思い通りになかなか死ねない日本社会 [救急医療]
思い通りになかなか死ねない日本社会だなあと思う出来事が、今日早朝の救急外来でおきた。
75歳男性 当院外科かかりつけの患者。
大腸がん末期。主治医と患者の間には、DNAR(Do Not Attempt Resuscitation:蘇生をしてくれるなという事前の意思表示)の申し合わせが出来上がっていた。万一、急変時、救急外来に来院することがあったら、酸素だけ投与して、主治医をコールしてくれとホットライン横にメモ書きも置いてあった。 つまり、それだけ、死期が近い患者だったのだ。
今朝方、その患者が心肺停止状態で搬入されてきた。なんと、救急隊が、現場で気管挿管の処置までおこない蘇生処置を施しながら当院へ搬入してきた。 救急外来では、当直の内科医たちが中心となり心肺蘇生を引き継いだ。 その蘇生処置に反応し、いったん患者は蘇生した。 そうこうしているうちに、外科の主治医が救急外来に到着。ほどなくして、主治医とご家族に囲まれて、静かに亡くなった。
私は、今朝出勤してきてその出来事を聞いた。
どうして?、なぜ?
望んでもいなかった蘇生処置が行われたのか?
と思った。
やがて、事情が判明した。
たまたま、今日の急変の第1発見者が、DNARの話を一切聞いていなかった家族の一人であったのだ。
そうだったのか・・・・・
ならば、仕方がないかと思った。
「あなたの家にかえろう」という在宅での看取りを支援するプロジェクトがある。
http://www.reference.co.jp/sakurai/
このプロジェクトで発行している小冊子は、とても心優しい配慮の行き届いた一冊だと思う。
その中の一節を紹介しよう。
「救急車を呼ぶ」ということは、読んだ時点で「救命救急に全力を注いでください」という意思表示になります。救急車で望んでもいない処置を受けることになります。あわてないで、先ずは、在宅医に連絡しましょう。 」
救急車をよんでしまえば、DNARといえども、今の救急隊員には、DNARを判断し、蘇生をしないという社会的権限は与えられていない。ましてや、呼んだ家族は、DNARのことを聞いていない。当然、家族は救命処置を救急隊にお願いすることになる。ますます、救急隊員は救命をつくすしかないのだ。
医師が、患者にとってのよりよき人生最後のディレクター足りえるためには、患者の周りの人間関係に十分過ぎるほどの根回しが必要だなあと、この症例を通して、私は強く感じるのだった。
人間の死というものは、自然現象の一つであり、100%避けられない出来事である。その不可避な自然現象に、医師がどうか関わっていくは、つねに難しい問題をはらんでいる。
死の迎え方に対しては、さまざまな考えたがあり、私自身こうあるべきだと自分の考えを他人に強要するつもりは、さらさらない。しかし、国民ひとりひとりが、自分がそのときになったら・・、家族がそのときになったら・・・
そういう問題をあらかじめ考えて意思表示をしておくことがこれからの医療のあり方かもしれないと思う一日であった。
コメント一覧
わたしの大叔母さんのほのぼのしたお話です。お時間があればよんでくださいませ。
http://blog.so-net.ne.jp/kyouteniiretamono/2006-07-28
written by pyonkichi / 2007.03.29 12:33
pyonkichi様
いいお話ですね。ありがとうございました。
「病院にいかない」というのも立派な選択肢だと思います。
written by なんちゃって救急医 / 2007.03.29 14:29
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終末期医療に関する法律 (オーストラリアで緩和ケアナース)
http://pallicare-au.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_b1d4.html
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