
寿命です
人間は必ず死ぬのです
親が子供より先に死ぬのは自然なことです
それが病気によるものなら、受け入れるしかありません
自分を責める必要もなければ、他人を責める必要もないことなのです

もう一つ
死ぬのが恐いと思う感情は大切です
それを理解しない人が他人の命を軽んじているのだと思います
最近、嫌な事件が増えてますから。。。。

by 通りすがりの勤務医 (2008-08-07 01:10) 

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