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泣かせてあげてますか? [医療記事]

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我々医療者は、適切な医療を提供するという社会的な責務がある。当然のことだ。世間の我々に対する要求がいくら厳しくなろうが、この建前は変わる事はない。
適切な医療行為とは、何も救命をすることだけではない。ある患者の病状を、その時その場にその個々の患者に相応する医療水準において、助かるのか、助からないのか? のジャッジを行い、結果、助からないと判断したときは、その別れの場をどのようにセットアップしていくのが良いのか? そんなことにも配慮する必要があるのでないか

言うのは簡単であるが、行なうは難しである。

このような配慮をするにあたり、医学という自然科学の思考に加えて、患者や家族の社会背景や価値観、現代社会の一般倫理観など、様々な要因を加味して、個々の症例において様々な配慮が要求される。かなり高度な総合的な人間力を要するといえるのかもしれない

本日のテーマは、患者と家族の別れの場について触れてみたい。

症例  88歳女性  発熱、呼吸困難

88歳女性が、重症肺炎でICUに入院となった。 受け持ちは、医師2年目の私だった。  数日前から全身倦怠感を訴えていたとのこと。ある日、たまたま来訪した孫娘が、元気のない患者の様子に気が付き、救急搬送となった。 WBC 23000 CRP 45。 右肺野には著明な浸潤影。 脱水も著明。 翌日、呼吸状態悪化し、人工呼吸管理となった。さらに、翌日、血圧低下と尿量減少が出現。 

私と当時のチーフレジデントは、この時点で、ギアチェンジを図った。 つまり、「助ける」から「看取りへ」のギアチェンジである。

その日、私はたまたま当直明けだった。 当時の私には、殆んど徹夜の救急外来当直が月に7~8回課せられていた。しんどかった・・・・・。

それでも、その日の昼14時ごろ、 ICUの個室で、私が家族(娘)に病状説明を行なった。  

私の話を聞いていた娘が泣き出した。 当時の私は、その涙を無言で受け止めるだけだった・・・。私はどうしたらいいのかよくわからなった。

私は、この患者を自分で看取りたかったので、当直明けでふらふらであったが、家へ帰らずに、医局のベッドで仮眠した。

眠りに付いたと思ったら、17時ごろ、ポケベルがなった。ICUからだった。 患者の孫娘(看護学生)が、説明を聞きたいとのことであった。

今の私なら、さっさと説明の窓口は家族のキーパーソン一人に統一するので、たとえこのように言われても冷たく拒絶するかもしれない。
が、当時の私は、何も考えずに、はいはいと、ばかみたいに同じ説明を孫娘にも行なった。

そのときすでに患者の状態は、ほとんど尿量もなく、昇圧剤もほぼマックスにもかかわらず血圧は低空飛行であった。

「今晩だな・・・・」 チーフレジデントの予測だった。
チーフレジデントの計らいで、看取りのための個室が一般病棟に用意された。 

そのときだった。孫娘から、突拍子もない申し出がなされた。

「死後の処置に私を参加させてください。私、一度も人の死に目に出合ったことがないんです。お願いします。」

「え・・・」 ちょっとびっくりした。 でも、その希望に答えてあげたかった。チーフレジデントのOKをもらい、看護師サイドへは、私が交渉してOKをとりつけた。

チーフレジデントの予測どおり、患者は、その日の夜、逝った。 私が死亡宣告を行なった。 孫娘は、希望通り死後の処置に加わることが出来た。

患者を看取る経験がまだまだ乏しかった当時2年目の私の経験をベースに、一部に脚色をいれた話でした。
この患者家族からは、後日、すごく感謝されて、孫娘からは、丁寧なお礼の手紙までいただいたケースであった。

当時の私は、チーフレジデントの指揮下で、ちょろちょろ動いただけあったが、今振り返ってみると、患者と家族の別れの場のセッティングが非常にうまくいったケースではないかと思う。

人生の実力  柏木哲夫先生著 から引用する
予期悲嘆というのは、患者さんの死を予期して家族が悲しむことをいう。(中略) 予期悲嘆に関しては様々な研究がなされているが、
非常に重要なことは、予期悲嘆のプロセスにおいて、十分に悲しんでおけば、死別後の立ち直りが早いということである。(中略) 例えば、ホスピスで家族のケアをする時に我々が注意している点が二つある。一つは、「泣くこと、悲しむことはいいことだ」という知識・概念をこちらがしっかり持っていること。二つ目は、家族に十分に泣いてもらう、悲しんでもらうこができるような環境と時間を提供する、という姿勢である。

この本を読んだ後、私の上記経験を振り返ったとき、なるほど、偶然にも柏木先生が指摘するような配慮が見事に行なわれていたケースだったからこそ、家族があそこまで感謝してくれたかなあと思っている。 まとめます。

本日の教訓
家族が十分に悲しめる環境をセッティングしてあげるのも時に重要である。

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コメント 7

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僻地外科医

 最近、私がお看取りをすることは減ってますが、私が立ち会う場合には必ず実施していることがあります。
 患者さんのご家族に死期間近の頃に、「麺棒に水を含ませて、水を吸わせてあげる」です。日本は多かれ少なかれ仏教感の強い国ですから「末期の水」という観念が強く残っています。また、仮に仏教徒でなくても同様のことをすることに異議を唱えるキリスト教徒も神道の信者もいないでしょう。
 まさに先生のおっしゃる「患者と家族の別れの場のセッティング」だとおもいます。
by 僻地外科医 (2007-08-10 20:52) 

某P医

「泣くこと」の重要性について、医療者はもう少し意識を持っていいと思っていましたので、とても共感できるエントリーでした。
付け加えると、「すすり泣く(weeping)」でなく、短い時間でいいから「声をあげて泣く(cry out)」が出来ると、回復が早くなるという研究があります。
実際外来でしくしく泣いている患者に、声をあげて泣くように指示すると、最初はとまどいますが、帰るときにはすっきりとして帰ります。
「声をあげて泣く」セッティングというのも重要だと思いました。
by 某P医 (2007-08-11 08:12) 

元なんちゃって救急医

>僻地外科医様

コメントありがとうございます。末期の水とはいけてますね。参考になりました。

>某P医様

コメントありがとうございます。 なるほど、なき方の違いですね。
とても勉強になりました。
by 元なんちゃって救急医 (2007-08-12 11:07) 

こんた

救急医療に縁の薄い医師ですが、今日のエントリ、とても身近に感じました。

"臨終の主役は患者さんとご家族で、医師は脇役で演出家みたいなものだ"
"家族の前に立つんじゃない"

看取りで張り切る研修医に対して口にする、自分の考えです。

後一つ、
"腕時計を忘れても、院内PHSの時計や看護師の時計で時間を確認するな。PHSはみっともないし、看護師の時計は安っぽい。せめて、ご家族の時計にしろ。思い出になるから。"
by こんた (2007-08-13 16:55) 

匿名

日本人が畳の上で死ななくなったのと相前後して「湯灌」という風習もほぼ完全になくなったのでしょうかね。田舎では残っているのでしょうか。
なくなられた方のご遺体に、家族がコミット/タッチする(死語の処置をする)というのは昔は当たり前に行われていたはずですが…
by 匿名 (2007-08-13 22:07) 

元なんちゃって救急医

>こんた様

コメントありがとうございます。 ご家族の時計にしろ・・・
いいお話をありがとうございます。私も今度これをやってみます。

>匿名様

コメントありがとうございます。「湯灌」・・私も経験ありません。
たしかに、死=病院、死=身近でない  今はそんな時代。
社会として、考え方を見直す時期に来ていると思います。
by 元なんちゃって救急医 (2007-08-13 22:22) 

otankonasu

こんた様
研修医にそのように、ご指導されているのですか。それは良いのですが。
確かに低賃金の看護師には、ヤスーイ時計しか買えません。医者はもう少しマシな時計が買えるでしょうけど。
本来女性には禁止されているはずの、深夜労働中の短い仮眠時間の安全
さえ確保されていませんし。(別にあなたのせいではないですが)
ごめんなさい。つい、カチーンときて反応してしまったものですから。
でも、少し言動には注意なさってくださいね。
by otankonasu (2008-02-24 01:24) 

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