SSブログ

自分の家に帰れたある老人の話 [救急医療]

 ↓ポチッとランキングにご協力を m(_ _)m
  

「死」という問題は、一人ひとりに必ずいつかは訪れる決して避けることのできない問題である。特に高齢者自身や高齢者を介護する立場にある方々にとっては、よりいっそう切実なる問題だと思う。「死」はとても個別的な問題であり、社会的に統制することの難しい問題でもある。しかも、人間が本来持ち合わせている「生への固執」という本能故に、「死」は、つい社会から遠ざけたくなる問題であることも事実である。

しばしば、救急の現場では、予期せぬ急変で、何の心の準備もなしに、いきなり唐突に「死」の問題に直面さぜるを得ないことがある。そんな場合に患者やその家族がとまどうのは、まだ無理もない。しかしながら、十分に「死」の問題について時間をかけられたはずの臨床経過が存在するにも関わらず、関係者(医療者さえ含む)が誰一人として「死」の問題に直面してこなかった(あるいは直面させなかった)という症例に救急の現場で遭遇することも少なくない。

その一方で、ずいぶん昔に、こんなケースも経験した。今にして考えてみても、このご家族は、「死」に対してしっかりと芯の通った覚悟を持っていたものと思う。今思い返しても本当にたいしたものだと思う。

81歳 男性  左半身麻痺、意識障害

元々ADLは自立していた方。突然の左半身の完全麻痺で救急搬送。脳梗塞の急性期との診断で入院となった。3日後、意識レベルがダウン。JCSⅢ-200となってしまった。なんとか脳浮腫を抑えたいところであったが、厳しい状況と思われた。それでも当時の私は、指導医であったT医師といろいろと相談しながら、積極的に加療していこうと思っていた。その矢先のことである。家族から、突然の申し出があった。

娘 「 退院できないでしょうか? お家に帰らせてほしいのです」
私 「とても、戻れる状況でないです。無理です。」

娘の決心は固かった。

娘 「父は、ずっと前から死ぬときは、家で死にたいと言ってたんです。
   お願いします! 家で看取りたいんです。」

私 「・・・・・。わかりました。検討してみます。」

私は、その勢いに負けた。 T先生に相談を持ちかけた。

私 「○○さんのとこのご家族が、家で看取りたいと言ってます。」
T医師 「へえええ・・・。珍しいね。 ん、いいんじゃない。」

指導医は、あっさりと退院を許可した。 そこで、私は、考えた。

・もしかしたら、理想と現実のギャップを感じて、すぐに病院に戻ってくるかもしない。
・往診してくれる医師との連携が必要だ。
・当院の救急外来との連絡も必要だ。

私は、いろんなことを考えた上で、もう一度娘と話をした。
それでも、娘の決心は変わらなかった。

種々の根回しを終えて、病院のドクターカーで、私が同乗し、患者を家まで送り届けた。

その別れの際、娘は、泣きながら、何度も私の手をしっかりと握って、お礼を言ってくれた。

当時の私は、何もしないことでこんなに感謝されるなんて・・・・・と考えていた。

患者は、翌日の昼過ぎに、呼吸が止まり、その後、往診医師が死亡確認をしたと報告を受けた。
私が根回ししておいた救急外来に患者が戻ってくることはなかった。

患者さんは、かねてからのご希望通りにお家に亡くなることができたのであった。

住み慣れた家で最後を迎えたい。迎えさせてあげたい。

多くの人が、考える、いわば「死」の理想形かもしれない・・・・
しかし、現実は、理想とは異なり、さまざな物理的問題や「不安」を代表とする精神的問題などがあって、そのハードルは高いといわざるを得ない。それが現状ではないだろうか?

でも、こんな風に考えるとなんだかそれが出来そうな気にならないだろうか?

あなたも私も仕事が終われば家へ帰る。それと同じように人生という仕事が終わるときは家に帰ろう。

これは、ある冊子の表紙に書いてある文章からの引用である。
その冊子とは、このブログ上でも一度紹介したことがある ⇒ 思い通りに死ねない日本社会

「あなたの家にかえろう」という在宅での看取りを支援するプロジェクトから出ている冊子のことである。
http://www.reference.co.jp/sakurai/

この冊子は、本当に良くできていると思う。まず、言葉が優しい。そして、イラストも優しい。在宅での看取りを考えておられる方には、本当にお勧めの一冊だと思う。

この冊子から、また別の箇所を引用紹介する

健康なときは、自分自身や自分自身の大事な人の障害、病気・・・まして死など、とても考えれらないし、縁起でもない。しかし、今生きている人すべてに、いつかその時は訪れます。この冊子は、「住み慣れたところで最後まで」と願う人たちへの道しるべです。
病院での死が増えると同時に、死は人々から遠くなってしまいました。家では、家族や周りの人々の役割が増える分、死は近くなります。しかし実際、旅立つ姿を自分の目で見て、その手で触れるのは、とてもつらいことです。去り逝くこと、看取ることとは、本来苦しいもの、悲しいもの。楽なものではありません。しかし、死を見つめるとは、生を見つめることに他なりません。その中で何か言葉を越えたものが伝わってくる。温かいこともあれば、良いことではないかもしれない。しかし、何かが伝わる・・・・。それが「いのちのバトン」というものかもしれません。
「生・老・病・死」が医療にとりこまれ、日常から隔離されてしまいました。20世紀の科学の進歩は、人々に幸せをもたらすかに見えましたが、必ずしもそうではなかったし、また医療の進歩も例外ではありません。日常のほとんどを専門家に依存して暮らしている私たちは、自分自身の最後をどこで迎えるか・・・ということさえおまかせしなくてはならないのでしょうか。

多くの人たちが、身近に「死」を感じること、感じれること・・・・・その延長上で在宅死が当たり前に思えること。そんな社会変化が、間接的長期的かもしれないが、医療崩壊を回避する一助となれないだろうか? 少なくとも私は、そう思っている。

私は、自分がまだ駆け出しのころに、この患者さん、この御家族に出会えたことに感謝している。


コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 7

コメントの受付は締め切りました
のりぞう

 高齢者福祉の仕事してますけど、ここまでしっかりした意志をもつ家族の方ってほとんど見たことありません。脳梗塞の急性期であれば、娘さん以外の家族どなたかが必ず反対しそうですし。日ごろから本人さんが何度も何度も「絶対に家で死なせてくれ」と意思表示をしていたんでしょうかね。
 自分が亡くなる時にも誰かに何かの思いを残せるだろうか、職場で接する利用者さんの死から何を感じ取れるのか、昨日のエントリーとあわせてとても考えさせられます。
by のりぞう (2008-03-20 00:45) 

駅弁医学生

死は忌避すべき問題であることに加え、突発的な事故、事件での死を除くと、多くの死は病院の中(医療の中)にあるので、死につて考えることが難しくなっている部分もあると思います。死を、医療の中にあるものではなく、生の終わり、生の一部分と捉えて考える人が増えれば、他罰的医療訴訟も少なくなるのではないでしょうか。
by 駅弁医学生 (2008-03-20 03:01) 

沼地

>多くの人が、考える、いわば「死」の理想形かもしれない・・・・
しかし、現実は、理想とは異なり、さまざな物理的問題や「不安」を代表とする精神的問題などがあって、そのハードルは高いといわざるを得ない。それが現状ではないだろうか?

ハードル高いです。
心配なのは最良の場合と最悪の場合が考えられることだと思います。

助産院でのお産みたいなもの。
健康なお母さんから健康な赤ちゃんが自然分娩で産まれる感動。
でもお産は病気では有りません、皆さん助産院でお産をしましょうというのは違うと思いますし。

同じように人生の終わりは自宅でというのは、うまくいけば家族に囲まれて安らかな最後。
しかしこのケースのように数日で勝負が見えてる場合は問題無いのでしょうが、長引けば最悪の場合は介護疲れの心中など最悪の結果もあるかも。

私の祖父母は自宅で亡くなりました。
それぞれ開業している内科医の父、外科医の叔父が看取りました。
まあ在宅医療OKの環境ですよね。

でも4月から始まる後期高齢者保健医療制度には反対です。
自宅で安らかな最後をと本人と家族が希望するようになるのはいいのですが、厚労省から「医療費削減の為に後期高齢者は在宅で安らかな最後をむかえなさい。」と言われるとそりゃないよ〜!!って思います。

最後を迎えるのにふさわしい環境つくりからとか言ってると、理想論すぎるのでしょうけどね。



by 沼地 (2008-03-20 07:47) 

ユメオイ

死を隠そう隠そうとする社会になってきたとは、良く聞きますね。
それこそ「天国にいっちゃうんだよ」っていう。
直面しなければわからないし、考えもしないということなんでしょうか?
by ユメオイ (2008-03-20 15:39) 

ハッスル

胃がん患者さん(50代)で、切除できずにバイパスのみ。それでも食事が摂れるようになり、外来通院を3ヶ月ばかりされました。
その後黄疸、下肢浮腫が出て来て、改めて食事が摂れなくなり、入院されました。衰弱は日増しに強くなりました。
本人を支えているのはただ1点。”祭りに参加したい”。
物心付いた時から、地域の祭りを生きがいにされた男衆でした。

金銭的に恵まれていることもなく、お世辞にもインテリジェンス(俗に言う)が高いわけでもありません。
ただ、パッションは家族にも受け継がれており、結局半ば朦朧とした意識の中、車椅子で担がれるように祭を見に外出され、翌日亡くなられました。男泣きの息子さんから、丁寧では無いけれど、感謝の言葉をいただきました。

最初から散々振り回されることもあり、知性的でない言葉に口論したこともありましたが、今思い返してみても”いい経験”をさせていただいた、と思います。

”エセ”の知識や”不自然な”環境作りは、最終的に悪だと思います。
死ぬ場所がどこでも死に方(特に死なない人)の問題だと思います。
by ハッスル (2008-03-21 12:39) 

勤務医です。

看取りは 自宅で できるのがよいのでしょうね。
その後で もしもご協力いただければ ご遺体を病理学的に あらためさせていただくことが もっと可能になるのなら もっと医学も進む可能性があります。
ご遺体の搬送にかかる費用とか 病理学的検索にかかる費用とかの 出所が問題になるのですが、研究費として公的な助成がなされないだろうか。
by 勤務医です。 (2008-03-21 22:35) 

なんちゃって救急医

>のりぞう様

こめんとありがとうございます。やはり、そういうご家族は少ないのですね。

>駅弁医学生様

同意です。death educationの更なる充実が必要だと日ごろ考えています。

>沼地様

そうですねよ。ハードル高いですよね・・・・

>ユメオイ様

死を日ごろから考えてきた先人達は、その結果として仏教やキリスト教など各種の宗教を生み出してきたのだろうと思います。

>ハッスル様

鋭い御指摘だと思いました。 死に場所より死に方
ご尤もです。

>勤務医です様

なるほど・・・、在宅死の病理解剖の社会システムというご提案ですね。考えたことも無かったです。
by なんちゃって救急医 (2008-03-22 08:22) 

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。