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「真実を知りたい」に対する私見 [雑感]

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昨日は、日比谷公会堂に行ってまいりました。
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「医療現場の危機打開と再建をめざすシンポジウム」

・報道記事 ⇒こちら (魚拓
・シンポジウムの詳細は、ロハス・メディカル・ブログで報告されています
 ⇒議連発足記念・真の公聴会
・続いて僻地の産科医先生のところも
 ⇒こちら

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このシンポジウムを聴講するためです。 残念ながら、私事があり、中座せざるを得ませんでした。

国会議員の先生方に、現場の医療者が抱える現場の生の危機感が、それなりに伝わったのではないでしょうか?私は、そう期待したいです。

一方、患者側の立場として、NPO法人がん患者団体支援機構副理事長である内田絵子氏の発言もありました。

そのご発言の中で、やはり、意見の相違というか、立場の違いというか、落としどころが見えないというか・・・・

私が個人的にそんな風に感じたご発言を報告します。

(#)「私達(患者側)は、真実を知りたいんです」
 というご発言です。

医療をお受けになる方々は、医療に対して、このようにお考えの人も多いでしょう。 それは、なんとなく感じます。だから、本日は、この点に対して、私見を述べてみます。

もちろん、これは、一医療者の私見にすぎません。医療者側の総論的意見であるとの誤解のなきようにお願いいたします。

「私達(患者側)は、真実を知りたいんです」とは、メディア報道を介してよく聞く台詞です。 自然災害であれ、殺人事件であれ、交通災害であれ、人が死んだとき、 その遺族側の方々の台詞として、私達は、この台詞を耳にします。 そして、医療関連の場合でも、その例外ではないようです。

「死」という結果においては、すべて共通するわけですから、同じ心理がベースにありそうです。

私は、今の現代社会が、「真実」「真実」と社会を挙げて騒ぎ立てることによって、かえって、よりいっそう暮らしにくい社会になってしまっているのではないかと危惧します。 

真実になんて、だれにもわかないものだ。 

と割り切ってしまったらどうでしょう?

人は、真実の名の下に、 物事に善悪のラベルをつけ、悪のラベルを貼った人を糾弾してやろうという性質があると思っているからです。

今の医療崩壊の一端は、こういう社会性が、一因となってはいないでしょうか?

中国の思想家、荘子(そうし)およびその一派によって記されたという「荘子(そうじ)」という書物の中の内扁・斉物論(さいぶつろん)から、ある一説を引用します。この部分は、荘子自身の記載といわれているようです。

吾は蛇蚹蜩翼を待つ者か。悪んぞ然る所以を識らん。悪んぞ然らざる所以を識らんと。

蛇蚹(だふ)とはヘビのうろこのこと、蜩翼(ちょうよく)とはせみの翼のことだそうです。この漢文の言わんとするところは次のようなことだそうです。

ヘビはなるほど歩く場合にうろこがあるから歩ける。うろこによってヘビは動いているともいえる。けれども、ヘビがなければうろこが動くわけではないから、うろこはヘビによって動くということかもしれぬ。ヘビがうろこによって動くか、うろこがヘビによって動くか。どっちがどうかわからぬ。セミは翼によって飛ぶということかもしれぬ。けれども、翼はセミがなければ飛ぶこともできない。どちらがどうか、これもよくはわからぬ。結局世の中に議論する、善悪を論ずるといったところで、善というものが真の善であるか、悪というものが真の悪であるか。可が可であり、不可が不可であるか。その判断が付かぬ。 (荘子物語 諸橋轍次 講談社学術文庫 P113)

医学上の因果関係を論じていこうとする場合、まさに、この蛇蚹蜩翼(だふちょうよく)です。「蛇蚹蜩翼」は、持ちつ持たれつの関係にあることを表す意味の熟語として用いられているようですが、ここでは、因果関係をどちらかに無理やり白黒つけようとしてもつけらないということの意味として受け取っていただければ幸いです。いろんな病態仮説を繰りだせば、それはそれになりに確率論としては、考えられてしまい、それらに対してそれ以上、因果関係を突き詰められないということがままあると私は言いたいのです。

今、厚労省は、「真実を知りたい」という社会風潮に乗っかり、国を挙げての調査システムを作ろうとしています。

そこからでる結論や判断を、ここでは仮に、真実としておきましょう。

私が予想するには、
「・・・・という可能性もあるが、XXXXも考えられ、断定はできない。」
という玉虫色の真実が続々と出てくるでしょう。
「明らかに医師が悪い」
というきっと期待されているであろう真実は余り出てこないのではないかと思っています。

さて、そんなとき、(#)を主張される方々に、ご納得いただけるのでしょうか?

私は、はなはだ疑問です。ぶっちゃけ、本音は、「死」という結果を、医療者のせいにしたいということではないでしょうか? なぜ、そうしたくなるのか? それは、その人個人の問題ではないと私は思います。むしろ、現代社会の当然の産物なのではないかと思っております。

人の「知」は自然を支配しようしてきたし、まだ今もそれをしようとし続けています。そんな現代社会のあり方が、結果として、多くの人々を他責的にさせてしまっているのではないでしょうか? 参考エントリー:転倒と訴訟.

とにかく
医療から生じる結果には、真実という言葉では、語りきれないことが十分起こり得るものだ
このことを、多くの方々にわかってほしいと私は思っています。 

この前提を抜きにしたまま、信頼・不信の二元論だけで、論じようとしても、限界があると思います。

(#)を主張する方々の多くは、その背後に「不信」「希望」が隠れていると思います。だからこそ、すぐに「隠蔽」などという相手が悪意を持っているに違いないという表現で、医療者側を傷つけたり、時に身構えさせたりしてるのではないでしょうか?つまり自らが対立煽る言葉を自らで使ってしまうのではないでしょうか? そういうことに、お気づきなんでしょうか? 私がそういうと、彼らは、医療者の態度が、原因なのだときっということでしょう。

私にはよくわかりません。荘子の斉物論的視点からみれば、どっちもどっちなんでしょうかね。

まあ、いずれにしても、政治家の方々に置かれましては、医師の一人一人が、今の現状に失望し、確実に心を折られて、自分の持ち場を去っているということが進行中である現況において、社会的視点から、有益か有害かのバランスを十分に、お考えのうえ、政策を練ってほしいものです。

私は、社会がどちらに転んでも、自分が自分らしく、生きていける道を、粛々と探すのみです。

さて、次の記事で使われている真実という意味は何なのでしょうね?

[記者日記]いやされぬ傷 /埼玉
2001.03.23 地方版/埼玉 28頁 (全354字)
医療過誤で家族を失ったとされる人たちを取材している。大切な人を失ってから時が止まったままの遺族の話を聞くたびに、胸が締め付けられる。2年前、4歳の息子を失った母親はこう言った。「あの日から私には春は訪れません。今年、ランドセルの業者がダイレクトメールを送ってきますが、この春ほどつらい時期はない」。また「医師は、直接死と向き合う仕事をしている。彼らにとって毎日起こることでも、遺族は生涯で数回しかない」と語り、
いやされることのない気持ちを必死で抑えて生活する姿が痛々しい。裁判では、「医療」という聖域が遺族側に大きな壁となって立ちはだかる。また、医療過誤訴訟のほとんどは病院側が勝訴しているのが現実だ。死とミスの因果関係を立証するのは難しい。真実を知りたいと願う強い信念が、遺族を支えている。 毎日新聞社

このような記事が書かれ、そして社会に出てしまうことが、私としては、悲しい限りです。このご遺族に必要なのは、適切なグリーフケアだと私は考えます。真実という言葉に翻弄されてはいけないと思います。これをお書きになった記者には、グリーフケアという視点は見えてなさそうですね。

厚労省の3次思案で、訴訟が減るのでしょうか?

次の記事なんかを目にすると、不信あるところには、システムも労力も時間も多大な無駄骨かもしれません。私はそう思いました。 この記事で表現されている「真実」の意味合いをどうぞ各人でお考え下さい。

県内高校生の異常行動死 タミフル訴訟、争う姿勢 XX地裁XX支部
口頭弁論 機構側、因果関係で
200X.XX.XX 朝刊 29頁 社会 (全1,184字)
二〇〇X(平成XX)年X月、インフルエンザ治療薬「タミフル」の服用後に異常行動を起こし、死亡した県内の男子高校生=当時(17)=について、独立行政法人「医薬品医療機器総合機構」(東京)がタミフルとは別の薬の副作用と判断し精神的苦痛を受けたとして、父親の会社員男性(50)が同機構を相手取り、慰謝料百万円を求めた訴訟の第一回口頭弁論が四日、XX地裁XX支部(XXX裁判官)で開かれた。被告側は全面的に争う姿勢を示した。被告側の答弁書によると、タミフルと異常行動の因果関係などについて争う姿勢で、次回以降に詳しく主張する。次回弁論は十二月五日。訴状によると、高校生はA型インフルエンザと診断され、〇X年X月X日昼に医師が処方したタミフルを服用。数時間後、雪の中をはだしで飛び出し、国道を走るトラックにはねられて死亡した。男性は事故を受け、〇X年X月、同機構に遺族一時金などの給付を請求。同機構は昨年七月、副作用の原因が当日朝に服用した塩酸アマンタジンだったとして支給を認定した。
男性はタミフルの副作用が認められなかったことを不服とし同八月、厚労省に審査を申し立てたが、却下された。男性は遺族一時金の受け取りを拒否し、今年七月、提訴に踏み切った。
◆「真実が知りたい」 父親、副作用の解明期待
「親として
真実を知りたい」―。タミフル服用後に死亡した県内の男子高校生をめぐり、タミフルと異常行動死の関係解明を目指す全国初の民事訴訟。高校生の父親で原告の男性(50)はX日、XX市内で会見し、「真相が明らかになることで同じような被害の再発防止につながるのではないか」と訴えた。十七歳だった男性の長男は二〇〇X年X月、タミフル服用後に自宅から国道に飛び出し、トラックにはねられた。「自殺するような子ではないのは親が一番分かっている」と男性。「薬害タミフル脳症被害者の会」の一員として、タミフルの副作用による異常行動を指摘し、タミフルの使用禁止を呼び掛けてきた。だが、副作用被害かどうか審査する「医薬品医療機器総合機構」に遺族一時金の支給を申し込んだが、タミフルの副作用は認められなかった。審査申し立ても「既に遺族一時金などの請求が認められており、判定による申し立て人の利益侵害はない」と却下。真相を明らかにする手段は訴訟以外に残っていなかった。タミフルは、インフルエンザの特効薬として国などが備蓄を進めている。男性は「自分も含めてタミフルの被害者は多い。真実を追求しないと、息子のような犠牲者は増える」と警告する。代理人のXXX弁護士も「機構の認定はいい加減で、根拠はない。科学的より政治的な判断が加わった気がする」と指摘し、「これらを状況証拠などからあぶりだしていきたい」と今後を見据えた。同機構は「裁判で係争中の案件であり、コメントは差し控えたい」としている。XX新聞社

真実=タミフルの副作用=自分が信じる事柄  
こういう文脈であることが、皆様にもご理解いただけると思います。

こういう紛争の落としどころに、蛇蚹蜩翼(だふちょうよく)の荘子の思想が役に立つかもしれないなと私は思っています。

まとめます。

「真実・真実」と主張しても今の医療事態の好転は望めないでしょう

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コメント 13

コメントの受付は締め切りました
AKAMATSU Toshihiro

おつかれさまでした。

真実を知る = 納得
という意味として読み替えることもできますね。

納得とは、曖昧で際限のない望みです。
また医学は、自然科学の中でも確率的な事象がほとんどを占める分野で、しかもその確率すらはっきりとした数字で表すことができない事例が大変多い、簡単に言えば不確かなものです。
真実は、ほとんどの場合、単一の事象として解明されることはまず少ないでしょう。

真実とは、追い求めるほど手にすることのできない望みになってしまいます。そうしますと、近代以降、社会システムとして人間が手にした知恵は、金銭賠償と保険です。真実を知りたい、納得を得たいという望みは、金銭賠償で代替的に満たされるしかありません。これは人の善意で支えるという日本の医療システムを破壊するには充分なエネルギーであることが、昨今実例として明らかになってきましたね。

グリーフケアやメディエータという、金銭以前に心の中で解決をつけることができないと、患者さん側も、お金は得たけど満たされない、ということにしかならず。

そうしますと、医療の過程で不幸に遭った患者さんやそのご家族は、悲劇を繰り返さない、と言いつつ、その主張は他の患者さんの事例で同じ悲劇を繰り返す助力をしてしまうということになるのでしょう。

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以下は現実の事故調議論の話です。

事故調査と医学的科学的究明は、同義ではありません。
事故調査と一言で呼ぶものの中には、医学的科学的な調査 ( 主に臨床医学的・病理学的検討 ) と、死亡事故の原因調査 ( 主に法医学的検討 ) とシステムエラーの調査 ( 主に技術的システム工学的検討 ) という要素があると思います。それぞれ一部は重なり一部は別の話です。

また責任所在の追及と再発防止策の策定は、これらの検討結果と連携しながら、さらにまた別次元の話になってきます。

ここで先進各国や WHO の program、guideline では個人の責任追及はすべきでないことになっています。

患者さんの団体がおっしゃる真実を知りたいとは、これら全てを望んでいるのでしょうけども、しかし、個人の責任追及が、事故調査の各要素を混同しつつ入り込み、しかもその中にシステムエラーの調査という考えは抜け落ちているように思えます。

今の政府・厚労省の事故調の議論は、科学的究明にもならず、事故調査にもならず、システムエラーの解明にもならず、個人の責任追及だけが行政、民事、刑事で残るシステムになってしまいます。

患者さん側が主張される、真実を知りたいの次、悲劇を繰り返さない、すなわち医療の過程に起こった不幸な出来事の再発を防止するという望みもかないません。

by AKAMATSU Toshihiro (2008-04-13 23:12) 

SORA

私も参加してきました。

中座されたようですが、後半の質疑応答を撮影したものを
http://homepage3.nifty.com/sgu03026/080412.mp4
に置いています。
画質音質ともよくはありませんが、よろしければご覧になってください。
約1時間/100MBあります。最新のQuickTime等で再生できます。

なお、私は患者側という立場になりますが、あの方の意見にはかなり違和感を感じました。

by SORA (2008-04-14 00:00) 

一般人です

こんにちは。

あー、なんで、こんなことになってしまったんでしょう。

悪循環です。

ほんとに、ほんとはどっちもどっちなのだと思います。
どちらも人間ですから。

心のケアも、どちらにも必要かもです。


患者不信がこれ以上進まない環境がととのってほしいです。
患者の態度がそうさせるって言われてしまうのかな。。。


by 一般人です (2008-04-14 14:03) 

田舎の一般外科医

やはり,「真実を知りたい」=「誰かのせいにしたい」だと思います.
by 田舎の一般外科医 (2008-04-14 14:49) 

組長

久しぶりにコメントさせていただきます.

「真実を知りたいから裁判に‥‥」と言う論調を良く耳にしますが,これに対してなんちゃって救急医先生も以前記事に書かれていたように,昨年の日本救急医学会総会で現職の裁判官の方が講演で「裁判で真実を明らかにするのは裁判官の仕事ではなくて,原告と被告の仕事」と言うニュアンスの発言をされていたのが個人的にはかなり衝撃的でした.
「何が真実なのかを裁判官にわかるように説明するのが仕事」だと言う論調でした.「裁判官の仕事はそれらの説明を元に法に基づいて判断するだけ」だと‥‥

それ以前からも田舎の一般外科医先生と同じように思ってはいましたが‥‥

仕事のしにくい世の中はこれからも続きそうな気がしてなりません‥‥
by 組長 (2008-04-14 15:29) 

事務方の星

はじめてコメントさせていただきます。
私は医師ではありませんが、病院の事務方として約30年働いていますので、医療側という立場になるでしょうか。

田舎の一般外科医さんにコメントをパクらせて頂くと
「真実をしりたい」=「誰かのせいにしたい」←それも自分が求めている結論で ということでしょうか。

私も仕事柄、クレームというか、言いがかりの対応をすることがあります。病院側として真摯に受け止め、反省しなければならないことも確かにありますが、そこまで求められてもいうのも多々あります。

医療は不確実なもので、絶対ということはないものです。病気を患うことは原因のはっきりしていることもありますが、神のみぞ知るという「天災」的な意味合いも強いと思います。それをどうしても「人災」にして、犯人を作り上げたいという風潮が強くなってきているように思います。台風や地震で被害にあって誰かのせいにするのでしょうか?悲しいけどするんでしょうね。だけど、天災は避けられないのです。その被害を未然に少しでも防ぐ、または受けた被害の修復を必死でしている医療者を責めないでください。真実という不確かな言葉を使って・・・(少し悲観的になりました・・・)

by 事務方の星 (2008-04-14 16:37) 

moto

わたしは、まあ、例によって、変な見方してしまうんですが・・
件の患者会のかたは、ブーゲンビリアというNPOの主宰者のようです。
http://www.buugenvilia.com/
で、ここをみると、医療過誤とか、薬害とかと闘う患者団体じゃないです。その内田絵子氏が、なぜ「真実をしりたい」などと、このシンポジウムで発言されたのか・・
「ブーゲンビリアの歩み」http://www.buugenvilia.com/ayumi/index.htm
を見ますと、この会が、ここ数年で順調に伸びてきているのがわかります。この2年ほどは、各種助成金もらうのにも成功しています(団体が助成金目当てだ、っていってるわけじゃないですよ。助成金をもらえるほど、活動が認められてきている、ってことです)。
患者会ですから、さらに大きくなるには、患者の声を広く代弁していかなければなりません。いろんな患者会と交流して、いろんな意見を聴くでしょう。
そのなかで、内田氏の耳に強く残って「これはインパクトあるな」と感じたフレーズが「患者は真実を知りたい」なんじゃないかしらん。
言いかえると、内田氏、このフレーズについて、あんまり深く考えることなく発したのかも・・
by moto (2008-04-14 19:38) 

なんちゃって救急医

>SORA様

ありがとうございました。おかげさまで後半を全て見ることが出来ました。

by なんちゃって救急医 (2008-04-14 19:38) 

某P医

わかりやすい言葉は届きやすいけれど、
こみいった言葉は届きにくいんですね。

「また医者が難しい事を言って誤魔化そうとしてる」
「遺族は真実を知りたいだけなんですよ」
とかね。

感度・特異度を、シロウトの人に納得できるように説明できるでしょうか。

「ヤモリの黒焼きのむようになってから調子いいんですよ センセイ。結局効いたってことじゃないんですか」と、
「その処置をした後で死んでるんだから、その処置が原因に決まってるじゃないですか。屁理屈はよして下さい」は等価。
by 某P医 (2008-04-15 06:27) 

雪だるま(患者側)

こんなこと書いたら、集中砲火を浴びてしまうのでしょうか。
私は、内田絵子氏の発言は、バランスとるためにも、あってよかったと思いました。

やっぱり知りたいです。詳しく。
将棋で言うなら、感想戦です。
(保険診療にそこまで期待していいのかわかりませんが。)
生死をかけたのですから、ぜひ感想戦をお許しいただきたいのです。

私は知る過程で、医療というのは限られた資源であることを学びました。
私の訴える相手は、医師でなくて行政であることがわかりました。
(訴えませんでしたが。ヘタレですみません。)
もしかしたら、真実を知りたい人の中には、真実が理解できるように
なる人も いるかもしれません。

私という体には、痴呆も、脳性まひも、染色体異常を起こす卵子も、
癌になる仕組みも、そのほかさまざまな欠陥が、あらかじめ準備
されている。イケイケゴーゴーだと思っていた健康な体は、実は
ぜんぜんイケイケじゃなかった。私は、最終的には死ぬ欠陥品。
なんて、当たり前のことが まざまざと実感できました。

知ることはとても楽しいです。どうか、お許しくださいませ。
by 雪だるま(患者側) (2008-04-15 13:25) 

なんちゃって救急医

>知ることはとても楽しいです

ありがとうございます。 そうですね。

>最終的には死ぬ欠陥品。

こう考えてみては? 最終的には死ぬ完成品。

人間は、相対の中で生きていると思います。
そういう意味では、欠陥も完成も同じこと。

荘子を読むうちにそんな境地になりつつある最近です。

by なんちゃって救急医 (2008-04-15 13:35) 

雪だるま

なんちゃって救急医先生、コメントありがとうございます。
荘子は、もう忘れきってしまいましたので、読み直します。

私は自分のことしかわかりませんが、先生方は沢山の患者さんに
対されておられます。その上で、上のエントリーのように
お考えになったり、もはや「敵」扱いするしかないとお感じになる
先生もいらっしゃることを考えれば、相互理解、歩み寄りなど
お題目に過ぎないのかもしれません。甘いです。

それでも、
 「真実など、ない」
という結論は、外から与えられるものでなく、内からの気づきで
ありたいと思います。それは「死の意味を考える」のエントリーで
先生がお書きの
 「あのとき・・・・すれば、助けられたのではないか」
を外部から強いられれば後ろ向きになるのと対を成すように感じます。


私は「私は欠陥品である」というセルフイメージを持つことが
ことに産科の患者として重要だと考えています。人はなぜそんなに
流産死産で悲しむのか。いえ、悲しいですが、自責の念を持つのか。

死んだ子供は見えません。流死産の話は忌まれ、話す人は少ないです。
障害児者も外には あまりいません。まわりにいるのは健常児者ばかり。
懐胎される子供は必ず全き者という勘違いを起こし、全き自分が
全き胎児を宿したにもかかわらず流死産を起こしたのだから、
なにか原因があったのではないかと考えるのではないでしょうか。

原因を求める方向が自身に向かって自責になると思います。
自責を感じる人の少ない世の中に、していきたいと思っています。

先生に「完成品」と書いていただいて、うれしかったです。
死ぬときには、「ああ私は完成品」と思いながら死んでいこうと思います。
by 雪だるま (2008-04-16 14:28) 

SHIBATA Akira

はじめまして、ところどころ拾い読みするなどしてここにたどり着きました。

真実に関しては下の URL がまさにあたり、ひとは 2000 年前も今も変わらないということを知ることができます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111449036

いろいろな症例をみて、仮に当方が家族を急性の何かで亡くしたらと考えたとき、訊いてみたい質問は
「最善の努力をしてくださいましたか?」
と問うことくらいです。
まぁ当然に Yes と回答があるハズですが…

人は大抵は生まれて 100 年くらいでほとんど死ぬわけですから、おしなべた単純計算で一年以内に死ぬ確率は 1% 、今の年齢を 100 から引いて残った数字以内に死ぬ確率はほぼ 100% なわけで、医師がどんなに努力してもそれらの数字は劇的に変わることはないハズなんですね。
ここでいう劇的ということは先人の多大な貢献で、生きられる期間が非常に延びていることは感謝していますが、 200 年も 1000 年も生きられるようにはならないということです。


では、人はもっと人の死ぬところを経験しないといけないのかなぁ、あるいは宗教という仕組みが死について何らかの精神的救いを説かないといけないのか、などなどいろいろなことを連想します。
今回は当方の「人は自分の見たいもの」を真実として受け入れたい衝動からわたくし自身を戒めるよい機会になりました。
ありがとうございました。


by SHIBATA Akira (2008-05-31 15:50) 

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